第55話 設計図の空白
消灯のあと、走は机の灯りだけをつけた。
一四八センチ。四一キロ。
十二月の数字だった。四月の行と比べて、背は一ミリも動いていない。増えたのは体重の一キロだけだ。
四月から八ヶ月。走がこの身体に入れたものは、全部このノートに書いてある。
その全部で、一キロ。
走はしばらくそのページを見ていた。
同じ数字が、四月から縦に並んでいる。八回、同じ数字を書いた。書くたびに、走は「いつか動いた日に分かる」と自分に言い聞かせた。
八回目は、さすがに長かった。
早く動け、と走は思った。
明日でいい。明日の朝に二センチ伸びていてくれれば、今日の芝の上で、走の手はあの脇腹に入っていた。
そんな伸び方をする身体は存在しない。存在しないと知っている人間が、机の前で本気でそれを願っていた。
走は一度、ペンを置いた。
ページをめくって、走は新しい行を書いた。
――刈り取る手。
少し考えて、その下に線を引いた。
今日、走は同じ場面で三度弾かれた。三度とも、角度も速度も設計どおりだった。それでも入れなかった。
つまり、設計の問題ではない。
足りないのは、接触した瞬間に相手より後ろへ流れない身体だ。それだけ。
走はそれを、要素に分けて書き出した。
一つ。体重。四一キロと六五キロでは、同じ角度で当たっても、動くのは軽いほうだ。
二つ。当たる瞬間に地面を押す力。押し返せるだけの脚と、その力を上体まで通す胴。
三つ。当たる直前に身体を固める速さ。ここだけは、技術に近い。
三つのうち、いま走にできるのは三つ目だけだった。
一つ目と二つ目は、重りを持てるようになってからの話だ。
(――順番が、決まってるな)
中一のいま、走は待つしかない。理由は、重りが危ないからではない。いまの走には、重りを正しく通す道が身体の中にないからだ。四一キロの胴に力を乗せても、力は途中で抜ける。抜けた力は、いちばん弱い継ぎ目に溜まる。
だが待っているだけでは、二年後に何も乗らない。
乗せる土台を、いま作る。
心臓と血の道は、四月から作ってきた。川沿いを四十分、毎朝回した。九ヶ月やって、戻りは一分を切った。
自分の体重を使う訓練も、四月から続けている。片脚で立つ。ゆっくり沈む。止まる。江口と遊びの形でやったのも、元は走が自分に課していたものだった。
積んできたものは、ある。
足りないのは、量ではなく、向きだった。
走はノートに、いまやっていることを一度書き出した。片脚立ち。ゆっくり沈む。止まる。片脚のまま前へ手を伸ばす。
どれも、着地で膝が内へ落ちないための形だ。江口の膝を守るために組んだ内容を、走はそのまま自分にも当てていた。
膝を守るのと、押されて残るのは、別の仕事だった。
走はその下に、書き換えを足した。
片脚で立って、上から押されても動かない。四つん這いで、腰を落とさずに支える。転がった状態から、一動作で立つ。
同じ地味さだが、目的が違う。前は落ちないため。これからは、残るため。
走はその四行を、二度読み返した。
書けば、やることは決まる。決まったのに、腹の底の重さは一ミリも減らなかった。
今日の芝で弾かれた感触は、まだ右肩に残っている。ノートに何を書いても、あの感触は明日も同じだ。書いて済むなら、走は八ヶ月前に済ませている。
(……これを書いて、それから二年か)
走はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
もう一つ、走は書いた。
――今日、俺の呼吸も乱れた。
春の紅白戦では、走は一度も全力を出さなかった。だから最後まで涼しい顔でいられた。
今日は違う。本気の岳に前へ立ち続けるために、走も毎回全力で戻った。走の燃料も確実に減っていた。
結果として、走のほうが少しだけ後まで残った。それだけの差だ。
合宿で海に言われたことが、頭に戻ってきた。
――お前が疲れたら、お前は読めなくなる。
今日の後半、走の眼は、たしかにいつもより浅かった。岳が止まった瞬間に飛び込めたのは、読めていたからではない。予定していた形に、たまたま岳がはまっただけだ。
走はその一行も、正直に書いた。
――後半、読みが浅くなった。二度、勘で入った。
書いてから、少し嫌な気持ちになった。
勘で入って、たまたま合った。そういう日を続けていると、人はいつか勘を実力だと思う。前の生で、走はそういう医者を何人も見た。
最後に、走は一行だけ足した。
――あと二年。
その二年で何を積むかは、いま書いた。
問題は、その二年のあいだ、走の積んだものが外から見えないことだった。
背番号はもらった。四対〇も、一対〇もあった。九番を八十分止めた。合宿で落ちなかった。どれも起きたことで、走はそれを数えている。
数えているのは、走と、海と、たぶん白石だけだ。
中二になれば、岳はいない。かわりに右サイドバックの席が空く。走はそこを狙う。狙って、たぶん最初は取れない。
二年後の身体を待っている人間は、いまの試合に出られない。
走はペンを机に置いた。
部屋の三人は、とっくに布団に入っていた。財前だけが、まだスマホの光を顔に当てている。
走は電気を消して、目を閉じた。
あと二年。長い、と思った。長いと思ったのは、この一年で初めてだった。




