第52話 十一月の日曜
十一月の第三日曜が、月に一度の完全オフだった。
練習も、ミーティングも、自主練の推奨もない。寮を出てもいいし、寝ていてもいい。この日だけは、クラブが選手に何も要求しない。
走はその日、九時まで寝た。
起きたとき、部屋には誰もいなかった。財前は朝から出ていき、レオは前の晩から友達の家に泊まっている。江口だけが、まだ布団の中で丸くなっていた。
窓の外は晴れていた。
名古屋の十一月は、高山より三度ほど暖かい。空気に湿り気があって、朝でも息が白くならない。
走はしばらく、天井を見ていた。
やることが、何もなかった。
四月から、走の一日は全部埋まっていた。
朝に自転車を回す。練習に出て、飯を組み替える。夜にノートを書いて、十時に寝る。その繰り返しだった。空いた時間があれば、走はそこに何かを入れた。
今日は、入れるものがない。
走はノートを開きかけて、閉じた。
完全に休む日は要る。回復は、負荷をかけていない時間にしか進まない。走はそれを知識として知っていて、実行してもいた。
だが、今日それを思い出したのは、布団を出てからだった。
思い出す前に、走は九時まで寝ていた。眠かったから寝た。理屈はあとから来た。
(……珍しいな、これは)
走は起き上がって、カーテンを全部開けた。
昼前に、江口が起きてきた。
「東くん、飯行かん?」
「食堂、やってる?」
「休みの日はやってない。外」
二人で寮を出た。
バスに乗って、駅の近くまで行った。江口は行きつけらしいラーメン屋へ迷わず入っていった。
走は券売機の前で、三秒だけ止まった。
脂の量。塩分。麺の量に対するたんぱく質の比。頭が勝手に計算を始める。
止めた。
走は江口と同じものを押した。
出てきたものは、想像より脂が多かった。
一口飲んで、走は目を開けた。
うまい。
それしか出てこなかった。塩が濃くて、脂が舌に残って、丼から立つ湯気が顔にかかる。走はスープをもう一口飲んで、それから麺を手繰った。
「うまい?」
「うまい」
「だろー。ここ、当たりなんだよ」
江口は得意そうに鼻を鳴らして、替え玉を頼んだ。走も頼んだ。
「東くん、替え玉いくんだ」
「行く」
「意外」
走は答えずに、二玉目を食べた。
高山の家では、母がこういうものを作らなかった。寮の食堂にも出ない。走が前の生で最後にこの味を食べたのがいつだったかは、思い出さないことにした。
今日は、そういう日ではない。
江口はよく喋った。
中学の話。前の学校の友達の話。好きなゲームの話。サッカーの話は、ほとんどしなかった。
走は半分も分からなかった。
ゲームの名前も、動画の話も、走の中を通り抜けていく。誰が誰を好きらしいという話も同じだった。相槌だけは打てる。打てるが、そのタイミングが毎回わずかに遅い。
江口は気にしていなかった。この男は、相手が聞いているかどうかで喋る量を変えない。
その遅さを責められない場所に、走は二時間いた。
二時間、走は誰の脚も測らなかった。
「東くんってさ、なんで尾張来たの」
「セレクション受けたから」
「いや、そうじゃなくて。なんで受けたの」
走はスープを一口飲んでから、答えた。
「……上でやりたかったから」
「ふーん。おれ、なんとなくだわ」江口は麺をすすった。「小学のとき、コーチがセレクション受けてみろって言うから受けて、受かったから来た。それだけ」
「後悔してる?」
「してない。楽しいし」江口はけろっとしていた。「でもおれ、たぶんユース上がれないと思うよ」
走は顔を上げた。
「なんで」
「見りゃ分かるじゃん。財前とかレオとか、あいつら別物だもん」江口は笑った。「でも別にいいの。おれ、ここでやれたってだけで、けっこう自慢だし」
「……自慢」
「うん」
「上がれないのに?」
「上がれないのに」
江口はあっさり言って、丼を持ち上げた。
走には、その順番が分からなかった。
上がれないと分かっている場所に三年いて、それが自慢になる。走の中で、その二つは繋がらない。走にとって、いまいる場所は、次の場所へ行くためのものだ。次がなければ、いまは何になるのか。
聞き返そうとして、走はやめた。
聞いたら、たぶんこの男は「なんで?」と言う。そして走は説明できない。
「東くんは上がれるっしょ」
江口が言った。
「分からない」
「上がるでしょ。だってお前、なんか変だもん」
「変」
「うん。なんか、みんなと違うこと考えてる感じ」江口はスープを飲み干した。「合宿のときとかさ、一人だけ涼しい顔してたじゃん。あれ、ちょっとむかついた」
「……悪い」
「いや、褒めてんの」
江口は笑って、席を立った。
午後、走はぶらぶらと歩いた。
目的はなかった。駅前の書店に入って、何も買わずに出た。川沿いを歩いた。名古屋の川は、高山の川より水が濁っていて、流れが遅かった。
流れが遅いので、見ていても何も起こらなかった。走は十分ほど、何も起こらないのを見ていた。
夕方に寮へ戻ると、スマホが震えた。
ハルからだった。
――走ー、生きてる?
走は思わず、息だけで笑った。
四月から、ハルの連絡はこれで四度目だ。毎回この調子で、毎回、用がない。
――生きてる。
――そりゃよかった。田口のじいちゃんが柿くれた。うまい。
――そうか。
――そっちうまいもんある?
走はラーメン屋のことを思い出して、少し考えてから返した。
――ラーメン食った。替え玉した。
――替え玉!? ずるい。こっちラーメン屋ないんだよな。
一軒もないのか、と返すと、ラーメンどころか飯屋がない、と来た。そうだったな、と走は打った。そうだよ、と返ってきて、そのあとに、おれ今日ずっと柿食ってる、と続いた。
走は画面を見たまま、しばらく打たなかった。
打つことがなかった。打つことがないのに、切りたくなかった。
柿を何個食ったのかだけ聞いた。七個、と返ってきた。多い、と打った。だろ、と来た。
それで終わりだった。
走はスマホを置いて、ベッドに座った。
何の情報もない。ハルは走が七ヶ月でどうなったかを聞かないし、走もハルの近況を聞かない。柿がうまい。ラーメンを食った。それだけのやりとりだった。
名古屋に来てから、いちばん何も測らなかった十分間だった。
夜、走はノートを開いて、日付だけ書いた。
その下に、書くことがなかった。
今日は自転車を回していない。練習もしていない。飯は脂と塩の多いものを食べた。替え玉もした。
書くことがないというのは、走にとって初めての経験だった。
しばらく迷って、走は一行だけ書いた。
――何もしない日。
それから、その下にもう一行足した。
――うまかった。
書いてから、走は自分で少しおかしくなった。
結局、記録している。この癖は、たぶん一生抜けない。
走は表紙を伏せて、電気を消した。
布団に入ってから、江口の言葉をもう一度思い出した。ここでやれたってだけで、けっこう自慢だし。
走には、まだその言い方ができなかった。
背番号はもらった。四対〇も、一対〇もあった。合宿の四日目に、春に五本抜かれた相手を一本も抜かせなかった。財前が五メートル寄ってくれた。
どれも、走の中では「次」に繋がるものとして積まれている。積んだものを、それ自体で自慢だと言う言い方を、走は知らない。
江口は知っている。
どちらが正しいのかは、分からなかった。分からないまま、走は目を閉じた。




