第44話 合宿 鬼塚の眼
合宿の最終日、監督の鬼塚が来た。
四日間、鬼塚は一度も顔を出していない。トップの練習が別にあり、こちらはコーチが回していた。最終日の午後だけ、この人が見に来ることは全員が知っていた。
朝から、空気が変わった。
四日目に落ちきっていたはずの子たちが、走るようになった。走れるようになったのではない。無理をしていた。声も倍になった。
(……ここは、そういう場所か)
走は自分のペースを変えなかった。
午後の実戦形式で、鬼塚はピッチの端に立っていた。
腕を組んで、動かない。声も出さない。ただ見ている。
その眼が、時々止まる。止まった先の子は、そのあと必ず走る量が増えた。見られていることが分かるのだ。
走の対面は、四日目の疲れをこの日いちばん強く出していた。前半の途中で、もう縦へ仕掛けてこなくなった。走はほとんど何もしていない。ただ立っているだけで、右サイドは閉じていた。
かわりに走は、上がった。
右サイドを一往復するたび、四十メートル。前半で八本。後半で九本。数えていたのは走だけだった。
攻撃で結果は出ていない。クロスは合わず、こぼれ球も拾えなかった。ただ上がって、戻って、また上がった。
なぜそれをやったかというと、やれたからだ。
脚が余っていた。この合宿の四日間で、走の身体には他の誰よりも余りが残っていた。余っているものを使わない理由はない。
十五本目を上がったとき、肺がまだ静かだった。走はその静かさが面白くて、十六本目に出た。
「あの一年、名前は」
試合が終わったあと、鬼塚がコーチに聞いた。
走の耳にも届く距離だった。
「東です。セレクション組の」
「田舎の子か」
「はい」
鬼塚は少しのあいだ黙って、それから言った。
「よう走る」
それだけだった。
悪くない、という顔をしていた。
走の心臓が、試合中より速く打った。
名前を聞かれた。この人に。四月の紅白戦で「よう走るな、あの田舎の」と言った、あの人にだ。あのときは、走という名前はそこに入っていなかった。今日は、入っている。
走はタオルで顔を拭いた。拭いても、顔の熱は引かなかった。
「アズマ! やるじゃん!」
レオが後ろから背中を叩いた。
思いきり叩かれた。走は前によろけて、二歩進んでから振り返った。
「痛い」
「監督が名前聞くって、すげーことだからな! おれ、聞かれたことねえもん」
「レオは夏に呼ばれてただろ」
「あれとこれは別! な、財前!」
財前が通りかかって、足を止めた。
「よかったな」
それだけ言って、行った。
走は、その三文字を受け取った。
四月に「何様だよ」と言った男が、よかったな、と言って通り過ぎていく。同じ人間の口から、半年でそこまで動いた。
「アズマ、なんか言えよ」
「……うれしい」
「それだけ?」
「うれしい、って言った」
「声ちっさ!」
レオが笑って、もう一度背中を叩いた。二度目は、少し加減されていた。
走はそのあと、笑ったまま片付けをしていた。
その夜、走は布団の中で、鬼塚の一言をもう一度思い出した。
よう走る。
思い出してから、走はその言葉を分解した。
その言葉が指しているのは、八十分で十七本上下動したという事実だ。事実としては正しい。走は確かに走った。
だがその十七本が可能だったのは、走が四日間かけて走らなかったからだった。
初日に飛ばさなかった。二日目に「もっと出せる」と言われて三十メートルだけ上げた。三日目に量を抑えた。吐かなかった。拍手をもらわなかった。誰にも褒められない四日間を積んで、五日目に余りが残った。
鬼塚が見たのは、五日目だけだ。
あの人の眼に映ったのは「よく走る子供」で、その中身は「四日間抑えていたから五日目に余っていた子供」ではない。
どちらの説明も、同じ事実を指している。
(……いつか、逆から読まれるかもしれない)
走は天井を見た。
いま鬼塚は、走の五日目を見て気に入っている。だが同じ人が、走の一日目から四日目だけを見たら、別の感想を持つかもしれない。この人が好きなのは、走る子供だ。走らない理由を説明する子供ではない。
走が八十分のうち前半を抑えるのも、同じ理屈で動いている。
前半を抑えるのは、後半に走るためだ。だが前半だけを見た人間には、抑えているようにしか見えない。
いまはたまたま、この人が見た日が、走の後半だった。
いつか、前半を見られる日が来る。
走はそこまで考えて、寝返りを打った。
考えても、今日やったことは変わらない。
名前を聞かれた。レオに背中を叩かれた。財前が、よかったな、と言った。それは今日の出来事で、明日の心配とは別の棚に置いておけばいい。
走は目を閉じた。
寝る前に、もう一度だけ、うれしい、と思った。
帰りのバスで、レオが隣に座った。
「アズマ、窓側やる」
「いい。レオが座れ」
「いいの? やった」
レオは窓際に座って、十分で寝た。
窓の外を、高原の景色が流れていく。四日前と同じ道を、二十人が逆向きに走っている。行きのバスでは全員が騒いでいた。帰りは半分が眠っている。
走は眠らずに、ノートを開いた。
合宿で分かったことを、三つ書いた。
一つ。相手が疲れると、読みやすくなる。
二つ。自分が疲れると、読めなくなる。
三つ。四月に五本抜かれた相手を、今日は一本も抜かせなかった。
三つ目を書いてから、走は少し考えて、その下に四つ目を足した。
――監督が名前を聞いた。
書いてから、消さずに閉じた。
バスが揺れて、レオの頭が走の肩に落ちてきた。
重かった。汗と、日焼け止めの匂いがした。
走はそれを、動かさずにおいた。




