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第7話 "今は"走るな

 桐生陸はしばらく走をにらんでいたが、やがて、根負けしたように、空き地の隅に座り込んだ。


「……好きにしろよ。どうせ、何も変わらない」


 走はその左脚のそばにしゃがみ、そっと触れた。膝の下、脛の骨の上のあたり。桐生が痛みに、びくりと肩を揺らす。


 走の眼が灯る。皮膚の下、骨の育ち具合、炎症の場所。指先の感触と、頭の中の設計図を、照らし合わせていく。医療器具は、何もない。田舎の空き地に、あるはずもない。走にできるのは、ただ、前世で何百と診てきた眼と手で、"正しく見立てる"ことだけだった。


 だが、それで、十分だった。


 ――骨は、折れてない。靭帯も、切れてはいない。ただ、成長期の骨に、炎症が居座ってる。原因は、はっきりしてる。休ませず、走らせ続けたことだ。


 《診断/桐生 陸》

  患部 ――― 左脛、骨端の継ぎ目。炎症、慢性化。

  骨・靭帯 ――― 断裂なし。ここは、救える。

  真因 ――― 成長期の過負荷と、休養の欠如。

  可 ――― 脚に頼らない鍛錬。上半身、体幹、ボールタッチの維持。

  不可 ――― 全力疾走。ジャンプの反復。急な切り返し。

  予後 ――― 時間をかけて正しく戻せば、また走れる。ただし"時間をかけて"が、絶対条件。


 診立ては、出た。あとは、この結論を、大人という大人を信じられなくなった目の前の子供に、どうやって信じさせるかだった。そちらのほうが、骨よりも、よほど厄介な患部だった。


「治るよ、これ」


 走が言うと、桐生が鼻で笑った。


「嘘つけ。プロのトレーナーにも、無理だって言われたんだ。お前みたいなガキに、何が」


「無理って言ったやつは、たぶん、"早く治せ"って言われてたんだろ。試合に間に合わせろ、って。だから、無理だった」


 桐生の顔から、笑いが消えた。


「時間さえかければ、治る。ちゃんと休ませて、正しく戻せば。ただ――」


 走はそこで、言葉を切った。ここが、いちばん大事なところだった。


「今は、走るな」


   *


 その一言に、桐生の表情が、ぐしゃりと歪んだ。


「……ほら、やっぱりそうだ」


 吐き捨てるように、桐生は言った。


「みんな、それだ。走るな、無理するな、休め。それって、"諦めろ"ってことだろ。優しいふりして、俺を、サッカーから引き剥がそうとしてるんだ。もう、うんざりなんだよ、そういうの!」


 走は首を横に振った。ゆっくりと、はっきりと。


 桐生がいちばん恐れている言葉と、走が言おうとしている言葉は、似ているようで、まるで逆だった。ここを、伝えなければならない。


「違う。よく聞け」


 走は桐生の目を、まっすぐに見た。


「俺が言ってるのは、"もう走るな"じゃない。"今は"走るな、だ」


 桐生の目がわずかに揺れた。


「終わりじゃない。途中だ。今、無理に走れば、お前の脚は、本当に二度と走れなくなる。だから、今だけ、脚を休ませる。正しく休ませて、正しく戻す。そのあいだに、走る以外にできることを、やる。そうやって、また走れる日まで、繋ぐんだ」


 ――終わりじゃない。ただの、途中だ。


 その言葉を口にした瞬間、走自身の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。それは、前世の走がいちばん言ってほしかった言葉だった。まだ走れると思っていたのに、大人たちに「もう終わりだ」と座らされた、あの日。誰か一人でも、こう言ってくれていたら。終わりじゃない、途中だ、と。


 その言葉を、いま、走は目の前の少年に、渡していた。


   *


 桐生は長いあいだ、黙っていた。


 うつむいて、自分の左脚を、じっと見つめていた。何度も、大人に裏切られてきたのだろう。優しい言葉の裏で、切り捨てられてきたのだろう。だから、簡単には、信じられない。信じて、また裏切られるのが、怖いのだ。


 走は急かさなかった。ただ、隣に座って、待った。


 やがて、桐生がぽつりと言った。


「……走る以外に、できることって、なんだよ」


 その声には、さっきまでの、刺々しさがなかった。ほんの少しだけ、たずねるような、すがるような響きが、混じっていた。


 走は内心で、そっと息をついた。ほんの少しだけ。凍りついていた桐生の顔が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。


「いろいろあるさ」


 走は笑って答えた。


「脚を使わなくても、鍛えられるところはある。ボールの感覚だって、鈍らせずに済む。俺が、全部、教えてやる」


 空き地の向こうで、アカネたちが、わあわあと騒いでいる。


「おーい、東走! なにサボってんの! ……って、誰それ、その暗い顔したの」


 アカネがボールを小脇に、こっちへ駆けてきた。桐生がびくりと身を硬くする。だが、アカネは桐生の脚のことなど気にも留めず、いつもの調子で言い放った。


「あんた、桐生でしょ。ずっと隅で見てるの、知ってるよ。やりたいなら、さっさと交ざりなよ。見てるだけって、いちばんつまんないじゃん」


 その、あまりに屈託のない言葉に、桐生が目を丸くした。走は思わず、笑いそうになった。こいつは、こういうやつだ。憐れみも、気遣いも、値踏みもない。ただ「つまんないじゃん」で、他人の分厚い壁を、軽々と飛び越えてくる。


「……まだ、走れないんだ」


 桐生がぽつりと言うと、アカネはけろっと返した。


「じゃ、走れるようになったら、な。あたしより速いやつ、あんたが初めてかもしんないし。楽しみにしとく」


 言うだけ言って、アカネはまた仲間のほうへ駆け戻っていく。その背を見送る桐生の横顔から、ほんの少しだけ、力が抜けていた。走は静かに立ち上がった。治療は、まだ始まったばかりだ。だが、この少年が戻る"場所"のほうは、もう、ちゃんと用意されている。

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