第6話 転校生
その子は、桐生 陸と名乗った。
名古屋の、それなりに名の知れた少年チームにいたらしい。だが半年前に脚を壊し、思うように走れなくなって、この高山の――祖父母の住む町へ、移ってきたのだという。子供が少なく、伸び伸びやれる場所を、と親が選んだ結果だった。
それだけの事情を、走たちは、ずいぶん経ってから、ぽつぽつと知った。最初のうち、桐生陸は、ほとんど口をきかなかったからだ。
空き地には毎日来る。だが、輪には入らない。隅に立って、五人が遊ぶのを、じっと見ている。ときどき、うずうずとボールへ手を伸ばしかけては、自分の左脚を見下ろして、やめる。その繰り返しだった。
一度、こんなことがあった。誰かの蹴り損ねたボールが、隅に立つ桐生の足元へ、ころころと転がっていった。桐生の左足が、ほとんど無意識に、すっと出る。ボールは、吸いつくように、足の裏で止まった。危なげのない、静かなトラップ。それだけで、走にはわかった。この子は、本物だ。壊れているのは脚だけで、身体に染み込んだ技術のほうは、一つも失われていない。
だが、次の瞬間。桐生は、そのボールを持って前へ運ぶ――ということが、自分にはもうできないと思い出したように、ぴたりと動きを止めた。そして、そっとボールをみんなのほうへ蹴り返すと、また、隅へ引っ込んだ。誰も、その一瞬には気づかなかった。ただ走だけが、あの静かなトラップと、そのあとの凍りつきの、両方を、見ていた。
「なあ、あいつ、なんなの」
ハルが、こそこそと走に耳打ちした。
「一緒にやりたそうにしてるのに、やらないじゃん。感じわるくない?」
「感じが悪いんじゃない」走は、静かに首を振った。「怖いんだよ、たぶん」
「怖い? あんな、上手そうなやつが?」ハルは、腑に落ちない顔をした。
実際、一度、タケルが声をかけたことがあった。人のいいこの男は、隅に立つ桐生へ、「一緒にやろうぜ」と、あっさり手を振ったのだ。だが桐生は、びくりと肩を震わせ、「……いい」とだけ、低く返した。取りつく島もない、拒絶だった。タケルは、きょとんとしたまま、「変なやつ」と首をかしげて、輪へ戻っていく。悪気は、どちらにもない。ただ、桐生の周りにだけ、誰にも越えられない、薄い壁があった。
その壁の正体を、走だけが、知っていた。
*
走には、分かっていた。
桐生陸が輪に入らないのは、意地悪でも、気取りでもない。走れないからだ。かつて、誰よりも上手かったであろうその身体が、いまは思うように動かない。その無様な姿を、人に見られたくない。だから、隅に立って、見ているしかない。
そして、走には、もう一つ、分かってしまうことがあった。
あの脚が、どうしてああなったのか。
走の眼が、遠くからでも、桐生の左脚を捉えてしまう。歩くたびに、左の股関節がわずかに逃げ、その分を、右脚と背中が庇っている。かばい方が、もう身体に染みついている。だが、震源は、そこではない。膝の、すぐ下だ。
成長期の骨は、まん中ではなく、両端の"伸びしろ"の部分から伸びていく。その、まだ軟らかい継ぎ目に、太ももの強い腱が食い込むように付いている。身体が急に背を伸ばすと、骨の伸びに腱の側が追いつかず、継ぎ目が、走るたび、蹴るたびに、内側から引っぱられる。本来なら、しばらく休ませれば、その牽引に骨のほうが慣れて、落ち着く。だが――この脚は、休ませてもらえなかった。引っぱられ、微かに傷つき、治りきる前に、また引っぱられる。それを、何百回、何千回と繰り返した痕が、走の眼には、くっきりと視えた。
骨が折れているのではない。靭帯が切れているのでもない。ただ、骨が完成しきる前の、いちばん脆い時期に、大人の練習量を、丸ごと浴びせられた。成長期のスポーツ障害としては、もう、教科書に載るほど典型的な壊れ方だった。
――こんな小さい脚に。よくもまあ、ここまで。
――誰かが、こいつを、壊したんだ。
奥歯が、勝手に噛み合わさっていた。小さな顎が、痛むほど。
走の脳裏に、前世で見た、いくつもの光景が蘇る。「もっと走れ」「痛いのは気のせいだ」「根性が足りない」。そう言って子供を追い込み、使い潰し、壊れたら「才能がなかった」と切り捨てていった、大人たち。桐生陸の脚には、そういう大人の――たとえば、鵜飼とか、剣持とか、そんな名前で呼ばれる誰かの――影が、くっきりと刻まれていた。
放っておけなかった。
走の脚は、気づけば、桐生のほうへ歩き出していた。
*
「その脚」
声をかけると、桐生の身体が、びくりと強張った。
振り返った桐生の目に、走を見て、あからさまな警戒の色が浮かんだ。この、田舎の、自分より頭ひとつ小さい子供が、いったい何を言い出すのか。
「痛むだろ。特に、走った後の夜」
桐生の目が、見開かれた。
「……なんで」
「それ、無理して走り続けた脚だ。膝の下の、骨の弱いところをやってる。誰かに、無理させられただろ。痛いって言っても、走れって言われて」
言い終わらないうちに、桐生の顔が、ぐしゃりと歪んだ。怒りと、恐怖と、そのほかの何かが、ないまぜになった顔で。
「うるさい!」
桐生が、叫んだ。
「知ったふうな口、きくなよ! お前に、何がわかる! みんな同じだ! 大人も、コーチも、みんな……俺の脚を見て、勝手なことばっかり言って!」
走は、その言葉に、胸を突かれた。桐生は、走の眼を、自分を壊した大人たちと同じ眼だと思っている。値踏みし、診断し、勝手に将来を決める、あの冷たい眼だと。
――そうか。こいつにとって、"視られる"ことは、恐怖なんだ。
だが、それでも、走は退かなかった。退けなかった。目の前の壊れた脚を、放っておくことなんて、どうしてもできなかった。
「もう、走れないと思ってるだろ」
走は、まっすぐに、桐生の目を見て言った。
桐生の顔から、すっと、力が抜けた。図星だったのだろう。うつむいて、絞り出すように、桐生は言った。
「……もう、走れないよ。医者にも、言われた。無理はするな、って。俺は、もう」
その、諦めきった横顔を見た瞬間。
走の中で、六十八年ぶんの何かが、静かに、しかし確かに、動いた。それは、前世で自分自身がかけられたかった言葉。誰も、かけてくれなかった言葉だった。
走の口が、自分でも止められないまま、動いていた。
「診せてみろ」




