第41話 幕間・アカネ ~まだ、負けてない~
中学に上がって、アカネは男子サッカー部にいた。
去年、地区大会を一回戦で負けた弱小の部だ。女子はアカネ一人。入部の日、顧問は困った顔をしてから「まあ、来る者は拒まないから」と言った。
歓迎ではない。拒まない、だ。
アカネはそれで十分だった。歓迎されに来たわけじゃない。
女子サッカー部のある学校は、隣の市にあった。中学から始める子も受け入れているし、指導者もいる。母は一度だけ、そっちのほうがいいんじゃないかと言った。アカネは断った。
あそこへ行けば、たぶんアカネは強い。強いに決まっている。
だが強いことを確かめたいのではない。走やリクと同じ土俵で勝てるかどうかを、確かめに来た。土俵が違えば、答えも違うものになる。
最初の一週間で、部の空気は変わった。
女が一人混じっているという珍しさは、三日で消えた。
かわりに残ったのは、その女が誰よりうまい、という事実だった。パス回しで浮くのはいつもアカネで、紅白戦で点を取るのもアカネだった。二年の先輩が「花村に強く行け」と言い始めた頃には、もう誰も、アカネを女扱いしなくなっていた。
放課後のグラウンドで、アカネは同学年の男子相手に、いつも通り無双していた。
抜く。裏を取る。決める。
中一の男子など、アカネの敵ではなかった。六年、走と蹴ってきた身体だ。そのへんの新入りに後れを取るはずがない。
(――ほら。やっぱり、あたしのほうがうまい)
風呂上がりの鏡の前で出た、あの答え。
あれは間違いだ。アカネはそれを毎日、この足で塗り替えていた。
その週末の練習試合で、アカネは二点取った。
相手は、去年うちを一回戦で負かした学校だった。
前半、うちの男子は誰も前を向けず、ボールは自陣で行ったり来たりしていた。その流れを、アカネが一人で変えた。中盤で奪って、二人剥がして、決める。もう一点は、右から切れ込んでニアを抜いた。
二点目が入った瞬間、アカネは両手を突き上げた。
跳ねた。地面を蹴って、本気で跳ねた。誰かが横から抱きついてきて、そのまま二人で転んだ。土の味がした。
「花村すげえ!」
「ちょ、重い! どけって!」
笑いながら押しのけて、アカネは立ち上がった。膝が土まみれだった。うちの部で、こんな声が上がったのは初めてだった。
試合が終わると、汗だくの男子たちがアカネの背中を叩いて回った。
痛かった。痛いくらい叩かれた。
「痛い! 加減しろ!」
「ごめん! でも今の、やばかった!」
アカネは殴り返す真似をして、それから、思いきり笑った。
女がどうとか、もう誰も言わない。この弱いチームの、たった一つの武器が、花村茜だった。
勝った。うちが。あの学校に。
帰りの自転車で、アカネは意味もなくペダルを立ち漕ぎした。夕方の風が耳の横を通っていく。二点。両方あたし。あの二点目の、ニアが開いた瞬間の景色を、アカネは三回思い出した。
顧問が、そのあとアカネのところへ来て言った。
「花村、来年、うちは県まで行けるかもしれん」
「行きましょうよ」
アカネは即答した。顧問が笑って、行くか、と言った。
嬉しかった。それは本当だった。
ただ、家に着いて自転車を停めたとき、その嬉しさの隣に、別のものが座っていることに気づいた。
この人が言ったのは、この部が勝つ話だ。
アカネがどこまで行けるかの話ではない。
走には、あの秋、名古屋から人が来た。リクにも来た。二人とも、いま知らない街で、知らない大人に測られている。
アカネのところへは、誰も来ない。
来年、県まで行ったとして、そこにも誰も来ないかもしれない。
誰も、そっちの話はしてくれない。
(――ほら。あたしは、まだ、いちばん強い)
自転車の鍵を抜きながら、アカネはそう思うことにした。
同じ部に、ケンジがいた。
六年間、アカネがいちばん楽に抜いてきた幼馴染だ。足が遅くて身体が小さくて、少人数サッカーの頃は、チーム分けでいつも最後まで余っていた。
中学に上がっても、それは変わらないはずだった。
放課後、二人で一対一をやると、やっぱりアカネが抜いた。十本やって、十本。ケンジは笑って「アカネちゃん、相変わらず化け物だな」と言った。
だが、その声が、少しだけ低くなっていた。
アカネは抜いたあとで、ふと気づいた。
ケンジの肩が、去年よりある。追いかけてくるスピードが、前より粘る。十本抜いたはずなのに、九本目と十本目はなぜか、少しだけしんどかった。
そして、抜かれたケンジのほうが、なぜか少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。
勝ってはいけないものに、うっかり近づいてしまった、とでもいうような。
アカネはその顔の意味が分からなかった。分かりたくも、なかった。
(……気のせいでしょ)
アカネはそう思うことにした。
ケンジだよ? あのケンジ。あたしが抜けないわけがない。
その日の練習試合に、三年が二人だけ混じった。
引退前の、最後の調整だという。特別うまい先輩ではない。県予選でもベンチだった、ごく普通の三年だ。名前もアカネはよく知らない。
その普通の先輩に、アカネは競り負けた。
抜きにいって、身体を入れられた。いつもなら通る肩が、通らない。
もう一本。今度はスピードで前に出ようとして、半歩、置いていかれた。
三本目は、そもそも前を向かせてもらえなかった。
アカネはボールがラインを割ったあと、その先輩の背中を見ていた。
うまいわけじゃない。技術なら、あたしのほうが上だ。それははっきり分かる。パスの精度も止め方も判断も、全部あたしのほうが上。
なのに、届かない。
肩が通らない。前に出られない。
(……なんで?)
アカネの中で、あの動物みたいな眼が勝手に動いた。
あの脚は、あたしより太い。肩の幅が違う。声が低い。去年のあの先輩は、もっと細かった気がする。この一年で、何かがあの身体に乗っている。
(あたしには、乗ってない)
その考えが、鏡の前のあの夜と、同じ場所へ繋がりかけて――アカネは頭を振った。
あんな下手な先輩に、と思い直す。
今日はたまたま調子が悪い。それだけだ。あたしのほうがうまい。ずっとそうだった。これからもそうだ。
――あたしは、まだ負けてない。
アカネはそう思うことにした。
帰り道、アカネは自分の手を見た。
小学生のころより、少しだけ大きい。それだけだ。
六年生の春から、身長は四センチしか動いていない。体重は二キロ。アカネは自分の数字を、なんとなく覚えている。覚えているのは、去年までそれが「他の子より大きい」側の数字だったからだ。
同じ数字が、いまは違う意味になりつつある。
アカネは足を止めて、道端の看板に映った自分を見た。
変わっていない。去年と同じだ。
同じであることが、こんなに落ち着かないものだとは思わなかった。
その夜、アカネはノートを開いて、何も書かずに閉じた。
書くことがないのではない。書けば、それが起きたことになる。
あの普通の先輩に競り負けたことも、ケンジの九本目がしんどかったことも、アカネは誰にも言わなかった。身体が去年から動いていないことも、口に出さなかった。走にも、母にも、部の誰にも。
言葉にしなければ、それはまだ、起きていないことになる。
アカネはそう思うことにした。
布団に入る前に、アカネはもう一度、二点目のことを思い出した。
ニアが開いた。あそこに置いた。入った。背中を叩かれて、痛くて、笑った。
あれは、本当にあったことだ。誰にも取り消せない。
窓の外で、初夏の虫が鳴いていた。まだ、負けてない。もう一度、胸の中でそう言った。その声はいつもより少しだけ、力がこもっていた。
力をこめないと、揺らいでしまいそうだったからだ。




