↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
42/140

第42話 合宿 量という思想

 七月の下旬、四泊五日の合宿に入った。


 場所は県外の高原にある施設で、天然芝のピッチが三面あった。一日三部練。朝に走り、昼に戦術、夕方に実戦形式。夜はミーティング。


 バスを降りた瞬間に、空気が違った。


 高山と同じ匂いがした。土と、草と、少し冷たい水の匂い。名古屋の四ヶ月で、走はこれを一度も吸っていない。走は荷物を持ったまま、三秒だけ立ち止まった。


「アズマ、なに止まってんの」


「涼しい」


「そう? まあ涼しいけど」


 レオはそれだけ言って、先に走っていった。


 三面ある芝のピッチを、走は端から順に見た。天然芝だ。それも、三面。空き地には杭が四本あっただけだった。


 初日の朝、コーチが集合をかけて言った。


「この五日で、お前らは絶対に伸びる。伸びない奴は、やってない奴だ」


 走はその一文を、静かに聞いていた。


 前の生で、走はその言葉を何百回も聞いた。そして、その五日のあとに運ばれてくる脚も、何百本と見た。


 量をかければ伸びる。それは半分正しい。かけた量が身体の回復量を超えなければ、という条件がつく。条件を外して言えば、ただの精神論になる。


 外して言うのが、この世界の作法だった。


 初日の午前で、二十人のうち三人が吐いた。


 誰も止めなかった。むしろ、吐いた子には拍手が起きた。よくやった、という意味の拍手だ。吐いた本人も、少し誇らしそうな顔をしていた。


 走は、その三人から目を離せなかった。


 嘔吐は、身体が処理の限界を超えたという合図だ。合図が出たあとに続けても、そこから先に積み上がるものは少ない。むしろ次の日の質を落とす。


 だが誰も、次の日の話をしていない。


 みんな、今日の話をしている。


 一人は、走と同じ部屋の窓際の下段だった。四月から夜のうちに背が伸び続けている子で、走がいちばん気にしていた身体だった。伸びている最中に、この量を積む。走の頭の中で、勝手に数字が並んだ。


 喉のあたりまで、言葉が来ていた。


 あと二日で来るぞ。今夜は多めに食え。寝ろ。


 言えば、この場所では、ただの説教になる。三人は拍手をもらったばかりだ。拍手の直後に「それは無駄だ」と言う人間を、誰も好きにならない。


(……ここは、今日を積む場所か)


 走は自分の水を飲み干して、次の一本へ向かった。


 走は自分のペースを崩さなかった。


 午前のランで、走は集団の真ん中にいた。先頭ではない。最後尾でもない。呼吸が乱れない範囲の、上限のすぐ手前を選んだ。


 その選び方が、この場所ではいちばん見えにくい。


「東。もっと出せるだろ」


 二日目の午前、コーチに言われた。


 悪意はなかった。ただ、見た目がそうなのだ。走はいつも集団の真ん中にいて、いつも同じ顔をしている。苦しんでいる顔をしていない。


「はい」


 走はそれだけ言って、少しだけペースを上げた。上げても、上限は超えない。三十メートルだけ上げて、そのあと元に戻した。


 コーチは満足して、次の子へ声をかけに行った。


 走はそれを、悪いことだとは思わなかった。指導者は二十人を同時に見ている。一人の身体の中まで見ろというのは無茶だ。見えるものしか見えない。


 ただ、見えるものだけで測られる場所にいるということを、走は正確に理解した。


「アズマ、お前ずるくない?」


 二日目の夜、レオが布団の上でごろごろしながら言った。


「ずるい」


「なんかさー、みんなヘロヘロなのに、お前ふつうじゃん。おれ今日、階段のぼれなかったんだけど」


「レオは、今日どれくらい飲んだ」


「え? 水? 知らん。休憩のとき飲んでるよ」


「一回にどれくらい」


「んー、コップ一杯くらい?」


 走は少しのあいだ黙った。


 それでは足りない。この気温で三部練をやれば、汗で出ていく量は本人の感覚より遥かに多い。減った分を戻しきらないまま次の練習に入ると、身体は同じ動きに前より多くの燃料を使う。夕方にきつくなるのは、当然だった。


 言えば、たぶんレオは聞く。


 この男は他人の理由に興味がないぶん、言われたことを疑いもしない。走が「もっと飲め」と言えば、明日から飲むだろう。


 だが、そのあとが問題だった。


 レオが良くなれば、誰かが理由を聞く。理由を辿れば走に行き着く。一年の田舎者が学年の身体を管理しているという絵になる。


 走は言葉を選んだ。


「俺、休憩のたびに二杯飲んでる」


「二杯? 腹たぷたぷにならん?」


「ならない。慣れる」


「ふーん」


 レオは寝返りを打った。それきり、何も言わなかった。


 走もそれ以上、言わなかった。


 押しつけない。ただ、目の前に置く。拾うかどうかは相手が決める。高山ではやらなかったやり方だ。あそこでは、走が言えばそれで済んだ。


 三日目の朝、レオが給水でコップを二杯飲んでいた。


 走のほうを見もしない。当たり前の顔で、二杯飲んで、走っていった。


 走は、息を吐いた。


 肩から、力が一段抜けた。自分でも、そこに力が入っていたことをそのとき知った。


 三日目の午後、レオの三本目の走り出しが、前の日より軽かった。走はそれを、ピッチの反対側から見ていた。


 その夕方、レオが走の横に転がってきて言った。


「おれ今日、階段のぼれたわ」


「そうか」


「なんでだと思う?」


「さあ」


「知らんけど、たぶん才能だな」


 走は笑った。


「なに笑ってんの」


「才能だと思う」


「だろ?」


 レオは満足して、水を飲みに行った。


 走はしばらく、そこに座っていた。


 誰も、走が何かをしたとは思っていない。レオ本人ですら、たぶん覚えていない。


 それでいい、と走は思った。


 思いながら、悪くない気分だった。高山では走が言い、みんなが直し、みんなが走に感謝した。ここでは感謝されない。感謝されないかわりに、目の前の一人が今日、階段をのぼれている。それを知っているのは走だけだ。


 知っているだけで、こんなに悪くないとは思わなかった。


 三日目の夕方、実戦形式の途中で、財前が座り込んだ。


 脚が攣ったのだ。倒れ込みはしない。ただ、その場にゆっくり腰を落として、右のふくらはぎを両手で押さえていた。


 走は、走り出していた。


 考えるより先に脚が動いていた。だが三歩で止まった。もう四人が集まっていて、誰かが伸ばそうとしていたからだ。伸ばす向きは合っている。足りないのは、そのあとだった。


 財前はコーチに支えられてピッチを出た。歩けている。明日には戻るだろう。


 その夜、走は食堂の給水器で水を汲んで、塩の小袋を一つ取った。合宿の食堂には、誰でも取れる場所に置いてある。


 財前の部屋の入口で、走は一度だけ立ち止まった。


 立ち止まった理由は、四月のあの夜ではなかった。財前はもう「お前も来いよ」と言った男だ。何様だよ、と言ったあの声は、五月に上書きされている。


 走が止まったのは、渡したあとに何を言うかが決まっていなかったからだ。


「財前」


「……なんだよ」


 財前はベッドに座って、まだふくらはぎを触っていた。


「これ、飲んでおいたほうがいい」


 走はコップと塩を、机の上に置いた。


「なんで塩」


「水だけだと、また来る」


 財前は塩の袋をつまんで、しばらく見ていた。


「……お前、そういうの、なんで知ってんの」


「本で読んだ」


「嘘つけ」


 財前は言いながら、袋を破って、コップへ入れた。それから、渋い顔で飲んだ。


「まっず」


「明日、たぶん来ない」


「来なかったら、お前のおかげにしといてやるよ」


 走はうなずいて、部屋を出た。


 廊下を歩きながら、走は自分の胸の中を確かめた。


 塩を渡した。飲ませた。明日は来ない。そこまでは、走の知っていることが、そのまま届いた。


 届かなかったものが、一つある。


 量を減らせ、とは言えなかった。


 財前がこの合宿で無理をしているのは、脚が攣ったからではない。五月から重りを持ちはじめて、身体が変わる手応えを掴んで、いま、いちばん面白い時期にいるからだ。伸びている最中の人間に、止まれとは言えない。


 言えない理由は、走の側にもあった。


 走は、その面白い時期に、まだ一度も入っていない。


 持てない人間が「持ちすぎだ」と言えば、それがどれだけ正しくても、別の意味になる。


 部屋に戻ると、レオがもう寝ていた。


 走は布団に入って、天井を見た。


 三人の吐いた子のことを、少し考えた。あの三人には、何も渡していない。塩の一袋を渡すには、走とあの三人のあいだには、まだ何もなかった。


 視えているのに、何もしない。この感触を、走は前の生でもよく知っていた。担当外の患者の歩き方を、廊下で見てしまったときの、あの感じだ。


(――慣れるものじゃないな、これは)


 六十八年やって、慣れなかった。


 たぶん、これからも慣れない。


 ただ、今日は一人ぶんだけ、渡せた。


 走はそれを数えてから、目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。