第43話 合宿 最終日
四日目の朝、二十人のうち十七人が壊れていた。
壊れた、というのは走の言い方だ。誰も怪我はしていない。ただ、身体が前の日の分を戻しきれていない。
起き上がるのが遅い。階段で手すりを使う。朝食の量が減っている。減っているのに、本人たちは食べられないことを恥じている。
走の眼には、それが全部見えていた。
三日目までは、まだ差が出ていなかった。誰もが同じようにきつく、同じように動けていた。四日目は違う。ここから先は、積んだ量ではなく、戻した量で決まる。
最終日は午後に監督が来るだけだと、前の晩に伝えられていた。全体で身体を動かすのは、実質、今日が最後になる。
午前のランで、集団がばらけた。
初日は二十人が一つの塊で走っていた。四日目は、先頭と最後尾のあいだが五十メートル開いた。
走は先頭にいた。
意図したわけではない。走はいつもと同じペースで走っただけだ。周りが落ちた。それだけのことだった。
三日目までは、その位置に財前がいた。今日はいない。昨日攣った脚をかばって、集団の後ろのほうにいる。攣りは、来なかったらしい。朝に廊下ですれ違ったとき、財前は何も言わずに、走の肩を一度だけ小突いていった。
初日にいちばん飛ばしていた三人が、いちばん後ろにいた。
走はそれを、責める気にはなれなかった。あの三人は正しいことをしている。指導者が「出せ」と言い、周りが拍手をする場所で、出さない選択をするほうが難しい。走にできているのは、走が六十八年ぶんの答えを先に持っているからにすぎない。
知っていることは、偉いことではない。
ただ、順番を知っているだけだ。
「東、なんでお前だけ平気なんだよ」
昼の休憩で、二年の先輩に言われた。
半分は感心で、半分は不機嫌だった。走はどちらにも答えられなかった。
「……平気じゃないです」
「嘘つけ。お前、今朝いちばん前にいたろ」
「初日から同じペースで走ってるだけです」
「それが平気って言うんだよ」
先輩は笑って、水を飲みに行った。
走はその背中が遠ざかるのを見ていた。
説明はできる。だが説明しても、たぶん伝わらない。四日目に前へ出るために三日目を抑えた、という話は、三日目を全力でやった人間には後出しにしか聞こえない。
結果が出たあとで理由を言うと、言い訳か自慢のどちらかになる。
だから走は、いつも黙ることになる。
午後の実戦形式で、走の対面は一本も抜けなかった。
四月に走を五本抜いた、中二の左ウイングだ。十日目に一度だけ抑えた。それきり、春も梅雨も、走はこの男に届かなかった。
最初の一本で、走は自分の間合いがずれていないことを確かめた。二本目で、相手が縦をあきらめた。三本目、中へ逃げたところを、走は身体の向きだけで外へ押し返した。
四本目から、相手は走のほうを見なくなった。
春先、この男に抜かれるたび、走は膝をついて、頭の上を歓声が通っていくのを聞いた。読めているのに届かない、というのがどういうことかを、走はあの芝で教わった。
三ヶ月半で、届くようになっていた。
走は、自分の胸の中で、はっきりそれを受け取った。
うれしかった。相手が四日目で落ちているのは知っている。だが落ちていないほうの身体は、走が作った。四月から毎朝、川沿いを四十分回した。十時に寝た。皿の順番を変えた。誰も見ていないところで積んだものが、いま、この芝の上で形になっている。
走はボールが切れた合間に、一度だけ、右の拳を軽く握った。
(――届いた)
そしてもう一つ、走は気づいていた。
餌を見せる必要すらなかった。相手の踏み込みは浅く、切り返しは遅く、走の眼にはすべての選択肢が丸見えだった。疲れた身体は、できることが減る。できることが減った相手は、読むまでもない。
(――手数が減れば、読むのは簡単になる)
走はそれを、頭の隅で書き留めた。
自分が落ちなければ、時間が経つほど相手は読みやすくなる。落ちないことと、読めることは、繋がっている。二つで一つの武器になる。
この合宿で、走が手に入れたものはそれだった。走った距離でも、挙げた重さでもない。
四日目の夕方、走がピッチを出ようとしたとき、海が立っていた。
海はこの合宿、ずっと同じだった。派手に走らず、目立たず、それでも中盤の底で試合を動かしている。汗の量が、走以外の誰とも違う。
「初日と同じ速さで走ってたな」
海は前置きもなくそう言った。
「……見てたんですか」
「見てた。全員の初日と四日目を比べただけだ。落ちてないのは、お前と俺だけだった」
走は海の顔を見た。
二十人ぶんの初日と四日目を比べた、とこの男は言っている。それは走がやっていることと、まったく同じ作業だった。
そして、その二十人の表の中で、走の名前は落ちていないほうにあった。
走は自分の顔が緩むのが分かった。今日は、隠さなかった。
「……それ、俺が四日間かけてやったことです」
「知ってる。だから言ってる」
海は当たり前のことのように言った。当たり前のように言われたことが、走にはいちばん効いた。
「……なんで、落ちないんですか」
「走ってないからだ」海は表情を変えずに言った。「俺は走らない。走らなくて済む場所に立つ。それだけ」
それも、一つの答えだった。
走は身体の設計で落ちないようにしている。この男は、そもそも落ちる量を発生させていない。
方角は違う。だが目的地は同じだった。
「お前、この合宿でなんか変わったか」
海が聞いた。
「対面に、一本も抜かれませんでした」
言ってから、走は続けた。
「四月に五本抜かれた相手です」
「そうか」
「あと、相手が疲れると、読みやすくなると分かりました」
海は少しのあいだ黙った。
それから、初めて表情らしいものを動かした。口の端が、一ミリだけ上がった。
「そこに気づいたか」
「はい」
「じゃあ、もう一つ教えてやる」海は言った。「それ、逆も成立する。お前が疲れたら、お前は読めなくなる」
走の背中を、冷たいものが通った。
眼に代償があることは、知っていた。小六の夏、こめかみの奥が鈍く痛んだ。セレクションの二日目には、眼が熱を持って、視る相手を三人に絞った。
走はそれを、眼の側だけの話だと思っていた。使いすぎれば痛くなる、と。
違う。
眼を凝らす燃料は、脚を動かす燃料と同じ財布から出ている。合宿の四日目に、走の読みがいつもより一段深く届いているのは、走の身体がまだ余っているからだ。
余りが尽きたとき、いちばん先に消えるのは、たぶんこの眼だった。
「……そこまでは、数えてませんでした」
「知らないだろうと思った」
「覚えとけ」海は背を向けた。「お前の武器は、お前の体力の上に乗ってる。土台が沈んだら、上も全部沈む」
走はその場に立って、風を受けていた。
高原の夕方の風が、汗をかいた背中を冷やしていく。
いま聞いたことは、走がまだ一度も数えていなかった穴だった。そのことに、素直に驚いていた。六十八年ぶんの帳簿に、まだ空欄がある。
空欄が見つかったからといって、今日の四十分が消えるわけではない。
四月に五本抜かれた相手を、今日は一本も抜かせなかった。それは、もう終わった話だ。
走は、その二つを両手に一つずつ持って、宿舎へ歩いた。
持ってみると、思ったより、どちらも重くなかった。




