第58話 次はユースで
残り十分で、岳の脚が止まった。
いつもの形だった。走が餌を見せる。岳が食いつく。急停止して切り返し、もう一段の加速へ――そこで、加速が来なかった。
来る、と分かった瞬間に、走の身体は半歩前へ出ていた。
出てから、止まった。
喉の詰まりが、まだそこにあった。行けば届く。届けば、フェンスの内側の三人がそれを見る。
半歩のあいだに、走はそれを全部もう一度考えた。
考えて、行った。
理由は、きれいなものではなかった。この一年、走はこの一歩のためだけに走ってきた。四月から十二月まで一ミリも動かない数字を書き続けて、輪の外に立って、毎朝川沿いを回した。その全部が、いまこの半歩の先にある。
行かなければ、走は自分の一年に嘘をつく。
この人の来年は、この人のものだ。走のものではない。だから走が勝手に預かるのは、傲慢だ。
そう言い聞かせて、走は自分の怖さを、ピッチの外へ置いた。
置き切れてはいなかった。置き切れないまま、走は身体ごと入った。
肩が、岳の脇腹に入った。
十二月、三度弾かれた場所だ。角度も、入る速さも、あの日と同じにした。変えたのは、走の身体だけだった。
流れなかった。
走の足がボールに触れた。触れて、押し出した。ボールが二人の脚のあいだから、外へ転がっていく。
初めてだった。
この一年、走が岳から奪ったものは、燃料だけだった。十二月は、三度とも弾かれて、指一本かすらなかった。自分から奪いにいって届いたのは、今日が初めてだ。
岳が吠えた。
言葉ではない。獣の声だ。
走の足元でこぼれかけたボールへ、岳は上体ごと倒れ込んだ。肩と肩がぶつかる。育ちかけの走の身体が、二年ぶんの体重に紙のように弾かれた。走は芝に尻もちをつき、その目の前を、泥をはねながら大きな背中がボールを奪い返していった。
燃料は底をついている。走の診断は、そう言っていた。数字の上で、この脚はもう一歩も動けないはずだった。
それでも岳の身体は、走の設計の外側から、二年分の何かを無理やり絞り出した。
走は芝の上から、それを見ていた。
悔しかった。
触れたのに、持っていかれた。爪先に、押し出したときの感触がまだ残っているのに、ボールはもうあの背中の先にある。
十二月は、触ることもできなかった。今日は触った。触って、それでも超えられなかった。
近づいた。近づいただけで、越えていない。
試合が終わった。
走は立ち上がって、ユニフォームの泥を払った。
フェンスの内側のコーチ三人は、もういなかった。いつ帰ったのか、走は気づかなかった。あの人たちが最後の十分をどう見たのかも、分からない。
岳は膝に手をついて、ピッチの真ん中で息を整えていた。
誰も声をかけなかった。三年の何人かは、こちらを見もせずに更衣室へ歩いていく。今日の実戦が何を意味していたかを、全員が知っていて、だから誰も何も言わなかった。
走はそこから動かなかった。
「東」
岳が顔を上げた。
走は近づいた。近づいてから、自分がこの人にかける言葉を何も持っていないことに気づいた。
勝てなかった。だから何も言えない。
岳のほうが、先に口を開いた。
「お前、いつからだ」
「……何がですか」
「俺の脚を数えるの」
走は答えるまでに、少し時間がかかった。
「四月です」
「四月」
「最初の紅白戦から」
岳はしばらく黙っていた。それから、短く息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「一年、数えてたのか」
「はい」
「気持ち悪い奴だな、お前」
悪口ではなかった。声の温度が、そうではなかった。
「今日、触られた」岳は自分の脇腹のあたりを、一度だけ手で押さえた。「去年は触られなかった。今年は触られた」
「……はい」
「来年、触られるだけじゃ済まなくなるんだろ」
走は答えなかった。
答えると嘘になる。来年、走はもっと伸びる。伸びる予定で、そのために一年を使った。だが伸びると言い切れるほど、走は自分の身体を信用していない。
「答えなくていい」
岳はそう言って、身体を起こした。
立ち上がると、やはり大きかった。一年前と同じだ。走が五センチ伸びても、この人の胸のあたりまでしかない。
「次は、ユースで待ってる」
岳はそれだけ言った。
走は顔を上げた。
その一言が何であるかは、走にもすぐ分かった。
勝負では、まだこの人が上だ。今日も勝ったし、去年も勝った。走が一年かけて届いたのは、脇腹に肩を入れて、ボールを一度外へ出したところまでだった。
それとは別に、この人はさっき、来年は触られるだけでは済まなくなると言った。そのうえで、上で待っている、と言った。
三十人のうち五人から十人しか上がれない場所だ。そこでこの人は、まだ中一のセレクション組の田舎者を、来年ぶつかる相手として数えている。
四月、この人は走を見なかった。走という人間がそこに立っていることに、気づいてすらいなかった。
一年かけて、走はあの眼の中に入った。
胸の奥が、熱くなった。悔しさが引かないまま、その上に別のものが乗った。
「……行きます」
走はそう言った。
言ってから、足りないと思って、言い足した。
「必ず上がります。上がったら、もう一回、同じところに入らせてください」
岳が、走の顔を正面から見た。
しばらく、何も言わなかった。
「……入れるもんならな」
それだけ言って、岳は背を向けた。もう振り返らなかった。
走はピッチに残った。
三月の夕方の風が、汗をかいた身体を冷やしていく。名古屋の三月は、高山よりずっと暖かい。もう雪の匂いはしない。
一年前、走はこのグラウンドの外に立って、あの背中を初めて見た。
あのとき岳は、走を一度も見なかった。眼中に無い、という言葉の重さを、走は芝の外で受け取った。
いま、あの人は走の名前を呼んで、待っていると言った。
一年かかった。
抜けてはいない。数えれば、まだ走の負けだ。
それでも、順番としては、そこからしか始まらない。
走は自分の掌を見た。
まだ小さい。だが、三ヶ月前より少しだけ大きい。この手が、あの背中に届く日が来るかどうかは、まだ分からない。
分からないまま、走は明日も同じことをやる。
朝に心臓を回して、飯を組み替えて、十時に寝る。同じ一日を、あと二年ぶん積む。
走はグラウンドに背を向けた。
寮の食堂の窓に、もう明かりがついていた。




