第53話 なぜ、先に落ちる
十二月に入った。
春の紅白戦からこちら、走が岳の前に立たされる日課は、一度も途切れていない。
ミニゲームや二対二をやるたび、コーチも上級生も、なぜか走を岳の側にぶつけたがる。本職は同じ右サイドバックなので、そういう日の岳はいつも逆の左へ回された。理由は単純な面白がりだった。田舎の小柄な新入りが、あの絶対的な三年に、何度抜かれても懲りずに食らいついていく。負けると分かっている勝負に、毎回平気な顔で立っていく。
その絵が、みんな、少しだけ面白いのだ。
――抜かれてるけどな。
誰かがそう言って笑う。走は毎回抜かれている。数字の上では一度も勝っていない。それでも次の日には、また岳の前に立たされる。
走は文句も言わず、そのたびに黙って自分の位置についた。
文句がなかったわけではない。面白がられているのは分かっていた。分かっていて、それでも毎回、次の一本が来るのを待っていた。この学年で、あの背中の正面に立てるのは走だけだ。順番が回ってくるうちは、断る理由がない。
岳のほうは、最初その役目を気にもしなかった。逆サイドの新入りが一人、何度でも湧いてくる。虫を払うようなもので、払ったことすら覚えていない。
変わったのは、その十二月のある日だ。
白石という若いコーチが、練習の合間に岳を呼び止めて言った。
「黒木。たまには、ちゃんと相手してやれよ。あの一年、半年以上しつこいぞ。何回抜いても湧いてくる」
岳が、コーチの肩越しに走をまっすぐ見た。
「……ちゃんと、ですか」
岳は可笑しそうに少しだけ笑った。
威張るのでも、見下すのでもない。自分が本気を出すという事態を、この一年相手に一度も想像しなかった、という顔だった。
「わかりました」
その一言で、走の一日の難易度が跳ね上がった。
本気の岳は別物だった。
一本目、走はいつも通り餌を見せた。抜けそうな隙間を右に作って、岳に無駄な加速を誘う。手加減した岳なら、必ず食いつく隙間だ。
岳は食いつかなかった。
餌を、餌と見た。
走が半歩を閉じるより早く、岳は逆の左を取って内へ切れ込んだ。今までの、ただ真っ直ぐ来る岳ではない。相手の罠を読んで、外して、その上から力で抜く。
身体の暴力に、わずかな知恵が乗っただけで、絵がまるで変わった。
二本目、走は間合いを変えた。抜かれた。
三本目、腰を落として粘った。肩で弾かれて、芝に転がった。
四本目は、触れることすらできなかった。
走は芝の上で、息を整えた。
怖い、と思った。
春に肩から入られて息が止まったときとは、種類が違う怖さだった。あのときは、身体が大きいのが怖かった。今日は、その身体に頭が乗っているのが怖い。餌を見て、餌だと分かる眼が乗っている。走がこの八ヶ月でやってきたことが、一本ごとに読まれて、外されていく。
(――こっちが、本物か)
この八ヶ月、走が削ってきたのは、手を抜いた岳だった。八割の力で、面倒くさそうに流す岳。走の設計が効いていたのは、相手が半分眠っていたからでもある。
目を覚ました岳は、走の読みの上を身体で踏み潰してくる。
悔しかった。
八ヶ月かけて積んだものが、本物の前では四本ももたなかった。
悔しくて、怖くて、そのうえで、走は芝から立ち上がっていた。
立ち上がる理由は、計算より先にあった。
この人が、走のために本気を出した。
一年間、眼中に無かった相手が、今日、走を相手に本気を出している。半年以上しつこい、と言われたその半年を、走は一人で積んだ。積んだものが、今日、この人の目を開けさせた。
それが、どうしようもなくうれしかった。
うれしいから、もう一本、行きたかった。
走は膝の泥を払って、また前に立った。
立ってから、頭のほうが追いついてきた。
(――本気には、代償がある)
手を抜いていた岳は、無駄に走らなかった。
本気の岳は走る。
走の罠を読んで外し、力で抜き切る。そのために一本ごとに全力で加速し、全力で急停止する。走が餌でやらせようとして、この八ヶ月なかなか十全にはやらせられなかったこと。それを、目を覚ました岳は勝ちにいくために、自分から進んで始めた。
走は餌を撒くのをやめた。
撒く必要がなくなったからだ。
かわりに、ただそこに居続けた。抜かれても、すぐ戻る。また前に立つ。岳がもう一度全力で抜きにくる。また戻る。
抜かせて、戻る。抜かせて、また戻る。
派手なことは、何一つしない。ただ、目を覚ました岳の脚に全力の上下動を、一度も休ませずに続けさせた。
春から八ヶ月、走が餌を撒いてようやく一つずつ積ませてきたもの。急停止と、急な方向転換と、そこからのもう一段。いちばん高くつくその三つを、本気になった岳は勝ちにいくために、自分から進んで積み立てていった。
走が八ヶ月かけて撒いた種を、この日は岳自身の手が播いている。
――診断。
黒木岳、本気。出力、春に測ったときの一・五倍。
だが本気の一歩は、手加減の一歩の二倍の燃料を食う。抜くたびに、二目盛り。勝ちにいくほど、速く空になる。
絶対に負けたくないというその気持ちそのものが、この男の脚を内側から焼いている。
十本目で、走は自分の呼吸を確かめた。
乱れている。
春の紅白戦のときとは違う。あのとき走は、一度も全力を出さずに済んだ。今日は違う。本気の岳に前へ立ち続けるには、走のほうも毎回、全力で戻るしかない。
走の燃料も、確実に減っていた。
削り合いになっている。
走は自分の残量を数えた。この形なら、あと二十五分は保つ。岳の残量は、そこまで持たない。
二十五分と、その手前。
わずかな差だ。だが、その差の分だけ、走のほうが先に立っている。
走はその計算を終えて、また岳の前に立った。
十一本目が来る。息が上がっていた。上がっていたが、次の一本が来るのが、まだ楽しみだった。




