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第45話 帰省

 盆の五日間だけ、寮を出た。


 名古屋から高山まで三時間。バスの窓から山が近づいてくるにつれて、空気の色が変わっていく。トンネルを一つ抜けるたび、緑が濃くなった。


 最後のトンネルを出たところで、走は窓を少し開けた。


 匂いが入ってきた。


 六歳の春に、この匂いで前の生を思い出した。あれから七年経つ。もう思い出すものは残っていない。それでもこの匂いは、走の身体のどこかを毎回同じ場所へ戻す。


 家に着くと、母が玄関で待っていた。


「痩せた?」


「増えてる」


「嘘。顔が細くなった」


「顔は細くなった。体重は増えてる」


「どっちよ」


「両方」


 母は納得しない顔をして、走の荷物を取り上げようとした。走は渡さなかった。四月に出ていったときより、荷物は軽くなっている。


 夕食に、走の好きなものばかりが出た。


 母がそういうふうに作った、というのが一目で分かる献立だった。


 走は一口食べて、箸を止めた。


「……うまい」


「そう?」


「うまい」


 母が振り返った。それから、洗い物の手を止めずに笑った。


「そんなん、いつも食べてたでしょうが」


「食べてた」


「じゃあ、なんで今日だけ言うの」


 走は答えられなかった。答えられないまま、二杯目をよそいに立った。父が横で笑っていた。


 寮の食堂の飯と比べて、量は少し少ない。だが構成はいい。青いものが二皿あって、赤い肉が一皿ある。汁物に貝が入っている。母は栄養の勉強をしたわけではない。ただ、六年間、走が言ったことを覚えている。


 覚えているだけではなかった。


 高山にいたころ、走は当たり前のようにこの台所へ口を出していた。あれを買ってきてほしい、これは週に二回にしてほしい。母は理屈が分からないまま、走が言うから、そうしていた。


 いま、走は何も言っていない。


 言っていないのに、走の皿の上に、走が四月からずっと足りないと思っていたものが並んでいる。


「母さん」


「ん?」


「その貝、どこで」


「農協。安かったから」


「……今度から、それ、月に二回くらい買っといて」


「はいはい」


 母はそれだけ言って、また洗い物に戻った。


 走はそのやりとりを、少しのあいだ噛んでいた。


 ここでは、まだ通じる。


「どう、名古屋」


 父が缶を開けながら聞いた。


 走は、三時間のバスの中で考えていた答えを、一つだけ出した。


「同じ部屋に、三人いる」


「おう」


「一人は、よく喋る。一人は、真面目に重りを持ってる。もう一人は、夜のあいだに背が伸びてる」


 父は缶を持ったまま、少し笑った。


「なんだそりゃ」


「そういう部屋だ」


「そうか」


 それで会話が終わった。父はそういう人だ。走が答えたいだけ答えて、それ以上は聞かない。


 ただ席を立つときに、一言だけ足した。


「無理すんな」


 走は、その四文字を受け取った。


 この人は、走が何をやっているのか知らない。ジュニアユースがどういう場所で、二十人のうち何人がユースへ上がれるのか。走がその中でどのあたりにいるのか。たぶん一つも分かっていない。


 分からないまま、無理すんな、と言う。


「……ああ」


 走はそう答えてから、言い足した。


「無理は、してない」


「そうか」


「ほんとだ」


「分かった分かった」


 父は缶を持って、風呂へ行った。去年の秋、走はこの人に二度、ありがとうと言った。三度目は、今日は要らなかった。


 胸の底に、六年前からある冷たいものが、一度だけ動いた。今はそう言うけど、という声だ。


 動いて、すぐに沈んだ。四月に沈めたときより、浮いてくるまでが長かった。


 二日目に、空き地へ行った。


 杭が四本、去年と同じ場所に立っている。田口の爺さんが刈った草の跡も同じだった。ここだけ、何も変わっていない。


 土手に、ハルが寝転がっていた。


「おー、走」


「……久しぶり」


「久しぶりって、四ヶ月だろ。おおげさだな」


 ハルは起き上がりもしなかった。四ヶ月ぶりに会った幼馴染を、雲を見ながら迎えている。


「名古屋どうよ」


「ふつうだ」


「ふうん。まあ、こっちも変わんねえよ。田口のじいちゃん、まだ元気」


「ハルは」


「おれ? なんもしてねえ。夏休みだぞ」


「それは何かしてないのか」


「してねえって言ってんじゃん」


 走は笑った。


 ハルが、こちらを見た。


「お前、笑うようになったな」


「前から笑ってた」


「そっか?」


 ハルはそれ以上追及せずに、また雲に戻った。


 走は土手に座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。


 名古屋では、走は毎日、何かを測っている。自分の身体を、相手の脚を、皿の中身と眠った時間を。四ヶ月半、一日も休まずに測り続けた。


 ここには、測るものが何もない。


 何もないのが、こんなに楽だとは思わなかった。


「走、腹減った」


「まだ三時だ」


「関係あるか?」


 走は立ち上がって、古田のおばちゃんの店まで歩いた。ハルは十メートル後ろをだらだらついてきた。


 三日目の夕方、走はアカネの部活を見に行った。


 呼ばれたわけではない。中学のグラウンドの前を通ったら、練習をしていた。走はフェンスの外に立った。


 アカネはすぐに見つかった。


 同学年の男子相手に、無双していた。抜く。裏を取る。決める。四ヶ月前と同じだ。あの子は相変わらず、この年代でいちばんうまい。


 走の眼は、それを見に来たのではなかった。


 もう知っている。去年の十二月、雪の中で、各務にアカネの数字を言わされた。百五十二から、二年後に百五十七か八。走はその計算を、自分の部屋の壁の鉛筆の線で、とっくに済ませていた。


 知っていることと、見ることは、別だった。


 同学年の男子の何人かに、この半年で変化が来ている。首が太くなった子がいる。声が変わった子がいる。あの子たちの身体には、何かが乗った。


 アカネには、乗っていない。


 差は、まだ出ていない。技術がそれを全部埋めている。アカネのほうが速く判断して、速く動いて、正確に置く。だから抜ける。


 抜ける、という結果の下で、埋めている量だけが毎月増えている。


 走の眼には、その増え方まで見えた。


(……視るな)


 走はフェンスから目を離した。


 離してから、自分の手が汗をかいていることに気づいた。


 言えることは、一つもなかった。


 言えば、この夏が終わる。それに、言ったところで何も変わらない。走の設計は身体を作れるが、二次性徴の順番を入れ替えることはできない。


 六十八年ぶんの知識があって、目の前の一人に対して、何もできない。


 こんな相手は、初めてだった。


「なにしてんの、あんた」


 声がして、走は振り返った。


 アカネがフェンスの内側に立っていた。練習が終わったらしい。


「……通りかかった」


「嘘。ずっといたでしょ」


「少しだ」


「どうだった。あたし、うまいでしょ」


 走は少し間を置いてから、答えた。


「……ああ」


「なにその間!」


 アカネは笑った。走も少しだけ笑った。


 それ以上、アカネは聞かなかった。


 走が何かを飲み込んだことに、この子は気づいている。気づいていて、聞かない。冬に空き地で見たのと同じ顔を、走がまたしたからだ。


「名古屋、しんどい?」


「しんどい」


 言ってから、走は自分の声に驚いた。


 考えて出した言葉ではなかった。四ヶ月半ぶんが、勝手に出た。


「へえ」アカネは意外そうな顔をした。「あんた、そういうの言うんだ」


「……言った」


「どのへんが」


「全部だ。速いし、でかいし、飯は自分で選ぶし、言っても誰も直さない」


「うっわ。ぼろぼろじゃん」


「ぼろぼろだ」


 アカネは声を上げて笑った。フェンス越しに、その笑い方が走まで届いた。


「まあ、いいんじゃない。しんどいくらいで」


「そうか」


「うん。あんた、楽そうにしてるとムカつくから」


 アカネはそう言って、フェンスの内側を歩いていった。


 走はその背中を見送った。


 しんどい、と言えたのは、この子の前だけだった。名古屋には、そう言える相手が一人もいない。


 言ってみると、思ったより、身体が軽くなった。


 最終日の朝、母が握り飯を持たせた。


 バスの中で食べなさい、と言う。走は受け取った。三時間の移動なら、途中で何か入れておいたほうがいい。母の判断は正しかった。


「ちゃんと食べてる?」


 バス停で、母がまた同じことを聞いた。四月に送ってきたメッセージと、同じ言葉だった。


「食べてる」


「ほんとに?」


「ほんとに。多いって言っただろ」


「言ってたけどねえ」


 母はまだ疑っている顔をしていた。


 走はバスに乗って、窓際の席に座った。母がバス停に立ったまま、こちらを見ている。走は一度だけ、手を上げた。


 動き出してから、握り飯の包みを開けた。


 塩が濃かった。


 夏の移動で汗をかくことを、母は知っている。だから濃くしてある。走はそのことに、バスが二つ目のトンネルに入ったあたりで気づいた。


 誰も教えていない。母は栄養の本など一冊も読んでいない。


 走は残りを、ゆっくり食べた。


 食べ終わってから、スマホを出して、一行だけ送った。


 ――塩、ちょうどよかった。


 返事は、トンネルを抜けたところで来た。


 ――そう? 濃いかと思った。

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