第51話 秋の紅白戦
十一月の紅白戦で、海が休んだ。
風邪だという。四月からこちら、初めてのことだった。あの男は、練習を休むという発想を持っていないように見えた。
中盤の底に、かわりの子が入った。同学年の、真面目な子だ。悪い選手ではない。ただ、盤面を視る眼はない。
走はアップの途中で、それに気づいた。
(――今日は、埋まらない)
海がいない。走が上がっても、裏に落ちてくる人間がいない。
春の走なら、そもそも上がらなかった。上がらないことが前提だったからだ。
いまは違う。走の身体は、上がるほうへ動きたがっている。新人戦からの一ヶ月で覚えた感触が、脚に残っている。
それが厄介だった。
覚えてしまった動きを、一度だけ封じるのが、いちばん難しい。
前半の十分で、走は一度上がった。
癖だった。右で奪って、前が空いていて、身体が勝手に前へ出た。出てから、後ろが空いていることを思い出した。
振り返った。誰もいなかった。
慌てて戻る。四十メートルを全力で戻った。間に合った。相手のカウンターは中央で財前が止めた。
止まったが、走の脚は無駄に十秒ぶん削れていた。
「東」
財前が、球を蹴り出したあとで振り返った。
「いま、なんで上がった」
「……すみません」
「謝んなくていい。聞いてんの」
走は答えられなかった。
理由はある。上がれると思ったからだ。だがその「思った」の根拠が、いまここにない人間の存在だった。
走は前半の残りを、上がらずに過ごした。
過ごして、気づいた。
上がらないのは、簡単だった。
簡単なのに、退屈だった。
春の走は、この退屈さを退屈だと思っていなかった。守ることが仕事で、それ以外は自分の仕事ではなかった。
いまは、前が見える。見えるのに、行かない。
(……これは、我慢だ)
我慢は、設計ではない。
設計とは、我慢しなくて済む形を先に作っておくことだ。
ハーフタイムに、走は自分の右手を見た。
海が決めた合図だ。上がる前に一度、これを上げる。俺は神様じゃない、だから合図を決める、とあの男は言った。
あれは、海のほうから差し出されたものだった。
走は、もらっただけだ。
同じものを、もらっていない相手に渡せるかどうかは、まだ試していない。
財前は水を飲んでいた。四月に「何様だよ」と言った男で、夏に塩を渡した相手で、秋に拳を合わせた男だ。それでも、この半年で走が財前に頼んだことは一度もない。
走は、水を飲み終わるのを待った。待ってから、声をかけた。
「財前」
「なんだよ」
「……頼みがある」
言ってから、喉が渇いた。
「なに」
「俺が上がるとき、手を上げます」
「は?」
「上げたら、右の裏を見ておいてください。全部じゃなくていい。俺が戻るまでの八秒だけです」
「八秒って、なんだよ」
「俺が四十メートル上がって、戻り始めるまでの時間です」
財前は少しのあいだ、走の顔を見ていた。
「……お前、そういう数字、いつも持ってんの」
「持ってます」
「気持ち悪」
そう言って、財前は自分の位置へ戻った。
断られたのか、受けられたのか、走には分からなかった。
分からないまま、後半の笛が鳴った。
後半の七分に、走は右で奪って、手を上げた。
上げた手が、自分の手ではないみたいだった。海にやるときは、何も考えずに上がる。今日は、上げてから一拍、迷った。
迷って、上がった。
四十メートル。走りながら、走は一度も後ろを見なかった。見たら、たぶん全部無駄になる。
クロスを上げて、跳ね返されて、戻った。
戻ったとき、財前が右の裏に立っていた。
中央から、五メートルだけ寄っていた。全部を埋めてはいない。埋めきれる位置でもない。
だが、そこにいた。
走は息を整えながら、その五メートルを見ていた。
うれしかった。
プレーが成功したからではない。クロスは跳ね返されている。何も起きていない。
頼んだことが、通った。それだけのことだった。
走は何も言わなかった。財前も何も言わなかった。
次に走が手を上げたとき、財前はまた五メートル寄った。三度目も、四度目も同じだった。
四度目のあと、財前が言った。
「八秒じゃなくて、十二秒だったぞ」
「……はい」
「もっと早く戻れ」
「はい」
それだけだった。
それだけだったが、走はそこに、次もやる前提が入っているのを聞いた。
試合が終わって、走は水を飲みながら、今日のことを整理していた。
海がいなくても、走は四回上がれた。
埋めたのは海ではなく、財前だ。財前には盤面を視る眼はない。だから全部は埋まらない。五メートルぶんしか動けない。
五メートルで足りたのは、走が十二秒で戻ったからだった。
海がいるときの走は、後ろを一度も見なかった。海が全部埋めるからだ。
今日は、走が急いだ。
同じ「上がる」でも、中身がまったく違っていた。
(――誰と組むかで、俺のやることが変わる)
走はそれを、ノートに書き留めた。
書いてから、もう一行足した。
――海に決めてもらった合図を、今日は俺から出した。
春の走は、自分の設計を一つ持っていた。八十分落ちない身体と、燃料切れの戦術。それを誰に対しても同じように使った。
いまは、隣に誰がいるかで、使い方が変わる。
海と組むときの走と、財前と組むときの走は、別の選手になる。
どちらが強いか、という話ではなかった。両方できるほうが強い。
翌日、海が戻ってきた。
走はいつもどおりの顔で挨拶をした。海もいつもどおりの顔で返した。休んだことについて、この男は一言も説明しなかった。
その日の紅白戦で、走は海に手を上げた。
海は見もせずに落ちた。いつもどおりだった。
試合が終わってから、走は言った。
「昨日、財前にも同じことを頼みました」
海が、こちらを見た。
「手を上げるやつを」
「はい。八秒だけ見ていてくれ、と」
「……で?」
「五メートル、寄ってくれました」
海はしばらく黙っていた。
「財前は盤面が見えない。五メートルが限界だ」
「知ってます」
「知ってて頼んだのか」
「はい」
海は少し間を置いて、それから前を向いた。
「上等だ」
それだけ言って、行ってしまった。
走はその背中を見送った。
この半年、走に何かを預けようとした人間は、海一人だった。
昨日、走のほうから預けた。
誰も気づかない変化だった。
走がこの八ヶ月で手に入れたものは、いつもそういう形をしている。




