第38話 持たない一年
五月に入って、二年と三年が使うウェイト場が、一年にも開放された。
鉄の匂いがした。
棚には黒い円盤が大きい順に並び、床には擦れた跡が無数についている。飛騨の物置に転がっていた米袋とは、何もかもが違った。あれは走が七歳のとき、持ち上げようとして、持ち上げずにやめた重さだ。
同学年が、次々に触りはじめた。
誰かが胸の前で重りを押し上げ、誰かが数を数える。数字が増えるたび、短い歓声が上がった。レオも輪の中にいて、いちばん大きな声で数えていた。
コーチは一年に「無理はするな」と言った。それだけだった。
無理の線がどこにあるかは、誰も言わない。だから線は、その日いちばん多く挙げた子の記録になる。翌週にはそれが基準になり、また上がる。
走はこの光景を、前の生で何百回も見た。壊れた脚の持ち主は、みんな似たような顔で言うのだ。あのころは、みんなやってましたから。
走は、その輪の外にいた。
「東。お前、やらないの」
財前だった。タオルを首にかけて、汗を拭きながら立っている。
「やらない」
「なんで」
走は答えを持っていた。持っていたが、言わなかった。
重りが身体を壊すのではない。壊すのは、線を引かない場所で重りを持つことだ。ここには、その日の最高記録が翌週の基準になる仕組みしかない。骨の両端がまだ継ぎ目のまま柔らかい年齢で、誰も止めない上げ方を続ければ、いつか腱の付け根から先に音を上げる。走は前の生で、その順番で運ばれてくる脚を何度も見た。どの子も同じことを言った。フォームは教わっていない、と。
言えば、通じるかもしれない。
だが六年やってきた相手に、今日で一ヶ月半の田舎の子が「その重さはやめておけ」と言ったところで、何が起きるかは第一日目に学んでいる。
「まだ、じゃないと思ってる」
走はそれだけ言った。
「ふうん」財前は肩をすくめた。
それから、思い出したように付け足した。
「おれ、真ん中やってみることにした。監督にも言った」
走は顔を上げた。
「腿の裏がいいって、お前が言ったろ。走るより止まるほうが得意だって」財前は照れ隠しのように鼻の頭を掻いた。「あれ、腹立ったけど。……当たってた気がしてさ」
入寮した日の夜、走が測って、そのまま口から出てしまった一言だ。
何を言っているのか、と低い声で返されて、それきり目も合わせてもらえなかった、あの一言。
「だから、身体つくる。止まる身体って、重りいるだろ」
財前は輪へ戻っていった。
「お前も来いよ」振り返らずに、財前が言った。「教えてもらったの、こっちなんだから」
走は、その背中を見ながら、しばらく動けなかった。
誘われた。
あの夜に「何様だ」と言った相手が、振り返らずに、来いよと言った。腹が立った、と本人の口から聞いた。当たっていた、とも聞いた。走はその二つを、順番に受け取った。
うれしかった。
この一ヶ月半、財前とは、必要なこと以外を話していなかった。その距離が、いま、向こうから一歩縮まった。走が測った腿の裏は、あの男の中で、正しく使われはじめている。
「……財前」
輪の中から、財前が振り返った。
「なんだよ」
「腿の裏、当たってて、よかった」
「うるせえ」財前は言った。言ってから、また鼻の頭を掻いた。「早く来いよ」
行かない、とは、そのとき言えなかった。
走の見立ては当たっている。当たっているからこそ、財前はいま、正しい方向へ全力で走り出した。止まる身体には、重りが要る。それも正しい。
そして走は、自分にはそれをやってやれない。
走の知識は、他人の身体を前に進める。財前を、リクを、いつか海を。だが同じ知識が、走自身にだけは「待て」としか言わない。
医者は、患者を治す。自分では治らない。
その日から、走の午後は静かになった。
全体練習が終わると、同学年はウェイト場へ流れていく。走は反対側へ歩く。誰も止めない。誰も呼ばない。走がそこにいないことに、たぶん誰も気づいていない。
財前だけは、最初の三日、輪の中から一度ずつ、入口のほうを見た。四日目からは見なくなった。それでいい、と走は思った。思ったが、四日目の夕方は、少しだけ足が重かった。
三日目に、レオが聞いてきた。
「アズマ、こっち来ないの?」
「行かない」
「なんで」
「まだ早い」
「はやい?」レオは首をかしげた。「みんなやってるよ」
「知ってる」
「アズマ、変わってんなー」
レオはけらけら笑って、それ以上は聞かなかった。この男は他人の理由に興味がない。だから走はレオの前でだけ、少し息がしやすかった。
二週間で、財前の当たりが変わった。
紅白戦で肩がぶつかったとき、走はそれを身体で受け取った。四月の財前とは、押し返してくる力の質が違う。まだ形になっていない。だが確かに、何かが乗りはじめている。
三週間目には、走が弾かれた。
同じ学年、同じ日に入って、同じメニューをこなしている。違うのは、片方が重りを持ち、片方が持たないことだけだ。
走は芝から立ち上がりながら、頭の中で計算した。
財前がこの厚みを手に入れるのに、三週間。走が同じ場所に立てるのは、早くて二年半先。
その二年半のあいだ、走はこうやって弾かれ続ける。
正しさは、遅い。
走が知っていることは、二年先、三年先で効いてくる。効いてくるまでのあいだ、走はただ、負けている。
弾かれた芝の上で、走は財前の背中を見た。腹は立たなかった。あの厚みは、走が測って、走が言って、財前が自分で作ったものだ。当たっていてよかった、と言ったのは本心だ。
本心のまま、悔しかった。
自分の見立てが正しかったことと、その正しさの上を自分だけが歩けないことは、同じ日の同じ芝の上で、両方本当だった。
財前は歓声の中にいて、走は輪の外にいる。誰も走を止めていない。走が自分に禁じているだけだ。
それが、いちばんこたえた。
六月の中頃、走は一度だけ、ウェイト場の入口に立った。
夕方で、中は誰もいなかった。黒い円盤が壁一面に並んでいる。いちばん軽いのが一・二五キロ。走の身体でも、正しい角度でなら十回は挙げられる重さだ。
十回。一週間で三十回。角度を自分で見られるなら、線は引ける。たぶん。
走はその「たぶん」の前で、五分ほど立っていた。
前の生で、走は何百人に待てと言った。折れかけた骨を抱えて「試合に出たい」と言う子供に、走は毎回、駄目だと答えた。あの子たちの顔を、いまでも一人ずつ思い出せる。
言われる側になったのは、初めてだった。
走は電気をつけずに、扉を閉めた。
廊下の窓から、まだ明るいグラウンドが見えた。誰かがボールを蹴る音が、規則的に響いている。
走はその音を聞きながら、自転車置き場へ歩いた。




