第48話 一人で守るな
二回戦の朝、アップの途中で、海が走の隣に来た。
「東。お前、一人で守るな」
「……は?」
「お前の守り方はうまい。だが一人で完結してる」
海はいつもの平らな声で言った。
「田舎の空き地なら、それでいい。ここは十一人だ」
走は反論しようとして、やめた。
この半年、走はラインを合わせられるようになった。財前にも「合ってる」と言われた。それでもこの男は、走がまだ一人で守っていると言っている。
「上がれないだろ、お前」海は続けた。「右で相手を詰まらせて、奪って、そこで終わりだ。前に出ない」
図星だった。
走は上がらない。上がれば、その裏が空く。空いた裏を埋められるのは走だけだ。だから走は、上がるかわりに、そこに残る。
それは判断ではなく、前提だった。
「お前が上がったら、その裏は俺が埋める」海は言った。「だから後ろを気にせず上がれ。……その代わり、俺の指示は聞け」
「……本当に、埋まりますか」
「埋まる」
海は一秒も考えずに答えた。
走はその即答の意味を、少しのあいだ測っていた。
この男は、走の裏を埋めることを、いま初めて思いついたわけではない。たぶん半年前から数えている。走が何本上がれて、そのうち何本の裏が危険で、自分がどこにいれば間に合うか。全部、済んでいる。
走が自分の身体で計算してきたことを、この男は盤面の上でやっている。
「分かりました」
青嵐との二回戦は、前半の八分に動いた。
崩されたのは、走の逆側だった。左を突かれて、相馬が振り切られる。折り返しを大村が触ったが、こぼれ球を押し込まれた。
〇対一。
走の右は、その時点で一度も来られていない。来られていないのに、失点している。
走はそれを、自陣へ戻りながら受け取った。
試合が再開して、走はさっきの言葉の意味を身体で理解した。
いつもの走なら、背後のスペースを自分で管理する。上がるか残るか、常に半分の意識を後ろに置いておく。
海がいると、その半分がいらなかった。
走が右を駆け上がると、空いた裏に海がすっと落ちてくる。振り返らなくても、そこに海がいると分かる。
意識の半分が、空いた。
空いた半分を、走はそのまま前へ向けた。
前を向いた瞬間、視界がまるごと変わった。
これまで走は、相手の攻撃を読んでいた。今度は、味方の走り出しが読める。誰が飛び出そうとしているか。どこが空こうとしているか。同じ眼が、同じ精度で、逆向きに働いた。
(――こんなに、見えるのか)
半年、走は自分の背中に半分の眼を置いていた。それを外しただけで、前がこれだけ見える。
置いていた半分は、思っていたよりずっと重かった。
脚が、勝手に速くなった。
後ろを確かめずに走るというのは、こういう感覚だった。一歩ごとに、身体のどこも引っぱられない。空き地で、後ろに誰もいない土を蹴っていたころに、少し似ていた。似ていて、違った。あのときは後ろに誰もいなかった。いまは、後ろに一人いる。
前半の半ば、それが一度、はっきりと形になった。
右のタッチライン際で、味方がボールを持った。
走はその外側を一気に追い越して駆け上がった。
いつもの走なら、その一歩前に、後ろをちらりと確認している。今日はしなかった。海が自分の空けた穴へ、もう滑り込んでいるのが見なくても分かったからだ。
走は最前線まで持ち上がった。
ゴール前に、レオが走り込んでくる。ニアに一人、ファーに二人。走の眼が、三人ぶんの位置と速度を同時に測った。
低いボールを、ニアとファーの間へ送り込んだ。
走り込んだのは、神埼レオだった。
同学年の、ブラジル系のストライカー。入団の日、芝に膝をついた走へ手を差し出した男だ。意味わからんけど面白いわ、と笑った。
そのレオの足が、走のボールにわずかに届かなかった。
爪先が、空を切った。
ゴールキックになる。
「あーっ!」
レオが芝に倒れ込んで、両手で顔を覆った。
走はその場に立って、自分の中を確かめていた。
悔しかった。
届かなかったのは、走のボールが半歩速かったからだ。三人ぶんの位置は測った。測ったのに、レオの最後の一歩ぶんを、走は勘定に入れ損ねた。
悔しくて、それから、走は次のことを考えていた。
もう一回、あの形が来ないか。
次は半歩、遅らせる。レオの踏み替えが一つ入るぶんだけ、待ってから出す。そうすれば届く。
「レオ」
走はゴール前まで歩いていって、寝ているレオを見下ろした。
「なんだよー、おれのせいじゃないもん」
「俺のせいだ。半歩速かった」
「え? そう?」
「次は遅らせる」
レオが起き上がった。
「次、あるの?」
「ある」
「じゃあ、おれ、もう一回走るわ」
レオはそう言って、自分の位置へ戻っていった。
走も戻った。戻りながら、まだ胸のあたりが速かった。悔しさと、次を待つ気持ちが、同じ速さで動いていた。
前半はそのまま、〇対一で終わった。
だが走の設計と海の眼とレオの飛び出しが、一本の線で繋がった。
(――こういう、ことか)
走は自陣へ戻りながら、まだ息を整えていた。
四十メートル上がって、四十メートル戻る。この一往復に、走は自分の燃料を確かに使っている。だが使ってもいいものだった。
走はこれまでにも、前へ出たことがある。三月の体育館で、六試合削り切った右サイドを、誰にも追いつかれずに駆け上がった。合宿の最終日には十七本、余った脚で上下動した。
どちらも、走一人の身体の話だった。
今日のこれは、違う。
走が空けた穴に誰かが入り、走の眼が誰かの走り出しを読み、走が出したボールを誰かが取りに行った。走の脚が、走以外の二人と繋がって動いた。
この感触は、初めてだった。
個の設計だけでは、届かない場所があった。走の九十分落ちない身体は、海という盤面の眼と繋がって初めて、十一人の中の一つとして意味を持ち始めた。
最後尾で一人すべてを視ていた少年が、この日、組織の中の個になった。
「東」
自陣へ戻ったところで、海が短く言った。
「次、あと五メートル早く出ろ」
「……はい」
「あと、上がる前に一回だけ手を上げろ。俺が見てないときがある」
走は少し驚いた。
この男は、全部見えているのだと思っていた。
「見えてないことも、あるんですか」
「あるに決まってる」海は前を向いたまま言った。「俺は神様じゃない。だから合図を決める」
それだけ言って、海は自分の位置へ戻っていった。
走はその背中を見ていた。
全部視える眼を持った男が、視えないときのための手続きを用意している。
当たり前のことだった。
だが走は、この半年、一度もそれをやらなかった。走は自分の眼を信じていた。信じていたから、誰にも合図を出さなかった。
合図を出さない人間の裏は、誰にも埋められない。
一人で守るな、というのは、そういう意味だった。
後半が始まる前に、走は右手を一度、軽く上げてみた。
海が、こちらを見もせずに、同じ高さまで手を上げた。




