第56話 岳との距離
年が明けて、走の身体が動きはじめた。
最初に気づいたのは、靴だった。
一月の半ば、スパイクの爪先が窮屈になった。走は自分の足を計り直した。九月から八ミリ大きくなっている。
その週の身体測定で、身長が一五〇センチを超えた。
走は測定器から降りて、もう一度乗った。
同じ数字が出た。
「東、二回乗んなくていいよ」
「……すみません」
列を外れてから、走は廊下の窓に手をついて、笑った。
声は出さなかった。出さなかったが、顔は完全に緩んでいた。通りかかった二年が変な顔をして、走はそれにも気づかなかった。
四月から九ヶ月、一ミリも動かなかった数字が、二ヶ月で二センチ動いた。
うれしい、というより先に、単純に信じられなかった。
八回、同じ数字を書いた。書くたびに、いつか動いた日に分かる、と自分に言い聞かせた。言い聞かせながら、半分は疑っていた。このまま動かないかもしれない、と思った夜が何度かあった。
動いた。
走はポケットからスマホを出した。
出してから、誰に送るのかを決めていないことに気づいた。
母には、たぶん意味が伝わらない。二センチ伸びたと送れば、「よかったねえ」と返ってくる。それで終わりだ。ハルなら「へえ」で終わる。アカネに送るのは、いまは違う気がした。
走は一行だけ打って、母へ送った。
――背、二センチ伸びた。
――じゃあ、もっと食べなさい。
返事は三十秒で来た。走はそれを読んで、また笑った。
その夜、走はノートに数字を書いた。
一五〇。四二。
書いてから、理屈のほうがようやく追いついてきた。
足が先に伸びる。次に脛と腿。最後に胴。伸びる順番は決まっている。順番のいちばん端が動いたということは、そのあとが続くということだ。
来る。
伸びる時期に土台がなければ、伸びた身体は使えない。骨が先に伸びて、腱と筋が追いつかない身体は、ただ扱いづらいだけの器になる。
走はこの九ヶ月、その追いつく側を先に作っていた。
順番を守った。
守ったことが正しかったかどうかは、これから分かる。
走が岳を「黒木さん」と呼ぶのは、この場所の作法だからだ。
二つ上の学年で、絶対的な選手で、走が四月から追いかけてきた背中。呼び方に迷う理由はどこにもない。
それでも走の中には、この人を年上として扱いきれていない部分がある。十五歳を、六十八年生きた人間が見ている。敬語は口から出るのに、感覚が追いついていない。
それを一度も顔に出さないことだけを、走はずっと守っていた。
二月の練習で、走は一度だけ、岳と目が合った。
紅白戦の前、給水のところだった。岳はいつものように上級生の輪の中にいて、走はいつものように輪の外にいた。
岳がこちらを見た。
十二月のあの日以来、この人が走を見る回数が、少しだけ増えている。
走はそう感じていた。感じてはいたが、それが何を意味するのかは分からなかった。
あの日、岳は結局勝った。走は三度弾かれて、ボールを一つも取れなかった。ただ、あの人は走のために本気を出した。そこまでは確かだ。
その先は、測りようがない。「なんで、俺が、先に落ちる」と言ったきり、岳はその問いを誰にも投げていない。走にも投げていない。
答えを聞きに来ることもなかった。
ただ、見る回数が増えた。
それだけだった。
「東」
その日の練習の終わりに、岳から呼ばれた。
走の足が止まった。
名前を呼ばれた。この人に。夏の合宿で監督に名前を聞かれたときと、同じ場所が鳴った。
走は表情を動かさないようにして、振り返った。
「はい」
「お前、飯どれくらい食う」
予想していた質問と、まるで違った。
「……三杯です。朝と夜が三杯で、昼は二杯」
「多いな」
「はい」
岳はそれきり黙った。何か言おうとして、やめた、という間があった。
走は待った。
「……いや。いい」
岳は背を向けて、行ってしまった。
走はその場に残った。
残って、自分の心臓が速いのに気づいた。
三十秒も喋っていない。飯の話しかしていない。
四月に「お前、名前」と聞かれた。答えて、それで終わった。今日は、その名前で呼ばれた。呼んだうえで、この人のほうから話を持ちかけてきた。
あの人が何を聞きたかったのかも、走には見当がついていた。
岳の身体は、この冬、少し重くなっている。走の眼にはそれが見えていた。急な伸びが止まって、かわりに厚みが乗る時期に入っている。動きの切れは、去年の秋より落ちていた。
昇格を控えたこの時期に、それは怖い。
だから飯の話を聞こうとした。そして、やめた。
中一に聞くわけにはいかない。この人にも、そういうものがある。
走はその夜、江口に一つ頼んだ。
「江口。明日の飯のとき、俺の隣じゃなくて、黒木さんの近くに座ってくれないか」
「はあ? なんで」
「頼む」
「意味わからん」江口は笑った。「まあいいけど。おれ黒木さん怖いんだけど」
翌日、江口は言われたとおりに座った。
そして、いつもの調子で喋った。誰にでも喋る男だ。走はそれを知っていて頼んだ。
江口の口から、走が渡しておいた話が一つだけ出た。
冬は汗をかかないから水を飲まなくなる。飲まないと血が濃くなって、身体が重くなる。だから冬こそ飲め。東くんがそう言ってた。
余計なことは何も言わなかった。江口は理由の半分も理解していない。ただ、面白い話として喋っただけだ。
岳がそれを聞いていたかどうか、走は確かめなかった。
確かめないほうがいい。
三月が近づいて、部の空気が変わった。
ユース昇格の季節だった。
三年たちの顔から、少しずつ余裕が消えていく。廊下ですれ違うときの目線が、前より落ちている。誰が上がって誰が上がれないかを、みんな考えている。
岳ほどの身体なら当確だと、誰もが言っていた。
言っている人間の中に、岳本人は入っていなかった。
走はそれを、ずっと見ていた。
二月の終わりの夜、走はノートに書いた。
――一五二センチ。四四キロ。
三ヶ月で四センチ、三キロ。
九ヶ月動かなかったものが、動きはじめた。
書いてから、走はもう一行足した。
――間に合うか。
四センチと三キロで、あの肩に入れるようになるとは思えなかった。それでも、十二月の身体よりは近い。
走はペンを置いて、窓を開けた。二月の名古屋の空気は、まだ冷たかった。冷たいが、高山の二月とは種類が違う。この街の冬は、乾いている。
あと一ヶ月だ。




