第42話 合宿 量という思想
七月の下旬、四泊五日の合宿に入った。
場所は県外の高原にある施設で、天然芝のピッチが三面あった。一日三部練。朝に走り、昼に戦術、夕方に実戦形式。夜はミーティング。
バスを降りた瞬間に、空気が違った。
高山と同じ匂いがした。土と、草と、少し冷たい水の匂い。名古屋の四ヶ月で、走はこれを一度も吸っていない。走は荷物を持ったまま、三秒だけ立ち止まった。
「アズマ、なに止まってんの」
「涼しい」
「そう? まあ涼しいけど」
レオはそれだけ言って、先に走っていった。
三面ある芝のピッチを、走は端から順に見た。天然芝だ。それも、三面。空き地には杭が四本あっただけだった。
初日の朝、コーチが集合をかけて言った。
「この五日で、お前らは絶対に伸びる。伸びない奴は、やってない奴だ」
走はその一文を、静かに聞いていた。
前の生で、走はその言葉を何百回も聞いた。そして、その五日のあとに運ばれてくる脚も、何百本と見た。
量をかければ伸びる。それは半分正しい。かけた量が身体の回復量を超えなければ、という条件がつく。条件を外して言えば、ただの精神論になる。
外して言うのが、この世界の作法だった。
初日の午前で、二十人のうち三人が吐いた。
誰も止めなかった。むしろ、吐いた子には拍手が起きた。よくやった、という意味の拍手だ。吐いた本人も、少し誇らしそうな顔をしていた。
走は、その三人から目を離せなかった。
嘔吐は、身体が処理の限界を超えたという合図だ。合図が出たあとに続けても、そこから先に積み上がるものは少ない。むしろ次の日の質を落とす。
だが誰も、次の日の話をしていない。
みんな、今日の話をしている。
一人は、走と同じ部屋の窓際の下段だった。四月から夜のうちに背が伸び続けている子で、走がいちばん気にしていた身体だった。伸びている最中に、この量を積む。走の頭の中で、勝手に数字が並んだ。
喉のあたりまで、言葉が来ていた。
あと二日で来るぞ。今夜は多めに食え。寝ろ。
言えば、この場所では、ただの説教になる。三人は拍手をもらったばかりだ。拍手の直後に「それは無駄だ」と言う人間を、誰も好きにならない。
(……ここは、今日を積む場所か)
走は自分の水を飲み干して、次の一本へ向かった。
走は自分のペースを崩さなかった。
午前のランで、走は集団の真ん中にいた。先頭ではない。最後尾でもない。呼吸が乱れない範囲の、上限のすぐ手前を選んだ。
その選び方が、この場所ではいちばん見えにくい。
「東。もっと出せるだろ」
二日目の午前、コーチに言われた。
悪意はなかった。ただ、見た目がそうなのだ。走はいつも集団の真ん中にいて、いつも同じ顔をしている。苦しんでいる顔をしていない。
「はい」
走はそれだけ言って、少しだけペースを上げた。上げても、上限は超えない。三十メートルだけ上げて、そのあと元に戻した。
コーチは満足して、次の子へ声をかけに行った。
走はそれを、悪いことだとは思わなかった。指導者は二十人を同時に見ている。一人の身体の中まで見ろというのは無茶だ。見えるものしか見えない。
ただ、見えるものだけで測られる場所にいるということを、走は正確に理解した。
「アズマ、お前ずるくない?」
二日目の夜、レオが布団の上でごろごろしながら言った。
「ずるい」
「なんかさー、みんなヘロヘロなのに、お前ふつうじゃん。おれ今日、階段のぼれなかったんだけど」
「レオは、今日どれくらい飲んだ」
「え? 水? 知らん。休憩のとき飲んでるよ」
「一回にどれくらい」
「んー、コップ一杯くらい?」
走は少しのあいだ黙った。
それでは足りない。この気温で三部練をやれば、汗で出ていく量は本人の感覚より遥かに多い。減った分を戻しきらないまま次の練習に入ると、身体は同じ動きに前より多くの燃料を使う。夕方にきつくなるのは、当然だった。
言えば、たぶんレオは聞く。
この男は他人の理由に興味がないぶん、言われたことを疑いもしない。走が「もっと飲め」と言えば、明日から飲むだろう。
だが、そのあとが問題だった。
レオが良くなれば、誰かが理由を聞く。理由を辿れば走に行き着く。一年の田舎者が学年の身体を管理しているという絵になる。
走は言葉を選んだ。
「俺、休憩のたびに二杯飲んでる」
「二杯? 腹たぷたぷにならん?」
「ならない。慣れる」
「ふーん」
レオは寝返りを打った。それきり、何も言わなかった。
走もそれ以上、言わなかった。
押しつけない。ただ、目の前に置く。拾うかどうかは相手が決める。高山ではやらなかったやり方だ。あそこでは、走が言えばそれで済んだ。
三日目の朝、レオが給水でコップを二杯飲んでいた。
走のほうを見もしない。当たり前の顔で、二杯飲んで、走っていった。
走は、息を吐いた。
肩から、力が一段抜けた。自分でも、そこに力が入っていたことをそのとき知った。
三日目の午後、レオの三本目の走り出しが、前の日より軽かった。走はそれを、ピッチの反対側から見ていた。
その夕方、レオが走の横に転がってきて言った。
「おれ今日、階段のぼれたわ」
「そうか」
「なんでだと思う?」
「さあ」
「知らんけど、たぶん才能だな」
走は笑った。
「なに笑ってんの」
「才能だと思う」
「だろ?」
レオは満足して、水を飲みに行った。
走はしばらく、そこに座っていた。
誰も、走が何かをしたとは思っていない。レオ本人ですら、たぶん覚えていない。
それでいい、と走は思った。
思いながら、悪くない気分だった。高山では走が言い、みんなが直し、みんなが走に感謝した。ここでは感謝されない。感謝されないかわりに、目の前の一人が今日、階段をのぼれている。それを知っているのは走だけだ。
知っているだけで、こんなに悪くないとは思わなかった。
三日目の夕方、実戦形式の途中で、財前が座り込んだ。
脚が攣ったのだ。倒れ込みはしない。ただ、その場にゆっくり腰を落として、右のふくらはぎを両手で押さえていた。
走は、走り出していた。
考えるより先に脚が動いていた。だが三歩で止まった。もう四人が集まっていて、誰かが伸ばそうとしていたからだ。伸ばす向きは合っている。足りないのは、そのあとだった。
財前はコーチに支えられてピッチを出た。歩けている。明日には戻るだろう。
その夜、走は食堂の給水器で水を汲んで、塩の小袋を一つ取った。合宿の食堂には、誰でも取れる場所に置いてある。
財前の部屋の入口で、走は一度だけ立ち止まった。
立ち止まった理由は、四月のあの夜ではなかった。財前はもう「お前も来いよ」と言った男だ。何様だよ、と言ったあの声は、五月に上書きされている。
走が止まったのは、渡したあとに何を言うかが決まっていなかったからだ。
「財前」
「……なんだよ」
財前はベッドに座って、まだふくらはぎを触っていた。
「これ、飲んでおいたほうがいい」
走はコップと塩を、机の上に置いた。
「なんで塩」
「水だけだと、また来る」
財前は塩の袋をつまんで、しばらく見ていた。
「……お前、そういうの、なんで知ってんの」
「本で読んだ」
「嘘つけ」
財前は言いながら、袋を破って、コップへ入れた。それから、渋い顔で飲んだ。
「まっず」
「明日、たぶん来ない」
「来なかったら、お前のおかげにしといてやるよ」
走はうなずいて、部屋を出た。
廊下を歩きながら、走は自分の胸の中を確かめた。
塩を渡した。飲ませた。明日は来ない。そこまでは、走の知っていることが、そのまま届いた。
届かなかったものが、一つある。
量を減らせ、とは言えなかった。
財前がこの合宿で無理をしているのは、脚が攣ったからではない。五月から重りを持ちはじめて、身体が変わる手応えを掴んで、いま、いちばん面白い時期にいるからだ。伸びている最中の人間に、止まれとは言えない。
言えない理由は、走の側にもあった。
走は、その面白い時期に、まだ一度も入っていない。
持てない人間が「持ちすぎだ」と言えば、それがどれだけ正しくても、別の意味になる。
部屋に戻ると、レオがもう寝ていた。
走は布団に入って、天井を見た。
三人の吐いた子のことを、少し考えた。あの三人には、何も渡していない。塩の一袋を渡すには、走とあの三人のあいだには、まだ何もなかった。
視えているのに、何もしない。この感触を、走は前の生でもよく知っていた。担当外の患者の歩き方を、廊下で見てしまったときの、あの感じだ。
(――慣れるものじゃないな、これは)
六十八年やって、慣れなかった。
たぶん、これからも慣れない。
ただ、今日は一人ぶんだけ、渡せた。
走はそれを数えてから、目を閉じた。




