第36話 六度のうち五度
後半、岳の脚が鈍り始めた。
走の眼には、はっきり視えた。
一歩目の出が前半より半拍遅い。急停止のあと、次の加速までに余計な一歩が挟まる。走が餌を見せると、まだ食いついてくる。だが食いつく速度が落ちている。
岳は抜き続けていた。
だから気づかなかった。
走はそれを、前の生で何度も見ている。試合に勝った日の身体のほうが、負けた日より壊れていることがある。数字は残るが、感覚は残らない。
走は数えていた。
前半で八本。後半に入って四本。合計十二回の急停止と、それに続く十二回の急加速。一本ごとの負担は小さい。小さいものが十二個積まれた脚が、いまここにある。
六度目、走は初めて抜かれなかった。
止めたのではない。
岳の加速が、間に合わなかっただけだ。餌に食いついて急停止して、切り返そうとした岳の脚が、コンマ数秒いつもより遅れた。走はそこへ身体をねじ込んだだけだった。
ボールが走の足に当たって、外へ流れた。
審判役のコーチが手を上げる。走のチームのスローインになった。
それだけの、なんでもない一本だった。
走の足の甲に、ボールの当たった感触が残っていた。この二十五分で初めて、岳の球に触った。その一点だけが、足の上で熱かった。
岳が初めて足を止めた。
自分の脚を一度、見下ろした。
「……左だからか」
小さく、そう呟いた。
本職ではない左に回されて、感覚が狂っている。脚が重いのはそのせいだ。岳の中で、辻褄はそう合った。
合ってしまった。
抜き続けている自分が削られているなどと、この絶対的な身体の持ち主は想像もしない。
(――そうだ。左のせいにしておけ)
真相にたどり着くのが遅れるほど、走の一日は長く効く。
走は表情を変えなかった。変えないために、奥歯に力を入れた。うれしさを顔に出せば、この人はいま起きたことを考え直す。考え直せば、たぶん三本目で対策が来る。この身体の持ち主が本気で頭を使い始めたら、走に打つ手はない。
だから走は、何も起きなかったという顔で、自分の位置へ戻った。足の甲の熱だけは、隠しようがなかったが、それは誰にも見えない。
残り五分で、七度目が来た。
岳がまた左から上がってくる。走には、その一歩目でもう分かった。前半の岳ではない。踏み込みが浅く、上体が少し起きている。ここで餌を見せれば、たぶん食いつききれずに止まる。
止めれば、二本続けてになる。
走は餌を見せなかった。
かわりに、正面から間合いを詰めた。教科書どおりの、なんの工夫もない寄せ方だ。岳は難なく縦へ抜けて、クロスを上げた。誰にも合わずに、ボールはゴールラインを割った。
抜かれた回数が、また一つ増えた。止めたのは、六度目の一度きりだった。
走は戻りながら、自分の判断を確かめていた。
二本続けて止めれば、岳は考える。この人が本気で考え始めたら、走の餌は明日から通じない。今日一日で使い切っていい手ではなかった。
中三の岳と向き合える日は、あと何度もない。あの人は来年ユースへ上がる。走に残された時間のほうが、はるかに短い。
だから、今日は一度でいい。
勝ち星を一つ増やすより、この手を来年まで生かしておくほうが、走にとってはずっと価値があった。
その計算を、走はピッチの上で、誰にも気づかれずに済ませた。
済ませたあとで、走は一度だけ、七度目を止めなかった自分の脚を、少し恨んだ。理屈は正しい。正しいと分かっていて、それでも止めたかった。止められたのに止めなかった一本は、抜かれた五本より、後味が悪かった。
試合終了の笛が鳴った。
スコアは赤組の勝ち。岳のいるチームが順当に勝った。走のチームは負けたし、走自身も七度のうち六度は抜かれている。
数字は何一つ、走の勝ちを示していない。
それでも走は、まだまっすぐ立っていた。
赤組の何人かが、膝に手をついて肩で息をしていた。岳も、その一人だった。前半にコーンを躱すように走を抜いた男が、後半の終わりに白い息を吐いて、自分の脚を持て余していた。
岳が顔を上げた。
そして初めて、走を見た。
値踏みではない。財前のような、上から下への視線でもない。今まで見えていなかったものが、急に視界に入ってきた――そういう、戸惑いに近い眼だった。
「……お前、名前」
入団して二週間、この人は一度もそれを聞かなかった。
「東です」
「ふうん」
岳はそれだけ言って、背を向けた。
感心した様子はどこにもない。抜かれてもいない。削られた自覚も、まだ無い。ただ、そこに一人いる。それを認識しただけだった。
走は、それで十分だった。
抜くことではない。今日の走の仕事は、あの背中にこちらの存在を一度、像として結ばせることだった。
それがたった今、済んだ。
中一の、最初の一歩だ。
ピッチの端で、監督の鬼塚が腕を組んで見ていた。
勝利至上主義の名将。全国を何度も知っている男。
その眼が走を一度、素通りして、それから戻ってきた。
「――よう走るな、あの田舎の」
誰にともなく、鬼塚は言った。悪くない、という顔だった。この人は、たくさん走る子供が好きなのだ。
走はそれを聞いていなかった。
この時の走は、鬼塚のその一言が一年後にまったく逆の刃となって返ってくることを、まだ知らない。
更衣室へ戻る前に、走はグラウンドの水道で顔を洗った。
冷たい水が、後半のあいだ張りつめていた何かをほどいた。
奥歯から、力が抜けた。
ほどけた場所から、順番に出てきた。六度目の、足の甲の熱。お前、名前、という声。二つとも、まだそこにあった。走は蛇口を止めずに、もう一度顔に水をかけた。顔を隠す理由は、もう無い。それでも、水の下でなら、好きなだけ緩めていられた。
うれしかった。
勝ってはいない。抜かれた回数のほうがずっと多い。今日の紅白戦を見ていた人間のうち、走が何をしたかを説明できる者は一人もいないだろう。それでも、一度止めた。あの脚を、一度だけ間に合わなくした。それは、走がやった。
そして、名前を聞かれた。
二週間前、玄関で唇に載っていたのは「セレクションのやつ」と「田舎の」だった。今日、あの背中は「お前、名前」と言った。まだ呼ばれてはいない。聞かれただけだ。
だが順番としては、そこからしか始まらない。
顔を上げると、鏡代わりの窓に自分が映っていた。
左の肘に擦り傷。右の腰に、明日には青くなる打ち身。五度倒された身体は、その五度ぶん、律儀に傷を受け取っている。三日で消える。今日あの人の中に結んだ像は、消えない。
「東です」
誰もいない水道で、走はもう一度、小さく言ってみた。
言ってから、自分でおかしくなって、走は蛇口を締めた。
水滴の落ちる音が、静かになったグラウンドに一つだけ響いた。




