第37話 根性じゃない、設計だ
更衣室へ向かう通路で、走は背後から呼び止められた。
その日の走の身体は、あまり良い状態ではなかった。
五度倒されている。左の肘が擦れ、右の腰は明日には青くなる。歩くたびに、二年ぶんの体重が置いていった重さが、まだ胸の奥に残っていた。
息はまったく上がっていない。四十分、走は一度も全力で走らなかった。
そのちぐはぐさが、この日の走の全部だった。
「氷室 海だ」
振り返ると、あのボランチの子が立っていた。
汗をほとんどかいていない。四十分、走り回るのではなく盤面を動かしていた男の身体だった。背は走とそれほど変わらない。この学年では小さいほうだ。腕も細く、肩幅もない。
この身体で、あの試合を捌いていた。
「お前、岳を抜こうとしてなかったろ」
走は答えるまでに、半拍かかった。
「……はい」
「抜けないと最初から分かってた。だから、抜かない方法で削った」海は表情を変えずに言った。「根性でやってる顔をして、頭でやってる。うちで、それに気づいたのは、たぶん俺だけだ」
走の背筋を、久しぶりの感触が走った。
高山を出てから、走の設計を誰も知らなかった。
財前は「何様だ」と睨んだ。岳は眼中にも入れなかった。レオは笑い、周りは根性があると笑った。走が何をしているかを、誰も視ていなかった。この二週間、走は自分のやっていることを、自分一人で数えていた。
この男だけが、走の中身を正確に言い当てた。
「……どこで、分かりました」
聞き返した声は、自分でも驚くほど早かった。
「四度目からだな」海は続けた。
「四度目」
「変えたのが。三度目までは、お前ちゃんと止めにいってた。四度目から止めるのをやめた」海は壁に背を預けた。「一本ごとに岳の切り返しが増えた。あれは偶然じゃない。誘ってた」
走は黙っていた。黙っていたが、黙っているのが少し難しかった。四度目。走が立ち上がったあの一本を、この男は正確に切り分けている。
「もう一つ聞くけど」海は言った。
「お前、今日、一回も全力で走ってないだろ」
走の指先が、一瞬だけ止まった。
それは、誰にも言っていない。言っていないどころか、走以外の人間には見えようがない。抜かれ続けている人間が全力を出していないなどと、普通は考えもしない。
「……はい」
「だろうな。倒れ方が、毎回きれいだった」海は淡々と言った。「本気で追ってる奴の倒れ方じゃない。全部、受け身が間に合ってる」
走は答えなかった。
この男は、身体を視ているのではない。走の身体がどう動いたかではなく、走が何を選んだかを見ている。走の眼が骨と腱を測るのだとしたら、この眼は、選択そのものを測っている。
「聞くけど」海は言った。「あと何本あれば、岳は止まった」
走はその質問の意味を、正しく受け取った。
こいつは、走が「何をしたか」を確かめに来たのではない。もう分かっている。分かったうえで、その先を聞いている。
「あと二本です」
答えは、聞かれ終わるより早く出ていた。
「後半の頭から数えて二本。同じ形で急停止させれば、七度目は確実に止まりました」
「なんで、やらなかった」
「二本続けて止めたら、あの人が考えるからです」
海の眉が、一ミリだけ動いた。
「今日一日で使い切っていい手じゃありません。黒木さんは来年ユースへ上がる。あの人と向き合える日は、あと何回もない」
通路の蛍光灯が、二人のあいだで小さく鳴っていた。
「……そこまで考えて、負けたのか」
「はい」
海はしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。表情がほとんど動かないので、走には判断がつかなかった。
走のほうは、たぶん笑っていた。この通路で、二週間ぶんの数字を、初めて誰かと分け合っている。それが、どうしようもなく、うれしかった。
「一つ、言っておく」
海は壁から背を離した。
「うちに、お前の設計が効かない相手が二人いる」
「――」
「岳と、俺だ」
海は言った。
「岳は身体で気づかない。減っていることに気づかないから、削られ続ける。……お前の設計は、気づかない相手にしか効かない」
走は息を止めた。
図星だった。燃料切れは、相手が自分の消耗に無自覚であることを前提にしている。急停止を積まされていると気づいた瞬間、相手はただ乗ってこなくなる。餌は、飢えている相手にしか効かない。
「俺は全部見えてる」海は続けた。「だから、お前が餌を置いた場所も見える。俺は食わない。かわりに、お前が食わせたい場所へ、こっちが誰を走らせるかを決める」
「……盤面を、動かす」
「そう」
「なぜ、それを俺に言うんですか」
聞かずにはいられなかった。効かないと分かっている相手に、手の内を明かす理由がない。
海は少しだけ、考える顔をした。
「お前が餌を置く場所を、俺が知ってるのと知らないのとじゃ、うちの試合が変わる」
うちの、と海は言った。
走はその一語を、通路の蛍光灯の下で受け取った。今日、赤と白に分かれていた二人の話ではなかった。同じ紋章の側から、この男は走を数えていた。
「お前が這い上がるつもりなら、いちばん厄介なのは、たぶんその二人だ」
それだけ言って、海は背を向けた。
通路の蛍光灯の下で、その背中は走と同じくらい小さかった。
あの盤面を統べる眼と、この小さな身体がどう繋がっているのか、この時の走はまだ知らなかった。
走の眼は、去っていく背中を勝手に測った。
(――伸びが、遅い)
骨の伸びる気配が薄い。肩の幅も、この学年の平均より一段下にある。今年か来年に来るはずのものが、この身体にはまだ来ていない。
走にとっては見慣れた形だった。走自身の身体と、よく似ている。
(……こいつは、いつか困る)
走はそう思って、すぐにその考えを畳んだ。
今日会ったばかりの相手の身体を心配するのは、二週間前に財前で失敗したばかりのことだ。それに今日は、そのことを考える日ではなかった。
その夜、走はノートに一行だけ書き足した。
――氷室海。餌が効かない。
書いた行を、走はしばらく動かずに見ていた。
読めない相手なら、一人知っている。半年かけて設計を組んで、六分半で死んだ。あの男の周りには、線という概念がなかった。
海は違う。読める。重心も、腱も、次の一歩も、走の眼にはちゃんと視える。視えていて、効かない。餌の意味を先に知っている相手には、餌が餌にならない。読めるのに効かない相手というのは、走にとって初めてだった。
走はその一行の下に、もう一行を足した。
――効かないなら、味方にする。
書いて、走はペンを置いた。
今日、あの通路で、走のやっていることを言葉にした人間がいた。うちの試合、と言った。それだけのことで、名古屋に来てからの二週間が、少しだけ軽くなっている。走はそれを、隠さずに自分で認めた。
黒木岳と、氷室海。
今日一日で、走はこの街に来て初めて、名前を二つ手に入れた。どちらも、まだ走の名前を呼んではいない。




