第40話 江口
六月に入ったころから、走は江口を見るようになった。
同じ二〇三号室の、窓際の男だ。
調子者で、口が減らない。朝はいつも最後に起きて、パンをくわえたまま走ってくる。練習ではよく声を出す。うまいかと言われれば、この学年では真ん中より少し上だ。だが誰よりも楽しそうにやる。それが、この男の取り柄だった。
その江口の顔色が、悪い。
下まぶたの裏の色が薄い。爪の根元の白い部分が、四月より広い。走り出しの一歩目が、春より重い。二本目、三本目で息が上がる。
本人は笑って「今日ねみぃわ」と言っている。誰も気にしていない。
中学生が眠いと言うのは、当たり前のことだからだ。
走の眼には、当たり前ではないものが見えていた。
四月に献立表を見たとき、走はこの薄さに気づいていた。気づいて、動かなかった。誰の身体にどう出るかまでは、そのとき分からなかったからだ。
いま、出ている。骨が伸びれば血の量そのものが増える。増えた分の材料を食えていない身体は、こういう顔をする。
しんどさは、じわじわ来る。だから本人は、自分が弱くなったと思う。
走はそれを、前の生で何百回も見た。あの子たちはみんな、根性が足りないのだと言われて、そして自分でもそう思っていた。
走は言わなかった。
言えば直る話ではない。血の薄さは、一言で直らない。江口はたぶん笑って「まじで?」と言って、次の日には忘れる。そういう男だ。財前は、腿の裏の話を三週間、自分の身体で試してから信じた。江口に三週間、皿を見ろと言ったところで、三日で終わる。
かわりに、走は夕食の席を変えた。
江口の隣に座って、自分のトレーから赤身の魚を一切れ、江口の皿へ滑らせた。
「なにこれ」
「多い」
「くれんの? やった」
江口はそれを三口で食べた。
走は自分の柑橘を半分、江口の前に置いた。それも消えた。江口が食後に濃い茶を注ぎに立ったとき、走は先に水差しを取って、江口のコップへ水を注いでおいた。江口は文句も言わずに飲んだ。
それだけだった。
次の日も、その次の日も、走は江口の隣に座った。理由は一度も言わなかった。
江口は最後まで気づかなかった。
三週間目に、江口が「東くん、おれのこと好きすぎない?」と言って笑った。走は「そうかもしれない」と答えた。江口はますます笑った。
こういうやりとりは、走の側からは絶対に始まらない。
江口が勝手に踏み込んでくるから、走はそこに乗れる。乗るだけなら、走にもできた。乗ってみると、悪くなかった。
もう一つ、走には気になっていることがあった。
江口は走るとき、膝が内へ入る。
着地のたびに、膝の皿が親指のほうへ寄っていく。一歩ごとの角度は、わずかだ。一日に何千歩とやれば、それは積み上がる。いまは何も起きない。だが量を積み続ければ、中学のうちに一度は膝をやる。
走の眼は、入寮した日の夜にもうそれを見ていた。
言えば、直らない。走はそれも知っている。
癖というのは、意識で直すものではないからだ。意識して直せる癖は、意識していない八割の時間で元に戻る。必要なのは、意識しなくても膝が内へ落ちない身体のほうだった。
だから走は、遊びにした。
「江口。片脚で立つの、どっちが長いか」
「はあ?」
「たぶん俺が勝つ」
江口は乗った。
調子者というのは、そういう生き物だ。
二人は部屋の真ん中で片脚立ちをやった。江口は三十秒で笑いながら崩れた。走は目を閉じたまま立っていた。
「なんだそれ、ずるいだろ。目つぶってんじゃん」
「目を開けててもいい」
「もう一回」
二回目、江口は四十秒もった。崩れる前に、走のほうを見て「見ろよ」と言い、言った瞬間に崩れた。走は笑った。声が出た。
次の日も、江口のほうから言ってきた。負けたままにしておけない性格だった。
走は毎回、少しずつ条件を変えた。目を閉じる。膝を軽く曲げる。ゆっくり沈んで、止まる。片脚のまま前へ手を伸ばす。
どれも、股関節と体幹で身体を支える練習だ。そこが働けば、着地のとき膝は内へ落ちにくくなる。
走は一度も、そう説明しなかった。
説明しなかったのは、設計のためだ。だが三日目の夕方、消灯前の時間が少し待ち遠しくなっていることに気づいたとき、走はそれが設計のためだけではないことも、一緒に認めた。
財前が二段ベッドの上から「うるさい」と言った。江口が「財前もやれよ」と言い、財前は「やらねえ」と言って、五分後に降りてきた。窓際のもう一人がイヤホンを外して見物した。三日目には、部屋の四人全員がやっていた。
財前が意外に強かった。腿の裏だ、と走は思った。思っただけで、言わなかった。財前は「おれ、こういうの得意だわ」と言って、走より先に崩れた。
七月の合宿の前に、江口が走に勝った。
目を閉じて、膝を曲げて、片脚のまま一分半。走のほうが先に足をついた。
足をついた瞬間、走の中で二つのものが同時に動いた。
一つは、眼だ。江口の軸脚の付け根が、四月とは別のものになっている。膝ではなく、股関節で立っている。効いている。医者の眼は、そう言って満足した。
もう一つは、それより速かった。
悔しかった。
遊びで、江口に、負けた。理屈はどこにもない。ただ、負けたのが嫌だった。
「……もう一回」
言ったのは、今度は走のほうだった。
「やだね」江口は片脚のまま、にやにやしていた。「勝ち逃げ」
「江口」
「明日もやだ。おれ、今日から永久に勝ってるから」
江口は部屋中に自慢して回った。廊下に出て、隣の部屋にも言いに行った。翌日には学年の半分が知っていた。
「おれ、才能あるかも」
江口はそう言って、また笑った。
走も、笑った。
その週の紅白戦で、走は江口の走りを見た。着地のとき、膝の皿がまだ少し内へ寄る。だが四月ほどではない。一歩ごとのわずかな差が、この一ヶ月で、確かに小さくなっている。
顔色も戻っていた。
走の一皿が効いたのか、成長期の食欲が勝手に増えただけなのか、走にも分からない。たぶん両方だ。人の身体で、原因を一つに決められることはめったにない。
それでいい、と走は思った。
効いた理由が分からないほうが、江口にとっては都合がいい。江口はこれから、自分は運が良かったとも思わずに、ただ普通に走り続ける。
それが、いちばん正しい形だ。
走はその夜、ノートに一行だけ書いた。
――江口。夏まで様子見。
そして少し考えて、その下にもう一行足した。
――誰にも言わないこと。
書いてから、走は自分でおかしくなった。
高山では、言えた。走が言って、みんなが直した。六年ぶんの信用が、あの空き地にはあった。
言わずに済ませる形なら、あそこでも使った。木登りも、丘のかけっこも、遊びの顔をしていた。
違うのは、相手に合わせて組み直したことだ。江口の膝と、江口の性格に合わせて、条件を毎回変えた。負けたままにしておけない男だから、遊びのほうが勝手に続いた。
そして、その遊びで負けて、本気で悔しがっている。江口に、片脚立ちで。
(……上等だ)
走は電気を消した。
窓の外で、名古屋の夜が、まだ生ぬるく光っていた。明日は、絶対に勝つ。走はそれを、設計とはまったく関係のない場所で、決めていた。




