↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/140

第39話 自分を診る医者

 その夜、走は自分の身体を視た。


 六歳のときから、毎晩やっている。今日どこを使って、どこが張っていて、明日どこが動きにくいか。他人の身体なら一目で終わる作業を、自分に対しては丁寧にやる。


 視えている。問題はそこではない。


(――継ぎ目は、外からは視えない)


 骨の両端がどれだけ閉じたかは、走の眼でも分からない。分かるのは伸び方と、身体つきの変化だけだ。中学生の身体を撮る機械は、この寮にはない。


 しかも走は同学年より明らかに遅い。伸びている最中の身体は、伸びることそのものに燃料を使う。そこへ全体練習と紅白戦が乗って、走の一日はもう埋まっている。積む場所がないうちに積めば、増えるのは筋肉ではなく借りのほうだ。


 だから走の判断は、たぶん正しい。


 問題は、そのあとだった。


 走は気づいてしまった。


 自分が、持ってもいい理由を数えはじめていることに。


 軽い重さなら影響は小さい。回数を絞れば負担は限られる。フォームさえ完璧なら――そこまで並べて、走は毛布の中で目を開けた。


 六十八年やった世界に、こういう言葉がある。


 自分を診る医者は、藪医者を患者に持つ。


 走はその言葉を、若い医師に何度も言った。言うたびに笑われた。


 いま、笑われる側にいる。


 他人の身体なら、走はためらわない。ためらう理由がないからだ。自分の身体には、理由がある。やりたい。ただそれだけの、どうしようもない理由が。そこに知識が加わると、知識はそのまま言い訳の材料になる。


 前の生で親の小言を聞かなかったのも、たぶん同じ理屈だった。やりたかったから。


 六十八年経って、走はいま、同じ入口に立っている。


 やりたい。


 その一語が、天井のほうから降りてきて、なかなか消えなかった。財前の押し返す肩。レオの数える声。鉄の匂い。あの輪の中に入って、一・二五キロを十回、正しい角度で挙げてみたい。それだけのことが、こんなに重い。


 走は毛布を引き上げた。


 今夜は踏みとどまった。踏みとどまれたのが正しさなのか、それともただ運が良かっただけなのか、走には分からなかった。


 持たないかわりに、走は別のものを積んだ。


 朝、寮を出て、自転車に乗る。


 速く走らせるのではない。心臓だけを働かせる速さで、ひたすら回し続ける。脚に強い力をかけずに、心臓と血の道だけを太くしていく作業だ。重りを持てない身体でも、これはできる。ここで作った土台の上に、何年か先の筋肉が乗る。


 順番を飛ばさなければ、土台は逃げない。


 名古屋の朝は、高山より二十分早く明るくなった。川沿いの道を、走は毎朝四十分回した。誰にも会わない。誰にも見られない。走のこの一時間を、この寮の誰も知らない。


 四月、この四十分の終わりに橋の下で自転車を止めると、心臓が元の速さに戻るまで、数えて二分以上かかっていた。


 六月、一分を切った。


 同じ道、同じ速さ、同じ四十分。終わりに止めても、肺の底にまだ空気が残っている。誰も見ていない川沿いで、走はサドルの上に座ったまま、それを確かめた。手のひらを胸に当てると、心臓が大きく、ゆっくり打っている。四月より、太い音だった。


 これは、ノートの身長の行には出ない。誰にも見えない。


 だが、確かにある。走はハンドルを一度握り直して、寮へ戻った。


 自分の体重だけを使う訓練も続けた。片脚で立つ。ゆっくり沈む。止まる。器具は要らない。ウェイト場に一歩も入らずにできることが、走にはまだいくらでもあった。


 そして、飯と、眠りだった。


 高山では母が作っていた。ここでは走が自分で選ぶ。


 走は食堂の献立表を毎週見て、その日足りないものを埋めた。皿を増やすのではない。順番を変える。青いものを先に食べる。汁物を先に飲む。米を最後に回す。同じ献立でも、入る順番が変われば、身体に残るものが変わる。


 練習のあと、周りは慌てて粉を溶かして飲んでいた。三十分を過ぎると効かなくなる、と誰かが言い出したらしい。上級生から下級生へ、毎年そうやって伝わってきた話だ。


 走は焦らなかった。


 効くのは直後の三十分ではない。一日ぶんの合計と、そのあと眠る時間のほうだ。走はそれを知っていたが、やはり言わなかった。慌てて飲むこと自体は害にならない。害にならない思い込みを、わざわざ壊す理由はない。


 眠りだけは、譲らなかった。


 消灯は十時。走は十時に寝た。同室の三人が布団の中でスマホを見ている光を、走は毎晩、背中で感じていた。


 強くなるのは、追い込んでいる最中ではない。壊れたものを組み直しているあいだだ。組み直す仕事は、眠っているあいだにしか進まない。それを誰より知っている男が、いちばん近いこの身体にだけは嘘をつかないと決めていた。


 六月の紅白戦で、走はまた弾かれた。


 財前の肩は、五月よりさらに厚い。走の身体は、五月と同じだ。芝に手をついて、走は立ち上がった。


 残り十分で、財前の一歩目が遅れはじめた。江口も、レオも、赤も白も、三十分を過ぎたあたりから順番に足が重くなる。その中で、走の脚だけが、開始の笛のときと同じ速さで動いていた。


 弾かれる。だが、落ちない。


 誰も点数にしない。誰も数えない。走だけが数えている。それでも、あの川沿いの四十分は、ここに繋がっていた。


「東くん、なんで元気なの」


 終わってから、膝に手をついた江口が、走を見上げて言った。


「寝てるから」


「おれも寝てるけど」


「十時に」


「十時は寝てない」江口は正直に言って、芝に転がった。「うっそ、それだけ?」


「それだけ」


 走はそう答えた。それだけではないが、それだけと言っておくのが、いまはいちばん正しかった。江口は「まじかー」と言って、しばらく転がっていた。


 七月に入って、走は自分のノートに数字を書いた。


 一四八センチ。四〇キロ。


 四月に書いた数字と、同じだった。


 三ヶ月、朝ごとに心臓を回した。自分の身体を支え、飯を組み替え、十時に寝た。数字は一ミリも動いていない。


 同じ日、財前は自分の記録を更新して、部屋に帰ってきて自慢していた。江口が茶化して、レオが笑っていた。


 走はその輪の外で、ノートを閉じた。


 閉じる音が、自分で思ったより大きかった。財前がこちらを見た。走は何でもない顔をして、ペンを机に置いた。置いたペンが、指の中で少し震えていたことを、走は認めた。


 腹が立っていた。誰にでもない。三ヶ月動かない数字と、その数字を毎晩、自分で確かめに行く自分に。


 しばらくして、走はもう一度ノートを開いた。


 四月の行の下に、今日の行を書き足した。日付と、同じ身長と、同じ体重を。


 消さなかった。


 消さずに残しておけば、いつか動いた日に、動いたことが分かる。


 そして、その行の横に、小さく足した。


 ――川沿い四十分、戻りが一分を切った。後半、落ちない。


 身長の行は動いていない。だが、この行は動いた。走はそれを、数字と同じ大きさの字で書いた。書いてから、ノートを閉じた。今度は、音がしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。