第49話 ラインの向こう
後半、リクが左へ回ってきた。
本職は右だ。前半のあいだ、リクはずっと逆サイドにいた。それが後半の頭から、わざわざこちらへ移ってきている。
走はそれを、自分の正面に立たれてから理解した。
リクがボールを持つ。走がその前に立つ。
半年ぶりに、この二人が一対一で向き合った。ただし、味方としてではない。
「――走」
リクが笑った。憎まれ口の笑いだ。
「相変わらず、頭でサッカーしてんな」
「陸は、相変わらず口が減らない」
「うるせえ」
言い合ったのは、そこまでだった。
リクが仕掛けてきた。
走の眼は読んでいた。
リクの利き足、重心の沈み、蹴る前の一歩。全部、視えている。半年前まで、走が毎日この脚を治していたのだ。この身体の癖を、走はこの世の誰よりも知っている。
視えていて、抜かれた。
走は右を切った。読みは合っている。リクの行きたい方向に、走は正しく蓋をした。
だがリクはその蓋の上から来た。
閉じたはずのわずかな隙間へ身体を無理やりねじ込み、接触の痛みごと押し通した。技術と勇気と力で、走の設計を正面から踏み越えた。
肩がぶつかった。走の身体が、外へ流れた。
芝に手をついた走の中で、最初に来たのは、悔しさではなかった。
(――速い)
速くなっていた。三月の田舎道で、五十メートルを走ったあの脚より、さらに速い。
走の設計では、ここまで来ない。走が組んだのは、壊れない脚と、地面に力が伝わる形までだ。そこから先は、この半年、青嵐で誰かに言われて、誰にも見られずに、この男が自分で積んだものだった。
どれだけ積めばこうなるのかを、走は自分の身体で知っている。走が名古屋で積んだ四ヶ月と、同じ量の四ヶ月が、この一歩の中にあった。
うれしかった。
治した脚が、走の知らない場所で、走の知らない速さになっている。それを、走はこの半年、一度も見ていない。
そして、その脚に、走はいま抜かれている。
悔しさは、その一秒後に来た。
遅れて来たぶん、濃かった。
走は芝を蹴って立ち上がった。太腿の外側が、肩の当たったところより痛かった。
もう一本、来い、と思った。
(――こいつ、わざと、俺の読みの上を来た)
立ちながら、走にはそれもはっきり分かった。
リクは走をただ抜くだけなら、もっと楽な道がいくらでもあった。走の左は空いていた。中へ切れ込めば、走の脚では追えない。
なのに、いちばん難しい走の読みの真ん中を、力ずくでこじ開けにきた。
まるで、走の設計そのものに勝ちたがっているように。
物置で、リクが言った言葉が頭をよぎった。
それって、俺が速いのか、お前が速くしたのか。
あの質問は、まだ答えが出ていない。そして今、リクはその答えをピッチの上で、力ずくで探しているように見えた。
(――俺の速さは、俺のものだ)
リクのプレーは、そう言っているようだった。
言い返す言葉を、走は持っていなかった。
あの脚は、走が二年かけて守った。だが今日の一歩を作ったのは、走ではない。あの男が自分で選んで、自分で積んだものだ。それは、走が誰より知っている。
知っていて、抜かれるのは、別の話だった。
(……こういう気持ちになるのか)
走は前の生で、患者が復帰する場面を何百回も見た。そのたびに嬉しかった。だが治した相手と競ったことは、一度もない。
医者は、患者と同じ土俵に立たない。
走はいま、初めてそこに立っている。
三本目、走はリクを縦に出させなかった。
二本目で覚えた。あの押し込み方には、最初に半身を入れる一拍がある。その一拍の前に、走は身体を差し込んだ。リクはバランスを崩して、横へ出した。
「……っ、お前!」
リクが走のほうを見た。走は何も言わなかった。
抜かれた回数は、この試合、一度きりだった。
後半の頭に、青嵐がソラを入れてきた。
こちらは誰も交代しなかった。鬼塚は腕を組んだまま、ベンチから動かなかった。
ソラはその試合で二点取った。
一点目は、走の設計の外から来た。
青嵐の右から、ソラがふらりと中へ入る。誰もマークについていない。ついても意味がないからだ。次の一歩が読めない相手に、人はつけようがない。
こぼれ球がたまたまそこにあって、たまたまソラの足に当たり、ゴールに転がり込んだ。
まるで、そうなると最初から決まっていたように。
走の設計は、ソラにはかすりもしなかった。
掴めない。読めない。
合宿の四日目に、走は一つ覚えたはずだった。相手が疲れれば、選択肢が減って読みやすくなる。
ソラには、それが効かない。
後半の三十分を過ぎても、この男の選択肢は減らなかった。疲れているのは間違いない。呼吸は上がっている。それでも、次に何をするかが読めない。
疲れて選択肢が減るのは、選ぼうとしている人間だけだ。
この男は、選んでいない。
(――そういうことか)
走はその一点に、初めて触れた。触れただけで、答えは出なかった。
ただ、一度だけ、目が合った。
ソラは走を見て、少しだけ首を傾げた。
あの、フットサルの最後と同じ仕草だ。何かを思い出しかけて、思い出せない、という顔。
「……あれ。きみ、どっかで」
それだけ言って、ソラは興味をなくしたように前を向いた。
覚えて、いない。だが、完全に忘れても、いない。
あのフットサルで走の設計に触れた感触が、この男の中に小さな棘のように引っかかったまま残っている。走にだけ、それが分かった。
尾張の一点は、後半の三十分にレオが返した。江口が右で粘って、走が上がって、こぼれ球をレオが押し込んだ。
走が上がったのは、前半に届かなかったあの形の、三本目だった。
だが直後に、ソラの二点目が入った。
試合は、負けた。
一対三。リクとソラの二枚看板に、中一の尾張は及ばなかった。
ロッカーで、レオが走の背中をばしんと叩いた。
「アズマ! おれ、あのパス、決めたかったわー!」
「俺が半歩速かった」
「まだ言ってる。おれが遅いんだって」レオはけらけら笑った。「つーか、あのリクってやつ、えぐいな。あと、あの読めないやつ。ぞわっとしたわ」
「えぐい」
「だろ?」
レオはタオルで頭を拭きながら、当たり前のように言った。
「次、勝とうぜ。おれとアズマで」
走は、一拍だけ考えた。
考えてから、自分の言葉で答えた。
「次は、半歩遅らせる。だからレオは、もう一回走ってくれ」
「おっ」レオが目を丸くした。「アズマが注文してきた」
「する」
「いいよ。何回でも走るわ」
レオは走の頭をまた両手で挟んで、ぐらぐら揺すった。
負けた試合の帰りに、走は二度笑った。どちらもレオのせいだった。
だが、走の中に残ったものは、それだけではなかった。
海と繋がって前へ出られた感触。リクの脚が、走の知らない速さになっていたこと。そしてその男が、わざわざ走の設計に勝ちにきたという事実。
あの二人は、いま確かにラインの向こうにいる。そして、いつか必ず正面からぶつかる。
試合のあと、リクがすれ違いざまに言った。
「なあ、走。上で、待ってるからな」
空き地で交わした約束だ。上で、決着をつけよう。
「――速くなってたな」
走がそう言うと、リクは足を止めた。
「当たり前だろ。毎日やってんだよ」
「知ってる」
「知ってんのかよ」
「見れば分かる」
リクは一瞬、何か言いかけて、やめた。それから、歯を見せて笑った。
「じゃあ次は、もっと分かんなくしてやる」
「無理だ」
「言ったな!?」
リクは笑って、青嵐の列へ戻っていった。
その約束の日は、まだ遠い。中二になれば、リクともソラとも本気で当たる。
だが走の頭にあったのは、その先ではなかった。
帰りのバスで、走はノートに一行だけ書いた。
――上で、の前に、ここで。
この街には、走がまだ一度も勝てていない相手がいる。ラインの向こう側ではなく、同じ紋章をつけて、同じグラウンドに立っている相手だ。




