第2話 いちばん速い子
翌朝、走は、あの足音を探しに家を出た。
昨夜、窓の外を鋭く駆け抜けていった、あの一人。顔も名前も知らない。だが、確かめずにはいられなかった。頭の中の設計図が、まだ勝手にうずいている。
集落は、朝から子供の声で満ちていた。都会なら公園に何人集まるかで一喜一憂したものだが、この田舎では、道そのものが遊び場らしい。畦道、用水路、雑木林、崩れかけた石垣。走が歩いていくと、集落のはずれの空き地で、数人の子供がボールを追っているのが見えた。
その真ん中に、一人いた。
その子がボールに触れるたび、まわりの時間が、少しだけ速く流れて見えた。短く切った髪。日に焼けた脚。相手が三人がかりで囲んでも、身体をひとつ沈めた次の瞬間には、もう囲みの外に抜けている。誰も追いつけない。追いつけないまま、その子だけが笑っていた。
――こいつだ。昨日の足音は。
走の眼が、反射的にその身体を捉える。無駄のない運動連鎖、同年代を明らかに超えた出力。そして走は、すぐに気づいた。この子が飛び抜けているのは、才能だけじゃない。
――昨夜の見立ては、外れていなかった。八つか、九つ。二年ぶん、この子だけが、先にできあがっている。
といっても、二次性徴なんて、この歳の誰にもまだ来ていない。今のこの子の図抜けかたは、単純に、生まれ持った運動神経と、一足早い発育と、物怖じしない度胸――それだけの産物だ。だが走の眼は、その先まで視てしまう。この子はやがて、女子のほうが数年早い二次性徴の波にも乗って、しばらく、誰にも手がつけられなくなる。理屈でそこまで見えても、三人を置き去りにして笑う姿は、ただ、眩しかった。
「なに、あんた」
視線に気づいたその子が、ボールを足の裏で止めて、こちらを睨んだ。汗で前髪が額に張りついている。勝ち気な、まっすぐな目だった。
「見ない顔。どっから来たの」
「……この前、そこに引っ越してきた。東走」
「ふうん。アズマ、ソウ」
名前を舌の上で転がすように言って、その子は腰に手を当てた。
「あたし、花村 茜。アカネでいい。この辺で、あたしより速い子はいない」
自慢ではなく、事実の確認だった。何度も勝って、何度も確かめて、もう揺るがなくなったことを、口に出しているだけ。
「あんたも入る? いま一対三やってんだけど、物足りないから一対四やろ」
*
最初の一本が、走の足元へ転がってきた。
古い革のボールだった。空気が少し抜けていて、土の色に染まっている。走はそれを、右足の内側で止めた。
止まった。
それだけのことで、走は一瞬、次の動きを忘れた。足の内側に、革の重さが返ってくる。前の生で最後にこれを蹴ってから、五十年以上が経っていた。走はこの重さを、何度も思い出そうとした。思い出すたびに少しずつ薄れて、最後には、思い出しているのか作っているのか、分からなくなっていた。
本物は、思っていたより、重かった。
「早く出せ!」
アカネの声で、走は蹴った。六歳の脚で蹴った球は、思った方向の半分も飛ばなかった。それでも、爪先に残った痺れだけは、いつまでも消えなかった。
*
結論から言えば、走のいるチームは、一点も取れずに沈んだ。
正確には、走の眼は機能していた。アカネが仕掛けてくる方向は、重心の沈み込みで読めている。だから足を出す位置も、頭では間に合っていた。だが六歳の脚は、その読みにいつも半歩遅れて追いつく。そして、その半歩を、アカネはことごとくすり抜けた。
一度など、走は、完璧に読んだ。アカネが右へ切り返す、その重心の傾きを、コンマ何秒か早く捉え、足を出す位置まで、頭では正しく決めていた。だが、その正しい場所へ、六歳の脚が運ばれる前に、アカネの姿は、もうそこにない。読みは、当たっている。当たっているのに、身体が、追いつかない。走は、思うように動いてくれない自分の脚を、恨めしく見下ろした。前世の頭と、六歳の脚。その二つの、絶望的な隔たりを、走は、この日、嫌というほど思い知らされた。
恨めしく見下ろした、その脚を、走はそのまま視た。
《診断/東 走・六歳》
接地 ――― 減速のたび、足が身体より前へ出ている。
膝 ――― 切り返しの瞬間、内へ入る。
負荷 ――― 膝の内側に集中。この形を続ければ、いずれ壊れる。
損失 ――― 方向を変えるたび、およそ半歩ぶん。
――ああ。
走は、短く息を吐いた。
遅い。それは事実だ。だが、遅いだけではなかった。走は、止まるたびに、自分で自分にブレーキを踏んでいる。足を身体の前へ投げ出して着けば、その足は前へ進む力を正面から受け止める杭になる。杭を打った脚が地面から離れるまでに、余分な時間が要る。半歩は、そこで消えていた。
六十八年、他人の脚で、何百回と見てきた形だった。膝を痛めて診察室に来る子は、たいてい、この止まり方をする。走はそのたびに、痛みが出てから、遅れて教えてきた。
いま、その診断を、初めて自分の脚に向けている。しかも、まだ何も壊れていないうちに。
速く走ることは、この身体にはできない。力をつけるにも、順番がある。
だが、足を置く場所を変えることなら、いま、この瞬間にできる。
――足は、身体の下へ。膝は、つま先と同じ向きへ。
次にアカネが来たとき、走はそれだけを考えた。
彼女の重心が右へ沈む。走は読む。読んで、足を出す。今度は、身体の前ではなく、下へ。
――届かない。
やはり、届かなかった。アカネはもう、走の脇を抜けている。
だが。
靴の先が、ボールの表面をかすった。
それだけだった。奪えてもいないし、止めてもいない。ボールの軌道は一ミリも変わらず、アカネはそのまま走り去って、あっさりゴールを決めた。
走は、自分の右足を見た。
半歩、遅れていた。それが、半歩に少しだけ足りない何かになった。数字にするなら、何センチだろう。十センチか、五センチか。測る道具は、ここにはない。
だが、確かに、変わった。
脚が速くなったわけではない。身体が大きくなったわけでもない。ただ、足を置く場所を、一つ変えただけだ。それだけで、届かなかったものが、かすった。
――変えたのは、俺だ。
六十八年かけて叩き込まれた知識が、いま初めて、この小さな身体の上で、仕事をした。
だが――不思議と、悔しさの底に、熱いものがあった。読めてはいるのだ。ならば、あとは、この身体を、読みに追いつくところまで育てればいい。ただ、それだけの話だった。
とにかく、速い。そして、強い。細い身体のどこにこんな力があるのか、競り合えば男の子でも弾き飛ばされ、走り出せば誰も背中に触れられない。ボールを持てば、味方も敵も関係なく、彼女ひとりだけが別のゲームをしているようだった。ドリブル、シュート、切り返し。教わった形など一つもないのに、身体が勝手に一番いい選択を引き当てていく。そして追い込まれるほど、アカネは楽しそうに笑うのだ。ピンチのはずなのに、笑う。その笑い声が、走にはいちばん、遠くに感じられた。
「ほら、どうしたの! そんなんじゃ、百年たってもボール取れないよ!」
尻もちをついた走の脇を、アカネが風のように抜けていく。その背中を、走はただ見送ることしかできなかった。
尻の下で、土が温かかった。
走は、肩で息をしていた。心臓が、肋骨の内側を叩いている。喉が焼けて、脚の付け根が重い。六歳の身体は、たった十分の追いかけっこで、もう底を見せていた。
だが、その底の底で、何かが小さく笑っていた。息が切れている。脚が重い。走ったからだ。自分の脚で球を追って、抜かれて、転んだからだ。
悔しかった。腹の底が、焼けるように悔しかった。
「もう一回」
口から出ていた。尻もちをついたまま、走はアカネを見上げていた。
「はァ? まだやんの? あんた、もう脚ぷるぷるじゃん」
「いいから。もう一回」
「……ふうん」
アカネは、少しだけ嬉しそうに、ボールを足の裏で引いた。
「いいよ。何回でも。あたし、負けないから」
走の口の端が、勝手に吊り上がっていく。悔しいのに、笑っていた。この背中を追いかけられること自体が、六十年、手に入らなかった贅沢だった。
*
試合が終わると、アカネが、しゃがみ込んで走の顔を覗き込んできた。
「あんた、変なやつだね」
「……そうか」
「へたくそのくせに、あたしが仕掛ける前に、たまに"先"にいた。ぜんぶ間に合ってなかったけど。なんか、じいちゃんみたいな眼、してる」
どき、とした。
この子は、視ている。走の異様さを、まっすぐに。だがアカネの声に、気味悪がる色はなかった。あるのはただ、変わったおもちゃを見つけた子供の、無邪気な好奇心だけだった。
「べつに、いいけど」アカネはあっさり立ち上がった。「あんた、明日も来る?」
「行く」
「じゃ、また相手になってやるよ。今のあんた、見てらんないからさ」
からから笑って、アカネはボールを拾いに走っていく。その軽やかな背中に、走は、胸の奥で静かに言葉を返した。
――今は、それでいい。せいぜい笑ってろ。
この身体が設計図に追いつく日まで、何年でもかけてやる。そして、いつかお前のその切り返しの、一歩前に、ちゃんと"間に合って"立つ。追いつくのは、俺のほうだ。
誰かに教わるつもりも、教えるつもりもなかった。この背中は、自分の脚で追いつくからこそ意味がある。
*
夕方、遊び疲れた子供たちが空き地に寝転んでいると、畦道の向こうから、鍬を担いだ老人がやってきた。
田口 忠。この空き地の持ち主で、農閑期には近所の子供に球を貸してやる、世話焼きの爺さんだ。
「おう、また来とったか。好きに使え」
それだけ言って、田口は物置から古びたボールをいくつか放ってよこすと、少し離れた木陰に腰を下ろした。教えるでもなく、口を出すでもなく、ただ場所と球を与えるだけ。子供が自分で見つけたものに、大人が口を出すもんじゃない――それが、この爺さんの流儀らしかった。
ボールを追う子供たちを眺めていた田口は、新入りの子を、少しのあいだ目で追った。転んでも痛がらず、走りたそうな顔をして、なぜか自分から力を抜く六歳。
妙な子だ、と思った。だが、それ以上は詮索しなかった。田舎の子は、たいてい少し変わっている。そういうものだ。
*
帰ろうとする走の背に、アカネの声が飛んできた。
「おい、東走! 明日も来いよ。逃げたら承知しないからな!」
ふり返ると、彼女は夕陽の中で、ボールを小脇に抱えて笑っていた。逃げるわけがない、と走は思う。逃げるどころか、追いかけるのだ。あの背中を、自分の脚で。
だが、その眩しい笑顔を見ていると、走の眼が、頼んでもいないのに、そっと囁いてくる。
――この子が誰よりも強いのは、誰よりも早く、身体が育ったからだ。
早く咲いた花は、早くその時期を終える。いま頂点に立っているこの子を、後から育つ子たちが、いつか追い越していく日が来る。
視えてしまう自分が、少しだけ、嫌だった。
走は、その考えを、夕闇の奥へ押し込めた。今はまだ、誰も知らなくていい。アカネ本人さえも。
「……ああ。明日も来る」
明日は、次の一つを直す。腕の振り方でも、息の吸い方でもいい。一日に一つずつ、この身体を、頭の中の設計図へ近づけていく。
そう答えた声は、我ながら、少しだけ上ずっていた。長い一日が、こうして暮れていく。




