第1話 二度目の六歳
音が、遅れて届いた。
四方を埋め尽くした人間の数は、もう数として意味をなさない。大気そのものが熱を持って震えていた。アジア人が、まだ一度も立ったことのない場所だ。
その渦の中央を、一人の男が走っていた。
時計が人の脚の止まる時間をとうに指しているのに、周りの選手の足は一歩ごとに芝へ沈み、踏み込みが鈍り、粘り、止まっていく。ピッチの上の誰もが、走り終えようとしていた。
その中で、たった一人。
その男の脚だけが、まだ上がっていく。落ちるどころか、ここへ来て、加速している。まるで九十分すべてを、この最後の一瞬のために取っておいたかのように。
いつだったか、ずっと昔、薄れていく意識の底で、一つの問いだけが残ったことがある。手術室の白い光でも家族の泣き声でもなく、六十八年生きた人生の最後になぜか浮かんだのは、それだった。
俺は結局、九十分、走り切れる男だったのか。
確かめられないまま、そこで終わった。
――時間が、巻き戻る。
*
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
湿った土と、青い草いきれ。都会のアスファルトには絶対にない、山の匂い。それが、引っ越してきたばかりの家の、開け放した窓から流れ込んでくる。遠くで誰かが草刈り機を回す音と、名前も知らない鳥の声。何もかもが、六歳の東 走には初めてのはずだった。
なのに、やけに懐かしい。
その懐かしさが引き金だった。畳の上で身を起こそうとした瞬間、視界が白く飛んで、流れ込んできた。
六十八年分の、記憶。もう一つの、人生。歳を取り、老いて、死んだ。そのことを、六歳の身体が、たった一瞬で理解してしまう。
この匂いを、知っている気がした。生きているあいだ、ついに手に入らなかった何か。土と草の匂いのする、静かな場所。それが、なぜか今、目の前にある。
なぜ、こんな所に。理屈は何ひとつわからない。わかるのはただ、焦がれ続けたものの只中に、自分が投げ込まれているという、その一点だけだった。
そして、その長い一生の底のほうで、ずっと膿んだままだった古い傷が、真っ先に疼いた。
まだ走れると確かに思っていたのに、大人たちは正しい顔をして俺の脚を測り、そして、座らせた。誰の声で、なんと言われたのか。その言葉だけは今もまだ靄の向こうにあって、ただ「諦めさせられた」という事実の輪郭だけが、六十八年分の重さで、六歳の小さな胸をみしりと軋ませた。
――そうだ。俺は、途中で終わらされたんだ。
濁流が引いていくと、あとに残ったのは、奇妙な静けさと、身体の違和感だった。握る。開く。ちゃんと、動く。だが――小さい。あまりに、小さい。頭の中には六十年かけて積み上げた身体の設計図が一枚残らず入っていて、どの筋肉をどの順でどう使えばいいか、全部わかる。
わかるのに。
立ち上がって廊下を走ろうとしたら、たった三歩でつんのめった。膝が思ったところに来ず、地面を蹴る力は頭の中の想定の十分の一も出ない。頭では完璧に分かっているのに、この身体は何一つ言うことを聞かなかった。
畳に手をついて、走は声を殺して笑った。喉の奥から、震えのような笑いが込み上げてくる。六十年、欲しくてたまらなかったのだ。もう一度あの脚を、まだ伸びる途中だったあの身体を――それが今、誰にも奪われていないまっさらなまま、目の前にある。
――今度こそ。
そう思った次の瞬間、台所から母の声がした。
「走ー、ごはんよー」
その、なんでもない声に、走の身体は勝手に強張った。
*
夕餉の膳を前に、走は味のわからないまま白飯を口に運んでいた。
向かいには父の誠一、隣には母の佳代がいる。二人とも愛知にいた頃の張り詰めた顔つきが、この土地に来てから少しずつほどけてきていた。父が味噌汁をすすり、母が「引っ越し、疲れたでしょう」と笑う、ごくありふれた食卓だった。だが走の目には、その二人がもう、昨日までと同じ人間には見えなかった。
――この人たちも、いつか。
俺の脚を正しく冷たく測って、まだ走れるうちに座らせるのだろうか。目の前で屈託なく笑う二人の顔に、六十年恨み続けたもう一組の顔が、じわりと重なっていく。
箸を置くと、喉が渇いて、心臓がうるさかった。
「……あのさ」
声が掠れた。六歳の、高い声。
「サッカー、やってみたい」
言ってしまってから、走は反射的に父と母の顔色を窺った。前世で六十年かけて覚えた身の守り方で、何を言われても傷つかないよう、身体の奥が勝手に固くなる。
父が箸を止め、母がこちらを見た。
――来る。
走は、目を伏せかけた。
「いいじゃない」
母が、言った。
「やってみな」
あまりに、あっさりと。
父も、ああ、と味噌汁を置いて、「この辺、広い原っぱがいくらでもあるからな。好きなだけ走れる」と、それだけ。
走は拍子抜けし、それから、鼻の奥がつんとした。六十年欲しかった五文字が、なんの重みもなく、味噌汁の湯気と一緒にぽんと差し出された。
俯いて、目元を拭った。子供の涙だと思われるように、悟られないように。
「……明日から?」
顔を上げて、走は聞いた。声が、さっきより高く出た。
「明日からでも、今日からでも」父が笑った。「原っぱは逃げねえよ」
「靴、あったっけ。走れるやつ」母が台所のほうを振り返った。「引っ越しの箱、まだ開けてないわ」
「あるよ。青いの」
「あら、覚えてるの」
走は、箸を持ったまま笑っていた。作った笑いではなかった。喉の奥から、勝手に出てきた。白飯の味が、そこで初めて分かった。
「……ありがとう」
言えた。六歳の声で、味噌汁の湯気の向こうへ。母が「なにが」と笑い、父が「食え食え」と、走の茶碗に勝手に煮物を乗せた。
嬉しかった。それは、本当だった。
その本当の底に、走は、氷を一つ、そっと置いた。小さい氷だ。今はそう言うけど、と。
*
その夜、布団に入る前に、走はいつもより早く歯を磨き、いつもより多く水を飲んで、いつもより早く目を閉じた。
「あら、今日はもう寝るの。えらいねえ」
佳代が驚いたように笑った。昨日までは寝ろと言っても畳を転げ回っていた息子が、自分から布団に潜り込んでいるのだから、無理もない。
走にとっては当たり前のことだった。この歳の骨にいちばん効くのは、練習ではなく眠りだ。
目を閉じても、眠れなかった。
早く寝ろ、と自分に言う。分かっている。分かっているのに、明日のことばかりが浮かんでくる。原っぱは、どのくらい広いのか。球は、誰が持っているのか。六十八年生きた男が、遠足の前の日の子供と、同じ理由で寝つけずにいる。
走はそれを、少し可笑しいと思った。
布団の中で、走は、暗がりに手をかざした。まだ何の力もない、ちっぽけな手。ためしに、意識を集中してみる。この身体を、"診て"みようと。
――視えた。
その瞬間、視界の隅に、自分にしか見えないものがそっと灯った。長いあいだ他人の身体にばかり向けてきた眼が、いまは自分自身の、小さな脚を映している。
《診断/東 走・六歳》
骨端線 ――― 未閉鎖。急に増やす負荷、厳禁。
出力 ――― 設計値の、およそ一割。
特記 ――― 右脚がわずかに軸。利き足でない側に、伸びしろが眠っている。
可 ――― ゆっくり走ること。正しく食い、正しく眠ること。
不可 ――― いきなりの全力。フォームのない反復。
前世で他人にだけ向けてきた眼を、今度は自分のために使う。
道は、気の遠くなるほど遠い。頭の中には世界と戦う設計図が丸ごとあるのに、それを乗せる身体は、地面を蹴る力すら出ない六歳だ。だが、時間だけはたっぷりとある。まずはこの脚から、つくり直す。自分自身を、最初の実験台にして。
目を閉じかけたとき、窓の外を、子供たちの声が通り過ぎていった。
笑い声と、駆けていく足音。引っ越してきたばかりの走には、まだ一人も知らない声だ。その足音の中に、一つだけ、他をぜんぶ置き去りにしていくものがあった。軽くて、鋭い。誰よりも先に角を曲がって、あっという間に遠ざかっていく。走は、思わず身を起こしていた。
こんな田舎の夜道に、あんなふうに走る子がいるのか。
気づけば、走は数えていた。
接地の間隔。左右の差。地面を蹴る音の強さ。前世で、廊下を歩く患者の足音だけで、どこが悪いかを言い当てていた耳が、頼んでもいないのに働いている。
速い。それも、六歳の走り方ではない。この接地は、八つか、九つに聞こえる。
追いつけない。この脚では、どうやっても追いつけない。
だが、測ることなら、いまでもできる。
顔も知らない、名前も知らない。ただその足音だけが、耳の奥に、いつまでも残った。
――明日、あの子たちに、会いに行ってみよう。
二度目の人生の、最初の仲間になるかもしれない誰か。その足音を追いかけるように、走はそっと、まだ小さなこぶしを握った。誰にも奪われていない、まっさらなその手を。




