第5話 飯を食え、よく寝ろ
季節が、いくつも巡った。
空き地の五人は、来る日も来る日も、遊びという名の練習を続けた。誰も練習だとは思っていない。面白いから、やめられないだけだ。だが走の眼には、その一日一日が、確かな数字になって積み上がっていった。木登りで体幹が、飛び石で接地が、鬼ごっこで加減速が――遊ぶたびに、少しずつ。
春は、田植えを終えたばかりの畦を、泥に足をつけずに跳んで渡る遊びが流行った。夏は水だった。田舎の学校は夏休みのあいだプールを開け放していて、当番の先生が一人いれば、あとは好きに使っていい。都会なら考えられない大盤振る舞いを、この土地の子供たちは当たり前の顔で享受していた。プールがない日は川へ行き、流れに逆らって泳ぎ、岩陰の魚を素手で狙った。秋は稲刈りに駆り出され、腰と背に土の重さがかかった。
集落のはずれの丘では、てっぺんの一本杉まで誰が先に着くかを競った。神社の石段は、杉木立の奥へまっすぐ天へ伸びていて、それを一段飛ばしで駆け上がる。息が上がり、太ももが焼けても、上りきった鳥居の下はいつも、少しだけ涼しかった。アカネはここでも一等だった。誰よりも先に石段を駆け上がり、鳥居に手をついて、涼しい顔で下を振り返る。その姿を、ケンジが真っ赤な顔で追いかけていた。
冬は、雪だった。飛騨の雪は容赦がなく、空き地は真っ白に埋もれて、ボールを蹴るどころではなくなる。都会の子なら冬のあいだ、まるまる身体がなまるところだ。だがこの土地の子供たちは、腰まである深雪を漕ぐようにして駆け回った。雪合戦になれば、やはりアカネが手に負えない。飛んでくる雪玉を身体を捻ってひらりとかわし、投げ返す一球で必ず誰かの顔を白く染める。タケルはそりで荒れた雪面を下るのが妙に上手く、ハルは何度こけても雪の上で笑い、ケンジは両手が真っ赤になるまで、黙々と雪玉を握り続けた。
冬は体力の底を守るだけの季節――地元の大人は、そう思っている。走にだけは、そう見えなかった。着地の衝撃を雪が吸い、脚の芯だけが鍛えられていく。金を積んでも手に入らない環境が、ただそこに、降り積もっていた。
そして走は、遊びのほかに、もう一つだけ、そっと手を加えていた。
「なあ、みんな。飯、ちゃんと食ってるか」
ある日、走がそう切り出すと、四人はきょとんとした。
「唐突だな」
「卵とか、鶏肉とか、魚とか。ああいうのを、毎日食え。あと、朝飯を抜くな。夜は、腹が減ったまま寝るな。ちゃんと食って、ちゃんと寝る。それだけで、身体は変わる」
子供が、栄養の話をしている。おかしな光景だった。だが走は、大真面目だった。前世で叩き込んだ知識のうち、いま彼らに渡せるのは、これくらいの"一般論"だ。難しいことは要らない。正しく食って、正しく寝る。ただそれだけで、田舎の無頓着な食生活は、面白いように底上げされる。
頭の中では、もっと込み入ったことを考えていた。だが、そんな理屈を子供相手に並べても仕方がない。走が口にするのは、いつだって、食え、寝ろ、の二つで足りた。
「ふうん。ソウが言うなら、やってみるか」
タケルが、あっさり頷いた。この男は、走の言うことなら、なぜか素直に聞く。
*
効果は、ゆっくりと、しかし確かに、現れはじめた。
いちばん分かりやすかったのは、タケルだった。
もともと、のっそりした体格の男だ。だが、正しく食い、正しく眠り、毎日走り回るうちに、その身体が、ぐんぐん伸びはじめた。半年ぶりに会った親戚に「背、伸びたなあ」と驚かれるほどに。
走は、そのタケルの身体を、そっと"視た"。
――骨格の伸びしろが、動きはじめている。
「健。お前、二年で俺より頭ひとつ大きくなる」
「はあ?」
タケルはかったるそうに腹をさすった。
「ならねーよ。うちの親、普通だし」
なった。
もともと、この男の骨には、大きな伸びしろが眠っていた。手足の付け根が長く、放っておくのが惜しい原石。それが、正しい育て方を得て、目を覚ましつつある。本人は、何も気づいていない。ただ「最近、よく食うなあ」と、腹をさすっているだけだ。
ケンジも、ハルも、少しずつ変わった。相変わらず、ケンジは足が遅く、ハルはどんくさい。だが、確実に、去年の自分よりは動けるようになっていた。田舎の子供たちが、遊びと食と眠りだけで、じわじわと底上げされていく。
誰も、それが特別なことだとは思っていない。走以外は。
*
もっとも、走の"栄養の話"には、限界もあった。
「アカネ。お前、また駄菓子でメシ済ませてるだろ」
「うるさいなあ。だって、あたし料理できないんだもん」
アカネは、駄菓子屋の袋を抱えて、悪びれもせずに言った。走が何を言っても、この女だけは、食生活が一向に直らない。もっとも、それでも人並み外れて動けるのだから、始末に負えなかった。
走は、思う。自分が渡せるのは、あくまで「健康に、正しく食う」までだ。その先――試合で最大限の力を出すために、いつ、何を、どれだけ食うか。そういう"勝つための食事"は、走の知識の外にある。医者は、栄養の専門家ではない。
いつか、誰かが、そこを埋めるのだろうか。走は、駄菓子をかじるアカネを横目に、ぼんやりとそんなことを考えた。まさか、その"誰か"が、目の前のこの女になるとは、この時はまだ、思いもせずに。
もっとも、走が自分に課していたのは、食えと寝ろの二つだけではなかった。
神社の石段を、子供たちは一段飛ばしで駆け上がる。アカネが一等で、ケンジが真っ赤な顔で追う。走も、一緒に上がる。
ただし、走だけは、いつも二本目で降りた。
三本目からは、着地が乱れる。乱れた着地は、そのまま骨の継ぎ目に落ちる。いま伸びようとしている場所へ、繰り返し衝撃を落とせば、身体はその借りを、あとで痛みにして返してくる。
落とした日には、誰も気づかない。十年経ってから、届かなかったという形で分かるだけだ。
「ソウ、もう終わり?」
「疲れた」
「じゃあ、おれも終わり」ケンジが横に座ろうとした。
「お前は上がれ」
「なんでだよ!」
「お前の脚は、まだ三本いける」
ケンジは口を尖らせて、それでも三本目を上がっていった。
嘘だった。まだ、いくらでも上がれる。
脚が、三本目を欲しがっていた。鳥居の下の、あの涼しさを、あと一回。走はそれを、石段の下で腕を組んだまま、飲み下した。
上がれるのに、上がらない。前世でこの順番を守らなかった子供たちが、二十年後にどんな脚で診察室へ来たかを、走は知っている。
いちばん効く薬は、たいてい、やらないことのほうだった。
*
「うそだ」アカネは鳥居に手をついたまま、下を覗き込んでくる。「あんた、息、乱れてないもん」
走は答えなかった。かわりに一段だけ上って、アカネの脚を見上げた。着地のたび、膝から下が内へわずかに倒れている。踵から潰れるように落ちて、その衝撃が脛の内側へ抜けていく。二本目まではきれいだった。三本目から、崩れた。
「アカネ」
「なに」
「明日、脛の内側が痛くなる。ここだ」走は自分の脛を指で押さえてみせた。「骨の際。押すと、そこだけ痛い」
アカネは、ぽかんとした。それから、吹き出した。
「はぁ? なにそれ。あたし、どこも痛くないけど」
「今日は痛くない。明日だ」
「意味わかんない」アカネは笑って、また石段を駆け上がっていった。「見てなよ、あと三本上がるから!」
ケンジとタケルが顔を見合わせて笑う。ハルにいたっては「ソウ、占い師?」と本気で聞いてきた。
*
翌朝、アカネは空き地に来なかった。
昼を過ぎて、ようやく現れた。歩き方が、おかしい。左脚をかばうように、爪先から地面に置いている。
走の前まで来て、アカネは立ち止まった。何か言おうとして、やめて、それからしゃがみ込んで、自分の脛の内側を指で押した。
「……ここ」
「そこだ」
「なんで」アカネの声が、少し掠れていた。「なんで昨日、分かったの。あたしより、先に」
走は答えなかった。答えられる答えを、持っていなかった。
かわりに、こう言った。
「三日、走るな」
「え、やだ」
「三日だ。四日目からは、いつも通りでいい」走はアカネの脚を指した。「いま無理したら、三日が三ヶ月になる」
アカネは口を尖らせた。文句を言いたい顔だった。言いたい顔のまま、しばらく走を見て、それから、小さく頷いた。
この子が誰かの言うことを聞いたのを、走は初めて見た。
三日後、アカネは何ごともなかった顔で石段を駆け上がっていった。一等だった。
その日から、アカネは走が「やめろ」と言うと、文句を言いながら、やめるようになった。
その夜、走は、自分の身体も"視た"。
毎日の積み重ねは、走自身の脚も、少しずつ設計図に近づけていた。まだ全力では走れない。だが、長く、一定のペースで動き続けることなら、同い年の誰にも負けない身体になりつつあった。一日じゅう走り回っても、最後まで落ちない。それは、いつか走の、いちばんの武器になるはずのものだった。
「走。あんた、最近、ほんとに人が変わったみたいやね」
布団を敷きにきた佳代が、ふと、そんなことを言った。
「毎日まっ黒になって、よう食べて、よう寝て。都会におった頃は、どこか、張り詰めた子やったのに」
走は、どきりとした。母は、何も知らないはずだ。だが時々、こういう、妙に核心を突く一言を漏らす。走は、布団に潜り込みながら、小さく答えた。
「……こっちのほうが、性に合ってるんだ」
嘘ではなかった。土の匂いのする、この場所。走りたいだけ走らせてくれる、この暮らし。前世で焦がれ続けたものが、今、確かにここにある。
*
だが、穏やかな日々は、ある春、唐突に終わりを告げた。
いつものように空き地へ向かった走は、その手前で、足を止めた。
見慣れない子供が、一人、立っていた。
真新しいスパイクに、しゃれたウェア。明らかに、この田舎の子じゃない。都会の、それも、きちんとサッカーを"習ってきた"身なりだった。だが、その子は、ボールを蹴るでもなく、ただ、空き地の隅に、ぽつんと突っ立っていた。
そして、走は気づいた。
その子の左脚が、不自然に、かばわれている。歩くたびに、庇うように、わずかに引きずられている。
走の眼が、頼んでもいないのに、勝手に灯った。その脚を、"視て"しまう。
――ひどいな、これは。
膝から下の、痛々しい歪み。無理な負荷を、長いあいだ、かけ続けた脚。まだこんなに小さい身体に、どうしてこんな傷が。
その子は、走の視線に気づくと、怯えたように、一歩、後ずさった。まるで、傷を見られることを、何より恐れるように。
二度目の人生の、最初の"患者"が、こうして、走の前に現れた。




