第54話 刈り取る手
後半、二十分。
その一歩が、初めて遅れた。
岳が走を抜きにきて、いつものように加速して――届かなかった。
走が抜かれなかった。抜いたつもりの岳の前に、走がまだ立っていた。
岳が足を止めた。
肩が大きく上下していた。この八ヶ月、コーンを躱すように走を抜いてきた男の息が乱れている。岳は自分の脚を一度見下ろし、それから正面の走を見た。
走の呼吸も、乱れていた。
だが立っていた。この日も数えきれないほど抜かれて、それでも一度も膝に手をついていない。落ちない身体が、初めて意味を持って、岳の前に立っていた。
「……なんで」
岳が呟いた。
「なんで、俺が、先に落ちる」
その声には、この一年、一度も無かったものが混じっていた。
絶対的な身体に裏打ちされた、揺るがない自信。それが生まれて初めて揺れた。身体という、いちばん揺るがないものの上に立った自信だ。だからこそ、揺れたときの音が大きかった。
走は、その音を聞いた。
聞いて、胸の奥が鳴った。
八ヶ月、この人は一度も揺れなかった。抜いて、振り返りもせず、名前も覚えなかった。その人が今、走の前で自分の脚に問いかけている。
ピッチの脇で、それを見ている眼が、一つあった。
海だ。
この日も、走り回らずにただ全体を視ていた。海の眼に、走にだけ見える燃料計が映るわけではない。それでも海は、盤面の上で起きた一つの異常を、正確に読み取っていた。
三年の絶対的なサイドバックが、中一の新入りに、後半で脚を並べられている。
その一点を、海だけが、静かに書き留めていた。
その一瞬を、走は逃さなかった。
揺らいだ岳から、走は初めて自分から仕掛けた。
餌ではない。奪いにいった。
疲れた脚でボールを運ぶ岳の一歩へ、走は身体ごと入っていった。
入って、弾かれた。
接触は正確だった。角度も、入る速さも、走の設計どおりだ。
だが触れた瞬間、走の身体のほうが後ろへ流れた。岳は振り払おうともしていない。ただ足を止めて立っていただけだ。それだけで、中一の身体は肩から押し返された。
岳は空になった脚のまま、ゆっくりとボールを味方へ預けた。
走は芝の上から、それを見ていた。
削った。設計どおりに、燃料は奪い切った。この人の脚は、いま確かに空だ。全部、思ったとおりになった。
なのに、獲れない。
(――刈り取る手が、ない)
燃料切れは、相手を止めるための技術だ。止まった相手からボールを奪い取るには、そのあとにもう一つ、身体が要る。
走にはそれが無かった。
空になった岳から、走はボール一つ取れなかった。
その後、走は二度、同じことを試した。
二度とも、同じだった。
二度目は角度を変えた。三度目は入る速さを変えた。岳の残量はもう底に近く、動きは目に見えて鈍い。それでも、触れた瞬間に流れるのは走のほうだった。
岳は、何もしていない。
立っているだけだ。空になった脚で、その場に立っているだけで、中一の身体は入れない。
試合が終わった。
走はしばらく動けなかった。
悔しい、という言葉が、腹の底から順に上がってきた。
上がってきて、喉のあたりで止まった。出す場所がなかった。誰にぶつけるものでもない。岳は正しく強かった。走の設計も正しく効いた。誰も間違えていないのに、走だけが芝に座っている。
走は拳を握った。握って、芝を一度、強く叩いた。
音がしなかった。芝は柔らかい。叩いても何も鳴らない。それが、よけいに腹が立った。
勝てなかった。それも、あと少しで届いた、という負け方ですらなかった。
設計は正しかった。燃料は削り切った。岳は空になった。そこまでは、全部が走の思ったとおりに動いた。
動いた先に、走の手が無かった。
走は膝を抱えて、しばらくそのままでいた。
風が冷たかった。汗が引いて、指の先から冷えていく。走はそれを、ほどけるまで待った。
ほどけてから、走は一つだけ、切り分けた。
今日、走は本気の岳を空にした。
春に「左だからか」と呟いた人が、今日は「なんで俺が先に落ちる」と言った。八ヶ月かけて、走はその一言を引き出した。
そして、空にした相手から、走はボール一つ取れなかった。
この二つは、別の話だった。
走はそれを、無理やり分けて置いた。
分けて置いても、悔しさは減らなかった。
減らないまま、走は掌を見た。
この手が届かない。理由は分かっている。触れた瞬間に押し返されるのは、走の身体がまだ四十一キロだからだ。角度でも速さでも埋まらない。
埋める方法は、たぶん一つしかない。
走自身が、あと二年、生きることだ。
(――あと一歩、じゃない)
(あと、二年だ)
一歩なら、明日詰められる。二年は詰められない。
その二年をどう使うのかは、この芝の上では出てこなかった。出てくる気もしなかった。
更衣室へ消えていく大きな背中に、走は声をかけなかった。
かけるだけのものを、まだ持っていない。
グラウンドの照明が、順に落ちていった。走は最後の一つが消えるまで、そこに立っていた。




