第8話 その痛み、当ててやる
それから、走と桐生の、奇妙な日々が始まった。
走は桐生の左脚を、走らせなかった。その代わり、脚に負担をかけずにできることを、次々と課していった。上半身の使い方。体幹の締め方。座ったままの、ボールタッチ。どれも、傷んだ左脚に、体重を一切乗せずにできることばかりだった。脚を止めているあいだも、ボールを扱う神経の回路や、身体を支える奥の筋肉は、鍛え続けられる。それどころか、走れない今こそ、他の子が"走ること"に費やしている時間を、まるごとそこへ注ぎ込める。桐生は最初こそ「こんなの意味あるのかよ」と不服そうだったが、走の指示には、いつも、はっとするような的確さがあった。
そして、走が桐生の心を、決定的にこじ開けたのは――痛みの話だった。
「今日は、朝、脚が重かっただろ。特に、階段を下りるとき」
ある朝、走がそう言うと、桐生がぎょっとした顔をした。
「なんで、それ……」
「昨日、少し張り切りすぎたからな。ああいう日の翌朝は、必ず重くなる。あと、雨の前の日も、鈍く痛むはずだ。古い炎症は、湿気に反応するから」
桐生は言葉を失った。
どれも、当たっていた。しかも、桐生自身が、うまく言葉にできなかった痛みだった。「なんとなく重い」「なんとなく痛い」としか言えなかった、あの曖昧な感覚。それを、この年下の少年は、まるで自分の脚のことのように、正確に言い当ててくる。
*
「なあ」
ある日、ボールタッチの練習の合間に、桐生がおそるおそる、たずねた。
「お前、なんで、そんなに脚のこと、詳しいんだよ。医者の子か、なんかか?」
走は一瞬、言葉に詰まった。前世で医者だった、とは言えない。言えるはずもない。
「……まあ、そんなようなもんだ。昔から、身体のことに、興味があってな」
我ながら、苦しい言い訳だった。だが桐生はそれ以上、追及しなかった。追及するより、目の前の"当たる"ことのほうに、心を奪われていたからだ。
「すげえよ、お前」
桐生がぽつりと言った。その声には、もう、出会った頃の警戒は、かけらもなかった。
「今まで、いろんな大人に脚を診てもらった。有名なトレーナーとか、整形外科の先生とか。でも、誰も、俺の痛みを、当ててくれなかった。みんな、レントゲン見て、"異常なし"とか、"気のせい"とか。俺の痛みは、俺の脚の中にしか、なかったのに」
桐生は自分の左脚を、そっと撫でた。
「でも、お前は、当てる。俺が言う前に、当てる。まるで、俺の脚の中が、見えてるみたいに」
――見えてるよ、実際。
という言葉を、走はぐっと飲み込んだ。かわりに、少しだけ、ばつが悪そうに笑った。
桐生にとって、走の眼はもう、恐怖ではなくなっていた。かつて、自分を値踏みし、切り捨てた大人たちの眼とは、違う。この眼は、自分の痛みを、自分より先に、分かってくれる眼だ。誰にも信じてもらえなかった痛みを、たった一人、信じてくれる眼だ。
*
治療は、地道だった。派手なことは、何一つない。
休ませて、正しく戻す。その、気の遠くなるような繰り返し。だが、桐生はもう、腐らなかった。走が「今日はここまで」と言えば、素直に脚を休めた。走が「これをやれ」と言えば、真剣に取り組んだ。
そして走は桐生に、ひとつの理屈を、繰り返し言い聞かせた。身体は、鍛えている最中に強くなるのではない。練習は、身体をほんの少し壊すだけだ。強くなるのは、そのあと――休んでいるあいだに、壊れたところが、前より丈夫に組み直される、その時だ。だから、休むことは、サボることじゃない。治すことの、いちばん大事な半分なんだ、と。眠っているあいだに、傷ついた筋肉は繕われ、身体の動かし方を覚える神経の回路も、静かに整理されて、根づいていく。桐生はその話を聞いてから、休むことに、罪悪感を持たなくなった。
脚を休ませているあいだ、心臓と肺まで一緒に鈍らせるわけにはいかない。そこで走は桐生に、自転車を漕がせた。サドルに腰を乗せてしまえば、脚は、なめらかな円を描いてペダルを回すだけでいい。走る時のように、地面と衝突する瞬間が、そもそも存在しない。それでいて、長く漕ぎ続ければ、心肺は、たっぷりと鍛えられる。
走も、隣で漕いだ。桐生のためではなく、自分のためだ。ペダルが一回りするたび、六歳の頃には空回りしていた心臓が、少しずつ大きな音で回りはじめている。
筋肉をつける訓練も、走は課した。ただし、重い物を持ち上げるようなことは、させなかった。危ないのは鉄そのものではない。見ている大人のいない場所で、昨日より重くしたくなることだ。桐生の脚を壊したのは、まさにそれだった。痛いと言っても止まらない練習の量と、誰も測らないまま増えていった負荷。同じ轍を、この空き地で踏むわけにはいかない。だから、使うのは、自分の体重だけ。腕立て、体幹の保持、片脚で立って身体を支える――器具は、何ひとつ要らない。重い鉄より、まず、自分の身体を、隅々まで思いどおりに操れること。それが、走の決めた、正しい順番だった。
そして、桐生の中で、日に日に、ある思いが、膨らんでいった。
「なあ、走」
ある夕方、桐生が空き地で遊ぶアカネたちを見ながら、言った。
「俺、早く治して、あいつらと、一緒にやりたい」
その横顔を、走は意外な思いで見た。
桐生は「自分がまた輝きたい」とは、言わなかった。「あいつらと、一緒に」と言った。壊れる前、名門チームで一人だけ突出していたであろうこの少年が、この田舎の、下手くそな仲間たちの輪に、入りたいと言う。
「みんな、下手くそだけど、楽しそうなんだ」桐生は照れくさそうに続けた。「俺、あんなふうに、ただ楽しくサッカーやってたの、いつぶりだろうって。だから、早く治って、俺も、あの中に……」
走は胸が熱くなるのを感じた。だが、同時に、その"早く"という言葉に、かすかな危うさも、感じ取っていた。焦りは、禁物だ。焦って無理をすれば、また、脚を壊す。
「焦るなよ」
走は静かに言った。
「焦って無理したら、元の木阿弥だ。ちゃんと、順番に。急がば回れ、だ」
「……わかってるよ」
桐生は頷いた。頷いたが、その目には、抑えきれない熱が、宿っていた。早く、走りたい。早く、あの輪に加わりたい。その思いが、時に、走の"待て"と、静かにぶつかりはじめていた。
だが、この日はまだ、二人とも、それを、小さな火種としか思っていなかった。
「なあ、走」
帰り際、桐生がふと、足を止めて振り返った。
「なんで、お前にだけ、俺の痛みが、わかるんだ?」
走は答えなかった。ただ、少しだけ笑って、夕陽のほうへ、歩き出した。




