第39話 自分を診る医者
その夜、走は自分の身体を視た。
六歳のときから、毎晩やっている。今日どこを使って、どこが張っていて、明日どこが動きにくいか。他人の身体なら一目で終わる作業を、自分に対しては丁寧にやる。
視えている。問題はそこではない。
(――継ぎ目は、外からは視えない)
骨の両端がどれだけ閉じたかは、走の眼でも分からない。分かるのは伸び方と、身体つきの変化だけだ。中学生の身体を撮る機械は、この寮にはない。
しかも走は同学年より明らかに遅い。伸びている最中の身体は、伸びることそのものに燃料を使う。そこへ全体練習と紅白戦が乗って、走の一日はもう埋まっている。積む場所がないうちに積めば、増えるのは筋肉ではなく借りのほうだ。
だから走の判断は、たぶん正しい。
問題は、そのあとだった。
走は気づいてしまった。
自分が、持ってもいい理由を数えはじめていることに。
軽い重さなら影響は小さい。回数を絞れば負担は限られる。フォームさえ完璧なら――そこまで並べて、走は毛布の中で目を開けた。
六十八年やった世界に、こういう言葉がある。
自分を診る医者は、藪医者を患者に持つ。
走はその言葉を、若い医師に何度も言った。言うたびに笑われた。
いま、笑われる側にいる。
他人の身体なら、走はためらわない。ためらう理由がないからだ。自分の身体には、理由がある。やりたい。ただそれだけの、どうしようもない理由が。そこに知識が加わると、知識はそのまま言い訳の材料になる。
前の生で親の小言を聞かなかったのも、たぶん同じ理屈だった。やりたかったから。
六十八年経って、走はいま、同じ入口に立っている。
やりたい。
その一語が、天井のほうから降りてきて、なかなか消えなかった。財前の押し返す肩。レオの数える声。鉄の匂い。あの輪の中に入って、一・二五キロを十回、正しい角度で挙げてみたい。それだけのことが、こんなに重い。
走は毛布を引き上げた。
今夜は踏みとどまった。踏みとどまれたのが正しさなのか、それともただ運が良かっただけなのか、走には分からなかった。
持たないかわりに、走は別のものを積んだ。
朝、寮を出て、自転車に乗る。
速く走らせるのではない。心臓だけを働かせる速さで、ひたすら回し続ける。脚に強い力をかけずに、心臓と血の道だけを太くしていく作業だ。重りを持てない身体でも、これはできる。ここで作った土台の上に、何年か先の筋肉が乗る。
順番を飛ばさなければ、土台は逃げない。
名古屋の朝は、高山より二十分早く明るくなった。川沿いの道を、走は毎朝四十分回した。誰にも会わない。誰にも見られない。走のこの一時間を、この寮の誰も知らない。
四月、この四十分の終わりに橋の下で自転車を止めると、心臓が元の速さに戻るまで、数えて二分以上かかっていた。
六月、一分を切った。
同じ道、同じ速さ、同じ四十分。終わりに止めても、肺の底にまだ空気が残っている。誰も見ていない川沿いで、走はサドルの上に座ったまま、それを確かめた。手のひらを胸に当てると、心臓が大きく、ゆっくり打っている。四月より、太い音だった。
これは、ノートの身長の行には出ない。誰にも見えない。
だが、確かにある。走はハンドルを一度握り直して、寮へ戻った。
自分の体重だけを使う訓練も続けた。片脚で立つ。ゆっくり沈む。止まる。器具は要らない。ウェイト場に一歩も入らずにできることが、走にはまだいくらでもあった。
そして、飯と、眠りだった。
高山では母が作っていた。ここでは走が自分で選ぶ。
走は食堂の献立表を毎週見て、その日足りないものを埋めた。皿を増やすのではない。順番を変える。青いものを先に食べる。汁物を先に飲む。米を最後に回す。同じ献立でも、入る順番が変われば、身体に残るものが変わる。
練習のあと、周りは慌てて粉を溶かして飲んでいた。三十分を過ぎると効かなくなる、と誰かが言い出したらしい。上級生から下級生へ、毎年そうやって伝わってきた話だ。
走は焦らなかった。
効くのは直後の三十分ではない。一日ぶんの合計と、そのあと眠る時間のほうだ。走はそれを知っていたが、やはり言わなかった。慌てて飲むこと自体は害にならない。害にならない思い込みを、わざわざ壊す理由はない。
眠りだけは、譲らなかった。
消灯は十時。走は十時に寝た。同室の三人が布団の中でスマホを見ている光を、走は毎晩、背中で感じていた。
強くなるのは、追い込んでいる最中ではない。壊れたものを組み直しているあいだだ。組み直す仕事は、眠っているあいだにしか進まない。それを誰より知っている男が、いちばん近いこの身体にだけは嘘をつかないと決めていた。
六月の紅白戦で、走はまた弾かれた。
財前の肩は、五月よりさらに厚い。走の身体は、五月と同じだ。芝に手をついて、走は立ち上がった。
残り十分で、財前の一歩目が遅れはじめた。江口も、レオも、赤も白も、三十分を過ぎたあたりから順番に足が重くなる。その中で、走の脚だけが、開始の笛のときと同じ速さで動いていた。
弾かれる。だが、落ちない。
誰も点数にしない。誰も数えない。走だけが数えている。それでも、あの川沿いの四十分は、ここに繋がっていた。
「東くん、なんで元気なの」
終わってから、膝に手をついた江口が、走を見上げて言った。
「寝てるから」
「おれも寝てるけど」
「十時に」
「十時は寝てない」江口は正直に言って、芝に転がった。「うっそ、それだけ?」
「それだけ」
走はそう答えた。それだけではないが、それだけと言っておくのが、いまはいちばん正しかった。江口は「まじかー」と言って、しばらく転がっていた。
七月に入って、走は自分のノートに数字を書いた。
一四八センチ。四〇キロ。
四月に書いた数字と、同じだった。
三ヶ月、朝ごとに心臓を回した。自分の身体を支え、飯を組み替え、十時に寝た。数字は一ミリも動いていない。
同じ日、財前は自分の記録を更新して、部屋に帰ってきて自慢していた。江口が茶化して、レオが笑っていた。
走はその輪の外で、ノートを閉じた。
閉じる音が、自分で思ったより大きかった。財前がこちらを見た。走は何でもない顔をして、ペンを机に置いた。置いたペンが、指の中で少し震えていたことを、走は認めた。
腹が立っていた。誰にでもない。三ヶ月動かない数字と、その数字を毎晩、自分で確かめに行く自分に。
しばらくして、走はもう一度ノートを開いた。
四月の行の下に、今日の行を書き足した。日付と、同じ身長と、同じ体重を。
消さなかった。
消さずに残しておけば、いつか動いた日に、動いたことが分かる。
そして、その行の横に、小さく足した。
――川沿い四十分、戻りが一分を切った。後半、落ちない。
身長の行は動いていない。だが、この行は動いた。走はそれを、数字と同じ大きさの字で書いた。書いてから、ノートを閉じた。今度は、音がしなかった。




