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第4話 はじめての本気の試合

 夏が来て、空き地の遊びは、少しずつ"試合"の形になっていった。


 その日も、始まりはいつもの木登り競争だった。雑木林のいちばん高い枝まで、誰が先に手をかけるか。まっさきに駆け上がったのは、やはりアカネだ。だが、その背中を、意外な子が追った。タケルだった。のっそりして見えて、手足の長いその身体が、枝から枝へ、危なげなく身を送っていく。


 走は、下からそれを"視て"いた。木登りは、全身をばらばらに連動させ、体幹だけで身体を吊る。どんな器具より正直な、体幹と空間把握の訓練だ。子供たちは、そんなことは知らない。ただ、てっぺんを取ったやつが偉い、というだけの遊びだった。


 ――遊んでいるだけで、勝手に伸びる。


 川の飛び石も、畦道の全力鬼ごっこも、石の遠投も、走の眼には同じに映った。接地感覚、不整地での加減速、身体をひねる連鎖。都会なら月謝を払い、コーチをつけ、メニューを組んでやらせることを、この田舎の子供たちは、ただ面白いというだけで、日が暮れるまで繰り返している。娯楽の少ないこの土地の"退屈"が、走の設計にとっては、最高の環境だった。走がしたことは、たった一つ。その遊びに、そっとルールを足したことだけだ。


 ゴールを決めたら交代。取られたら守る。それだけで、遊びは勝ち負けのある競技に変わり、子供たちはさらに夢中になった。


 問題は、人数だった。


「今日も五人か」


 田口の爺さんが貸してくれるボールを抱えて、走は空き地を見渡した。走、アカネ、タケル、ケンジ、ハル。五人。ちゃんとした十一人制はもちろん、四対四ですら、八人には三人足りない。


「近所の子、もっといないのか?」


「いないよ」アカネがあっさり言った。「この辺、子供少ないもん。だから、いつも二対二か、三対二。人が来た日だけ、大きいのやるの」


 少ない、とアカネは不満そうに言った。人数が揃わないのは、この田舎のハンデだと。


 だが、走の頭は、まるで逆の答えを弾き出していた。


 ――少ないほうが、いい。


 人数が少なければ、一人がボールに触る回数は、桁違いに増える。全員が攻めて、守って、走り続けるしかない。逃げ場がない。それは偶然にも、この先の時代に世界が"最も効率のいい育成法"だと気づく、その形そのものだった。誰も知らない。この田舎の、人の少なさが、武器になることを。


 なら、それを、もっと効かせればいい。


 走は、空き地を歩いて、杭の位置をずらした。ゴールとゴールの間を、ふだんより十歩ぶん狭くする。


「なにしてんの」


「こっちのほうが、面白い」


 嘘ではない。だが、本当のことも言っていない。狭ければ、ボールは早く来る。判断する時間が減り、触る回数が増え、走る距離あたりの密度が上がる。広い場所で長く走らせるより、狭い場所で何度も切り返させるほうが、この年代の身体には効く。


 人数も、広さも、走が決めた。子供たちは、誰も、それが決められたものだとは思っていない。


 「じゃあ、三対二でやろう」走は言った。「アカネがいるチームが二人、いないチームが三人。それでちょうどいい」


   *


 試合が始まれば、やはりアカネは、手がつけられなかった。


 二人しかいない側にアカネがいるだけで、三人の側が防戦一方になる。彼女がボールを持てば、二人がかりでも止まらない。走は最後尾から、必死に穴を埋めようとするが、埋めた先から、また別の穴を突かれた。


 その日、走のチームは、何度やっても勝てなかった。


 だが、走の目は、試合の勝ち負けとは別のものを追っていた。


 ――健司の、ボールに触る回数。


 いちばん下手で、いちばん遅いケンジ。ふつうの大人数の試合なら、こういう子は隅に立って、九十分ボールに一度も触らずに終わることもある。だがこの三対二では、逃げ場がない。ケンジにも、否応なくボールが回ってくる。触って、失って、また触る。下手なりに、必死に。


 そして走は、確かに視ていた。ひと月前、まったくボールを止められなかったケンジの足が、ほんの少しだけ、球に慣れてきているのを。


 ――伸びてる。いちばん下手なやつが、いちばん伸びてる。


 逃げ場のない場所は、置いてけぼりにされてきた子供にこそ、効く。走が都会で何度も見た、隅に追いやられて球に触れないまま消えていった子供たち。その逆のことが、この狭い空き地で起きていた。


 走は、そこにもう一つ、仕掛けを足した。


「健司」走は、ケンジを呼んだ。「そこから動くな」


「え、また?」


「また、だ。健、お前は健司の三歩隣に立て。それ以上、離れるな」


 タケルが「かったるいな」と言いながら、言われた場所へのっそり移った。ケンジは突っ立ったまま、所在なげに首をかしげている。


「なにそれ」ボールを足の裏で転がしながら、アカネが顔をしかめた。「二人でかたまって、どうすんの」


 走は答えなかった。


 理屈は単純だ。相手が一人しかいないところへ、味方を二人置く。二対一。たった一人の相手に二人で向かえば、いちばん下手なケンジでも、パスを一本、通せる。局所で数的優位さえ作れれば、弱い者でも、そこだけは勝てる。


 その日、それが起きた。


 ボールが、ケンジの足元へ転がってきた。追ってきたのは、一人。ケンジはいつもなら、そこで慌てて蹴り出す。だがこの日は、三歩隣にタケルがいた。ケンジはぎこちなく、そちらへ足の内側でボールを押した。


 通った。


 タケルが返す。ケンジが、また触る。相手の子は二人のあいだを行ったり来たりして、どちらにも間に合わない。三本目がケンジの足に戻ってきたとき、その前には、誰もいなかった。


 ケンジは、蹴った。


 ボールはたいして速くもなく、まっすぐでもなく、ゴール代わりに置いた石のあいだを、ころころと転がって抜けた。


 空き地が、静まり返った。


「……入った?」ケンジが、自分の足を見下ろした。「え、いま、おれ?」


「入った」走は言った。言った声が裏返っているのに、言ってから気づいた。


 次の瞬間、ケンジが、これまで誰も聞いたことのない声で叫んだ。ハルが笑いながら転び、タケルが「おれのパスだろ」と主張し、アカネだけが腰に手を当てて、走のほうを睨んでいた。


 走は、気づけばケンジの背中を叩いていた。一度では足りなくて、二度。ケンジが「痛い!」と言って、痛いと言いながら笑っていた。


「……あんた、また、なんかした?」


「何も」走は言った。「立つ場所を、決めただけだ」


 もっとも、その理屈が、まるで通じない相手も、一人だけいた。


 アカネだ。走が、彼女に二人がかりで当たらせても――アカネから見れば一対二、数の上では不利のはずでも、彼女は、平然と二枚を抜き去っていく。二対一で囲めば、弱い者でも勝てる。だが、囲まれてなお勝ってしまう者が、ごく稀に、いる。数の理屈を、たった一人の才能が、易々と踏み越えていく。走は、その光景を、半ば呆れ、半ば見惚れて眺めた。設計で埋められる差と、設計では埋められない差。その両方が、この狭い空き地に、同時に転がっていた。


   *


 日が傾く頃には、全員が、汗みずくで草の上に倒れていた。


「あー、負けた。今日も一回も勝てなかった」


 タケルが、大の字になって空を見上げる。ケンジは、まだ肩で息をしながらも、なぜか嬉しそうだった。


「でも、おれ、今日けっこうボール触れたよな」


「触っただけだろ。ぜんぶ取られてたじゃん」ハルが、けらけら笑う。


「うるさいな。触っただけでも、進歩なの」


 その、なんでもないやり取りを、走は横になったまま聞いていた。ケンジの言うとおりだった。触っただけ。でも、その"触っただけ"を毎日積み重ねた先に、この子たちの身体は、少しずつ変わっていく。走にだけは、その先が視えている。


 背中に、草の湿りが染みてくる。心臓が、まだ少し速い。今日一日、走は最後尾で穴を埋め続けて、埋めた先からまた突かれて、一度も勝てなかった。腿の裏が張って、腕を上げるのも億劫だ。


 空だった。


 それが、気持ちよかった。


「ソウ、生きてる?」ハルが顔を覗き込んでくる。


「……生きてる」


「声、死んでる」ハルはけらけら笑って、また転がっていった。


 そして、アカネだけが、まだ立っていた。


「もう一回! あと一回やろうよ!」


 一人だけ、ぜんぜん疲れていない。誰よりも走り回ったはずなのに、まだ足りない、という顔で、ボールを蹴っている。走は、その姿を眺めながら、胸の奥がざわつくのを感じた。


 ――やっぱり、この子は、桁が違う。


 三人を正しく並べれば、一瞬ボールをこぼさせることはできる。だが、それは一瞬だけだ。次の瞬間には、アカネはもう対応して、また誰も止められなくなる。今のところ、走に打てる手は、そのほとんどが、アカネの前では一度きりしか通用しなかった。


 速さも、強さも、スタミナも。この一瞬の彼女は、あまりに完成されている。


 走は、寝転んだまま、こぶしを軽く握った。追いつくのは、まだずっと先だ。だが、時間だけは、こっちにたっぷりある。


「東走! あんたも、もう一回!」


 アカネが、こっちへボールを蹴ってよこす。走は、のろのろと起き上がった。


「……わかったよ」


 勝てないと分かっている試合へ、それでも走は立ち上がった。ボールひとつ、まだ奪えない身体で。


 だが、頭の奥には、いつからか、ひとつの景色が住みついていた。埋め尽くした観衆の底で、たった一人、最後まで走り続ける男の姿。あれが誰なのかは、わからない。ただ――いつか自分も、あの場所に立つのだと、理屈もなく、そう思った。

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