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第3話 遊びがサッカーになる

空き地に通うようになって、ひと月が過ぎた。


 走は、まだ一度もアカネからボールを奪えていない。だが、通ううちに、いくつか分かったことがあった。


 ひとつ。ここに集まる子供の顔ぶれは、だいたい決まっている。ふたつ。田口の爺さんが貸してくれる古びたボールが四つあれば、"試合"らしきものが成立する。みっつ。走以外の三人が、面白いくらい三者三様だということ。


 まず、タケル。高木 健(たかぎ たける)というのが本名だが、誰もそうは呼ばない。のっそりした体格で、運動はまるで好きじゃない。「かったるい」が口癖のくせに、なぜか毎日来る。田舎には、ほかにやることがないからだ。


 次に、ケンジ。加藤 健司(かとう けんじ)。集落でいちばん背が低く、走の次に足が遅い。何をやっても人並み以下。それでも、けろっとした顔で何度でも立ち上がる、妙にしぶとい男だった。


 最後に、ハル。林 陽(はやし はる)。とにかくどんくさい。ボールに躓いて転び、自分で笑う。上手いも下手も、勝ちも負けも、この男の世界には存在しないらしい。ただ、楽しいから、そこにいる。


 この四人と、アカネ。それが、いまの走の、世界のすべてだった。


   *


「一対三でやろうぜ」


 その日、そう言い出したのはアカネだった。


「あたしが一人。あんたら四人のうち三人が相手。それでも、あたしが勝つ」


 誰も驚かなかった。事実、これまで何度やっても、アカネは一人で三人を蹴散らしてきた。四人がかりでも、彼女を止められたことは一度もない。


「じゃあ、俺が余る一人な」


 走が言うと、アカネは意外そうな顔をした。


「あんた、入んないの? 一番へたっぴなのに」


「見てるほうが、性に合ってる」


 本当は、違う。走は、見たかったのだ。ピッチの外から、全体を。誰がどこにいて、どこが空いて、アカネのボールがどこを通るのか。前に出て走り負ける前に、まず、この目で盤面を測りたかった。


 ――速さで敵わないなら、位置で戦うしかない。


 それが、身体の育たない今の走に残された、たった一つの戦い方だった。


   *


 試合が始まって、三分で、走は確信した。


 タケル・ケンジ・ハルの三人は、てんでバラバラだった。アカネが右に動けば三人とも右に釣られ、左に切り返せば三人ともつんのめる。三人いる意味が、まるでない。アカネは笑いながら、その隙間を鼻歌まじりに通り抜けていく。


 だが、走の眼には、別のものが視えていた。


 《診断/花村 茜・六歳》

  発育 ――― 同年代比、一年から二年、先行。

  出力 ――― 骨格の完成が早いぶん、いまは誰も追いつけない。

  癖 ――― 右足で内へ切り返す一手に、強い偏り。

  弱 ――― 左へ追い込まれると、選べる手が減る。


 アカネは、確かに速い。だが、彼女がいちばん危険なのは、右足で切り返して内側に入る、あの一手のときだ。逆に、左へ追い込まれると、選択肢がぐっと減る。本能で動くぶん、追い込まれた"癖"には、規則がある。


 ――右を消して、左へ誘え。


「健司!」


 走は、いちばん足の遅いケンジを呼んだ。


「お前は、アカネの右足の前だけ、立っとけ。動かなくていい。ただ、そこに立っとくだけでいい」


「え、おれ? 何もしなくていいの?」


「いい。動くな。それだけでいいから」


 ケンジは、きょとんとしながらも、言われたとおり、アカネの右斜め前に、ぼうっと突っ立った。何もしていない。ただ、そこにいるだけ。


 そして、アカネがボールを持った。


 いつものように、右へ切り返そうとして――そこに、ケンジがいた。たいして速くもない、上手くもないケンジが、ただ、そこに立っている。アカネの身体が、一瞬、迷った。右を塞がれたぶん、彼女は反射的に、左へ流れた。


 左には、タケルがいた。


「今だ、健! 三人で囲め!」


 走の声に、のっそりしたタケルが、はじめて意味のある一歩を踏み出す。左に追い込まれ、選択肢を失ったアカネは、生まれて初めて――三人に、囲まれた。


 ボールが、こぼれた。


 一瞬の、静寂。


 誰も、何が起きたのか、すぐには分からなかった。アカネ本人ですら、目を丸くしていた。何もしていないケンジが立っていただけ。どんくさいタケルが一歩出ただけ。なのに、あの無敵のアカネから、ボールがこぼれた。


「取れた!」


 走の声だった。自分でも驚くほど、大きかった。


「健司! 今の、お前だ!」


「え? おれ、立ってただけだけど」ケンジはきょとんとして、それから、じわじわと顔を赤くした。「……立ってただけで、いいの?」


「いい。それでいい」


 走は、杭のそばから、いつのまにか三歩、中へ入っていた。


 こぼれたボールを、ハルが、どんくさく踏んづけて転んだ。


「いってぇ!」


 全員が、どっと笑った。


   *


「……なんで」


 アカネだけが、笑っていなかった。


 草の上に座り込んだまま、信じられない、という顔で走を見上げている。汗が、頬を伝っていた。


「なんで、取れたの。あたし、誰にも取られたことないのに。しかも、健司と健と陽だよ? いちばん弱い三人だよ?」


「三人が弱いのは、関係ない」


 走は、静かに言った。


「一人ずつなら、お前に敵うやつはいない。でも、立つ場所さえ間違えなきゃ、一番弱いやつでも、お前の右足を止められる。強い一人より、正しく並んだ三人のほうが、強いことがある」


 アカネは、しばらく、走の顔をじっと見ていた。それから、ふっと、口元を緩めた。


「……あんた、やっぱ変なやつだ」


 だがその声には、さっきまでの、からかうような響きはなかった。何か、もっと別のもの――走にも、うまく名前のつけられない色が、混じっていた。


   *


 その夜、走は布団の中で、天井を見上げていた。


 勝ったわけじゃない。ボールを一つ、こぼさせただけ。しかも、自分は一歩も動いていない。動けない身体の代わりに、三人を"置いた"だけだ。


 だが、それでいい。むしろ、それがいい。


 速く走れなくても、強く蹴れなくても、盤面を視て、人を正しく置くことはできる。それは、この幼い身体でも、今すぐできることだった。前世で医者として、何百という身体を視てきたあの眼は、こんなふうにも使えるのか。


 いちばん弱い駒が、いちばん強い相手を止める。


 それは、都会に置いてきた、いくつもの顔を思い出させた。才能がないと切り捨てられた者たち。伸びる前に、線を引かれた者たち。あのとき言い返せなかった言葉の答えが、こんな田舎の空き地に、転がっている気がした。


 窓の外は、静かだった。今日はもう、あの鋭い足音は、聞こえない。


 走は、目を閉じた。明日は、何を試そうか。ケンジを置く位置を、もう五十センチずらしたら、アカネはどう動くだろう。考えているうちに、口の端が、ひとりでに緩んでいた。


 二度目の人生は、どうやら、退屈とは無縁らしかった。

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