第57話 届かない背中
三月。岳たち三年にとって、ユース昇格が決まる季節だった。
尾張のジュニアユースからユースへ上がれるのは、三十人のうち、五人から多くて十人。残りはここでサッカーの道を細くする。中学までは全国を狙えた子供の大半が、上のカテゴリーの入口で、静かにふるいにかけられる。
岳ほどの身体なら、当確に見えた。誰もがそう思っていたし、岳自身もたぶん、そう思っていた。
だが走には、別のものが視えていた。
ユースというのは、岳の身体が標準になる世界だ。今まで身体一つで全部を黙らせてきた男が、初めて身体だけでは足りない場所に入る。
コーチたちが最後に見ているのは、たぶんそこだった。
この男が、授かった身体のその先を持っているか。
その最後の査定が、年度末の紅白戦形式の実戦だった。
フェンスの内側に、ユースのコーチが三人、立っていた。
手帳も持たず、腕を組んで、ピッチの一点だけを見ている。走がセレクションで浴びた、各務のあの眼と同じ眼だ。派手なプレーには反応しない。彼らが視ているのは、岳が身体だけの選手か、それとも身体の先を持った選手か。その一点だけだった。
白石が走の近くで、小さく言った。
「黒木を、本気にさせてやれ」
「……え」
「あいつがユースで生きるには、身体だけじゃ足りない。それを今日、思い知ったほうが、あいつのためだ。……お前が、それをやれる」
走は黙っていた。
だが、その言葉の意味は分かった。
この一戦は、走が岳を超えるための試合であると同時に、皮肉にも岳を上で生き残らせるための試合でもあった。
その日も、走は岳の側に置かれた。
もう、誰も面白がってはいなかった。
この一年、田舎の新入りが岳に食らいつく絵は、部の日常になっていた。岳を最後まで走らせられる中一。そういう存在として、走はこの最後の一戦にも、当たり前のように組み込まれた。
走はこの一年で、少しだけ変わっていた。
背が伸びた。肩の幅がついた。四月から十二月まで一四八で止まっていた身体が、この三ヶ月で五センチ、上へ動いた。
もちろん岳との差は、まだ二年ぶんある。埋まってはいない。
だが去年の走が素手で岳へ向かっていたなら、今年の走は少しだけ武器を持っていた。
設計された、育ちかけの身体だ。
そして今年の走は一人ではなかった。
海が、中盤の底にいた。新人戦で走に「一人で守るな」と言った、あの男だ。岳が上がってくる、その裏を、海が締める。走は後ろを気にせず、岳の一歩だけに集中できた。
去年、素手で岳へ向かった走には無かったものだ。
身体が五センチ伸び、隣に盤面を視る眼がいる。走は去年より、二つ武器を増やして、この最後の一戦に立っていた。
試合が始まった。
岳は最初から本気だった。昇格がかかった実戦に、手を抜く理由はどこにもない。
一本目、走は抜かれた。二本目も抜かれた。去年と同じ立ち上がりだった。
だが三本目に、去年は無かったことが起きた。
岳が縦へ抜けにきた瞬間、走の肩が、岳の肩に残った。
去年なら、触れることさえできずに置き去りにされていた。今年は、半歩、食らいついた。
抜かれはした。だが岳の加速が、その接触でほんの一瞬だけ乱れた。
走は戻りながら、自分の右肩を確かめた。
痛くない。
十二月なら、この接触で走の身体は外へ流れていた。今日は残った。三ヶ月で五センチと三キロ。そして冬のあいだ毎日やった、押されても動かない練習が、この一回の接触にだけはっきり出ていた。
誰にも見えない一回だった。
走にだけ、分かった。
走は走りながら、拳を一度だけ握った。
残った。今日は、残る。
十二月、走は三度弾かれた。芝の上で拳が音も立てずに沈んだのを、まだ覚えている。あれから三ヶ月、走は毎晩、押されて動かないための同じ形を繰り返した。誰も見ていない。数字にも出ない。
それが、今日、一回だけ形になった。
次の一本が来るのが、待ち遠しかった。
だが走は岳の中に、去年は無かったものを視ていた。
焦りだ。
あの絶対的で揺るがなかった男が、この一戦だけは必死だった。身体一つで全部を黙らせてきた男が、初めてその身体が標準になる世界の入口に立って、怯えている。
抜いても抜いても食らいついてくる中一が、その怯えを静かに煽っていた。
走は慌てなかった。いつも通り削った。
餌を撒き、無駄な加速と急停止を積ませ、燃料を奪っていく。抜かれるたびに、岳の脚から一目盛りが落ちる。走は抜かれた回数を数える代わりに、その一目盛りを数えていた。
そして今年は、それだけではなかった。
削って削って、岳が失速したところへ、育ちかけの身体をぶつける。
去年は、削り切っても最後に手が届かなかった。空にした相手からボールを奪い返す、その一手ぶんの身体が無かった。
足りなかったその一手を、この冬で伸びた五センチが、少しずつ埋めていた。
――診断。
黒木岳、本気。ラストチャンス。焦りがいつもより燃料を食っている。
残り燃料、二割。
こちらの身体、去年より五センチぶん、届く。
――今年は、届くかもしれない。
走は初めて、自分の診断の中にそう書いた。
だが、その一行を書いた瞬間、胸に別のものが差した。
この試合は、岳のユース昇格がかかっている。
ここで走が岳を止めれば、フェンスの内側のコーチは、それを見る。田舎の中一に後半で並ばれ、置き去りにされる三年。その絵が、岳の昇格にどう響くか。
走には、視えてしまう。
――俺のせいで、この背中が終わったら。
走はピッチの上で、一度だけ喉が詰まった。
そう思ってしまう自分を、走は同時に疑っていた。
あの人たちは三年間、岳を見ている。今日の四十分だけで決めるはずがない。走が一本止めたかどうかで人生が変わるほど、あの査定は軽くない。理屈では、それが正しい。
理屈は正しいのに、喉の詰まりは取れなかった。
小六の準決勝で、走はリクを下げた。守るために、勝ちを捨てた。あのとき走は、誰かの一日を終わらせる側に立った。正しかったと、いまでも思っている。思っていて、いまだに胃の底が焼ける。
あのときの手触りを、身体のほうが覚えている。
勝ちにいけば、この人の道が細くなるかもしれない。
止めなければ、走は自分の一年を捨てることになる。
白石は「思い知らせろ」と言った。あの人の理屈では、今日岳が負けることが、岳のためになる。
走にはその理屈が正しいのかどうか、分からなかった。
分からないまま、走は自分の位置に戻った。
肩は、まだ熱かった。
残り、十五分。




