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第46話 夏の終わり

 八月の終わりに、クラブへ何人か大人が来た。


 スーツではない。ジャージの上にウインドブレーカーを羽織った、どこにでもいる格好の男が三人。首から札を下げている。走のいる位置からは、そこに何が書いてあるかまでは読めなかった。


 だが、来た理由は分かった。


 二日前から、コーチたちの言葉数が減っていた。前日の練習で、普段は組まない組み合わせの紅白戦が行われた。当日の朝、レオが呼ばれてどこかへ行った。


 トレセンだ、と誰かが言った。


 地域の選抜へ推す名簿を作りに来ている。


「アズマ、なんか緊張するわ」


 昼に戻ってきたレオは、めずらしく落ち着きがなかった。


「呼ばれたのか」


「うん。名前と学年聞かれた。あと、いつからやってるかとか」


 走は、一拍だけ止まった。


 止まった一拍のあいだに、二つのものが同時に来た。


 一つは、素直なほうだった。


「おめでとう」


「えっ、なんで?」


「名前を書かれたってことは、書く価値があるってことだ」


「まじ?」


「まじだ」


 レオは走の顔をまじまじと見て、それから、ぱっと笑った。


「うわ、うれしいわ、それ」


「よかったな」


「アズマが言うと、なんか本当っぽい」


 走は、それを聞いて、自分も少しうれしくなった。


 この男が名前を書かれたのは当然で、四月から走はそれを知っていた。上背があって、走れて、当たりが強い。そのうえ最後まで楽しそうにやる。大人が書き留めたくなる材料が、全部そろっている。


 もう一つのほうは、そのすぐあとに来た。


「アズマは呼ばれた?」


「呼ばれてない」


「ふーん」レオはそれ以上、何も考えなかった。「じゃ、飯行こ」


 走はうなずいて、立ち上がった。


 立ち上がりながら、胸の中で、もう一つのほうがまだ喋っていた。


 俺も呼ばれたかった。


 はっきり、そう思った。


 その日の午後、走は自分の練習を普段どおりにやった。


 名簿を作る大人が来ているという理由で、動きを変えることはしなかった。変えたところで、見せるものが変わらないからだ。


 走の五ヶ月は、外から見て何も起きていない。


 背は伸びていない。体重は一キロ。目立つプレーはない。試合で決めたこともない。走がやってきたのは、相手の脚を減らすことと、自分を落とさないことだった。


 どちらも、記録に残らない。


 名簿を作る大人は、二十人を二時間で見る。二時間で見えるのは、大きさと速さと、目を引く一本だ。走が五ヶ月で積んだものは、その三つのどれにも入っていない。


 だから呼ばれない。


 当たり前のことだった。当たり前だと分かっていて、走は夕方まで、胸の奥が重かった。


 合宿の四日目に、四月に五本抜かれた相手を一本も抜かせなかった。監督に名前を聞かれた。どちらも、今日は何の役にも立っていない。


 重いものを抱えたまま、走はいつもの本数を走った。


 夕方、走はグラウンドの隅で靴紐を結び直していた。


 財前が通りかかって、足を止めた。


「お前、呼ばれてないの」


「呼ばれてない」


「ふうん」財前は少し黙った。「おれもだけど」


 走は顔を上げた。


 財前はこの半年で身体を作った。当たりは学年でいちばん強い。中央での競り合いなら、もうレオにも負けない。


 それでも呼ばれていない。


「なんでだと思う」財前が聞いた。


 走は、その質問そのものを、少しのあいだ受け取っていた。


 四月に、この男は走に「何様だよ」と言った。走がポジションの話をしたからだ。


 いま、同じ男が、走に意見を聞きに来ている。


 それは、走にとって小さくない出来事だった。


「……言っていいですか」


「なんで敬語だよ。同学年だろ」


「じゃあ言う」走は言った。「たぶん、財前の良さが、二時間じゃ出ないからだ」


「どういう意味」


「止まる身体は、止めた場面がないと分からない。今日の紅白戦、財前の前にボールが来た回数、六回だった。六回のうち四回は誰も突っ込んでこなかった。突っ込んでこなかったのは、財前がそこにいたからだ」


 走は続けた。


「起きなかったことは、数えられない」


 財前は少し間を置いていた。


 それから、鼻から息を吐いた。


「……お前、そういうとこだよな」


「悪かった」


「いや」財前は首を振った。「悪くはない。腹は立つけど」


 財前はタオルで顔を拭いて、それから小さく言った。


「二時間じゃ出ないなら、二年やらせりゃいい。おれはそう思ってる」


「俺も、そう思う」


「だろ」


 財前はそれだけ言って、行った。


 走はその背中を見送ってから、靴紐をもう一度結び直した。


 夕方からずっと胸にあった重さが、少しだけ軽くなっていた。


 呼ばれなかったのは、二人だった。


 寝る前に、走は机の灯りをつけた。


 書くことは、いつもと同じだった。今日の量、眠る予定の時間、明日へ残る疲労。五ヶ月、ほとんど同じ行が続いている。


 ページの端に、走は一行だけ足した。


 ――見られる者と、見られない者がいる。


 書いてから、しばらくそれを見ていた。


 前の生でも、同じことがあった。走の脚は、誰の目にも留まらなかった。誰かが名簿を作る場所へ、走が呼ばれたことは一度もない。あのとき走は、自分に何かが足りないのだと思っていた。


 いま分かるのは、足りていなかったのではなく、見える形になっていなかったということだ。


 それは慰めにならない。


 見える形になっていないものは、この世界では、無いのと同じだ。


(――だったら、見える形にするしかない)


 走はそこまで書いて、線を引いた。


 起きなかったことは数えられない。ならば、起きたことのほうで数えさせる。相手を止めた回数ではなく、相手が落ちた事実のほうを。走が八十分走った距離のほうを。


 どこかに、数えている人間がいるはずだった。


 この街に来て五ヶ月、走の中身を正確に言い当てた人間が、一人だけいる。


 あの男は、二十人の初日と四日目を比べていた。


(……数える眼は、もう一つある)


 走はペンを置いた。


 明日から九月だ。秋には、新人戦がある。


 そこには、名簿を作る大人ではなく、点差を数える相手がいる。

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