第50話 仕事をさせない
新人戦の三回戦は、十一月の最初の日曜だった。
二回戦で青嵐に負けたあと、大会は敗者側に回っていた。順位決定戦のようなもので、勝っても何も残らない。
それでも公式戦だった。
相手は、市内の別のクラブだった。
名前は知られていない。ただし、一人だけ知られている選手がいた。
九番。
この大会で、五試合に出て六点取っている。全部、この一人が決めている。
試合前のミーティングで、コーチがホワイトボードに丸を一つ書いた。
「ここだけ気をつけろ。あとは普通でいい」
それだけだった。
走はその丸を見ていた。
九番は、前線の中央にいる。走は右サイドバックだ。担当が違う。
当たるのは財前と、もう一人の中央の子だった。
試合が始まって、走は最初の五分でそれを見た。
九番は、中央にいない。
左へ流れてくる。
相手から見て左、こちらから見れば右だ。この選手は自分から左へ動いて、そこでボールを受けようとしていた。中央で潰されるのを嫌っている。財前は硬い。だから避けている。
避けた先が、走の側だった。
走の眼が、その脚を測った。
速い。だが速さの出し方に癖がある。受ける前に一度、中へ足を置く。置いてから外へ出る。
六年やってきた癖だ。本人はたぶん気づいていない。
走は、その一拍を覚えた。
最初の一本、走は下がった。
九番は縦へ抜けて、クロスを上げた。誰にも合わなかった。
二本目も下がった。
三本目、走は隙間を半歩だけ狭めた。九番は同じように仕掛けて、同じように抜けようとして、抜けなかった。
四本目、走は一拍を待った。中へ足を置く、その瞬間に、外を閉じた。
九番の前に、道がなくなった。
九番はボールを下げた。
二十分で、九番は走の側へ来なくなった。
中央へ戻った。
中央には財前がいる。財前は硬い。九番はそこで二度潰されて、三度目からは自分でボールを持たなくなった。
前半の終わりに、九番はほとんど消えていた。
走がやったことは、抜かれないことだけだ。
一度もボールを奪っていない。ファウルもしていない。倒してもいない。
ただ、この選手が仕事をする場所を、一つずつ消した。
後半、九番はもう一度、走の側へ来た。
今度は、走の一拍待ちを警戒していた。中へ足を置かずに、いきなり外へ出ようとする。
走はそれを、待っていた。
癖を消せば、加速が半分になる。中へ置く一歩は、外へ出るための助走でもあるからだ。省いた選手は、省いたぶん遅くなる。
走はその遅くなった一歩の前に、立っているだけでよかった。
六十分に、こちらが一点取った。
右で走が奪って、海へ渡した。海が一手で前へ通して、レオが決めた。
走が触ったのは、その一回だけだ。
一対〇のまま、笛が鳴った。
尾張は勝った。
六点取っている選手は、八十分で一点も取らなかった。
シュートは二本。どちらも枠に行っていない。
笛と同時に、レオが両手を上げて走ってきた。
「アズマ! 勝った!」
「勝った」
「今日のおれの、見た!?」
「見た。ニアだ」
「ニア!!」
レオが走に抱きついてきて、そのまま二人で芝に転がった。上から財前が覆いかぶさってきて、走はいちばん下で潰された。
「重い」
「知るか」
財前の声が、耳のすぐ横でした。
走は芝の匂いを嗅ぎながら、笑っていた。三人ぶんの重さが背中に乗っていて、息がしにくくて、それが可笑しかった。
整列のあと、九番が走の前を通った。
通り過ぎてから、足を止めて、振り返った。
「なあ」
走は顔を上げた。
「お前、なんで俺のこと分かんの」
走は答えなかった。
「俺、今日ずっと嫌だったんだけど。何もされてないのに」
九番は自分の脚を見た。
「削られてもないし、倒されてもない。なのに、行きたいとこ全部潰されてる」
走は何も言わなかった。
「気持ち悪いわ、お前」
九番はそう言って、行った。
悪口だった。
悪口だったが、走はその一言を、この日いちばん正確な評価として受け取った。
受け取ってから、走は少しだけ、口の中で笑った。
こちらのベンチでは、誰も走の話をしていなかった。
レオが決勝点を決めた。コーチはレオを褒めていた。それは正しい。点を取ったのはレオだ。
財前が中央で九番を二度潰した。それも褒められていた。それも正しい。
走がやったことは、記録に残らない。
被シュート数にも、走行距離にも、九番を右で二十分止めたという事実は入らない。
「東」
海が横に立った。
「二十分で、あいつを中央に戻したろ」
「……はい」
「あれで、この試合は終わった」
海は淡々と言った。
「中央には財前がいる。あの九番は、中央でやりたくないから右に流れてた。お前がそこを閉じたから、行き場がなくなった」
「……はい」
「一人で潰したんじゃない。財前が硬いことを、お前が使った」
走は顔を上げた。
「盤面ってのは、そういうことだ」
「……分かりました」
「分かってやってたろ、お前」
走は答えるまでに、半拍かかった。
「途中から」
「上等だ」
海はそれだけ言って、行った。
走はしばらく、その場に立っていた。
記録に残らない、と思ったばかりだった。
残っている場所が、一つあった。
この街に来て、八ヶ月になる。
四月に、教室で線を引かれた。五月に、ウェイト場の輪の外に立った。夏に、名簿に呼ばれなかった。秋に、リクとソラのいるチームに負けた。
勝った日も、あった。先週の四対〇。三月の体育館の、三対二。
今日は、その二つとは違う。
先週は、十一人の形が相手を崩した。走はその形の一枚として、右を詰まらせた。三月は、走が四対四の一日ぶんを設計した。
今日は、財前の硬さを使った。
あの九番が八十分何もできなかったのは、走がやった。奪ってもいない、倒してもいない、記録に残らないやり方で、相手の得点源から、仕事をする場所そのものを取り上げた。
空き地でも、走は仲間の得意を使ってきた。アカネが前にいるから後ろを空けられたし、陸が走るから縦が生きた。
違うのは、今日は相手の嫌がる場所に味方が一枚いる、というそれだけを使ったことだ。十一人のうちの二人ぶんで、相手の一番を消した。
帰りのバスで、走はノートを開いた。
書く内容は、もう決まっていた。
――九番。中へ置く一拍。二十分で右を捨てた。
その下に、走はもう一行足した。
――仕事をさせない、というやり方がある。
ペンを置いてから、走はその二行から目を離さなかった。
抜かないでいい。奪わないでいい。倒さないでいい。
相手が仕事をする場所を、先に潰しておけばいい。
それは、走の身体が小さくてもできることだった。
落ちない脚。上がって戻る四十メートル。海と財前に届く合図。そこへ今日、もう一つ増えた。
窓の外を、十一月の名古屋が流れていく。
バスの中で、レオが後ろの席で騒いでいた。決勝点の話を、三回目に語り直している。
レオが振り返って、走に何か言った。
窓の音で聞こえなかった。走が聞き返すと、レオはもう一度大きな声で言った。
「アズマ! 見てた? おれの!」
「見てた」
「どうだった!」
「入ってた」
「それだけ?」
レオが心底不服そうな顔をして、走は、笑った。
声が出た。
「ニアだった。あれは、あそこしかない」
「な!? だろ!?」
レオが後ろの席から身を乗り出してきて、前の席の子に怒られた。
勝った日のバスは、負けた日のバスと、音が違う。
先週も勝った。だが先週の四対〇は、十一人が正しく動いた日の音だった。
今日の音は、少し違う。走はそれを、窓に頭をつけたまま聞いていた。




