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第35話 像を結ぶ

 入団して二週間が過ぎた。


 その午後、初めて、三つの学年を混ぜた紅白戦があった。紅白に分かれて、十一人ずつ。中一から中三までを学年混ぜで振り分ける。走の名が呼ばれたのは白組の右サイドバックだった。


 名前ではなくビブスの色だけが、今日の走の所属だった。


 赤組の左サイドバックに、黒木岳がいた。


 岳は本職が右だ。走と同じ右サイドバック。それをこの日、コーチはあえて左へ回した。理由は走にも分かった。どこに置いても同じだとコーチが知っているからだ。右だろうと左だろうと、あの身体には関係がない。


 そして白組の右に走が置かれた。


 攻守が入れ替わるたび、左から上がる岳と右で戻る走が、正面から向き合う配置だった。


 岳にとっては軽い調整メニューだ。逆サイドの新入りが一人、目の前に立っているだけ。


 走にとっては、初めてあの背中と向き合う日だった。


 最初の一分で、走は自分の立たされた場所を理解した。


 岳が左から上がってきた。


 ただ真っ直ぐ走ってくる。フェイントも、駆け引きもない。ボールを持って加速して、そのまま来る。それだけだった。


 走は正しい位置に立っていた。重心も、間合いも、教科書通りに詰めた。読みは合っている。


 そして、抜かれた。


 読みではない。身体だ。走が半歩を寄せるより速く、岳の一歩が地面を噛んで通り過ぎた。触れた肩が岩のようだった。


 中三と中一。二年ぶんの体重と、二年ぶんの出力。そのあいだに、走の設計では埋められない時間の壁があった。


(――止まらない)


 岳は振り返りもしなかった。


 抜いたことにすら興味がない。逆サイドの新入りなど、コーンを一つ躱したのと同じだ。この人の眼に、走はまだ映っていない。


 二度目も三度目も、走は抜かれた。


 三度目は、怖かった。


 読めている。読めているのに、身体がそこへ来る。前の生で、走は人の身体を何千と診てきたが、自分の身体で受け止めたことは一度もない。肩が触れた瞬間に、こちらの骨のほうが逃げる。そういう相手だ。読めても止まらない。走が六十八年ぶんの眼で視たところで、視えた通りに身体が動く相手には、視えていること自体が意味を持たない。


 三度目のあと、走は芝の上で一度だけ息を整えた。


 このままなら、四十分で六回抜かれて終わる。それは今日の紅白戦の結果としては何も間違っていない。中一が中三に抜かれる。誰も驚かないし、誰も覚えていない。


 嫌だった。


 怖いのと、嫌なのは、別のものだった。抜かれたまま四十分が終わることが、理屈より先に嫌だった。もう一本。あと一本だけ、何か試したい。走はそれだけの理由で、芝に手をついて立った。


(――それじゃ、名前は呼ばれない)


 設計は、そのあとで来た。


 止めることはできない。止めることを目的にしているかぎり、この人には一年経っても届かない。


(――止められないなら、走らせればいい)


 四度目、走はわざと岳の縦に、抜けそうな隙間を見せた。


 餌だ。


 見せ方には条件がある。広すぎれば、岳は加速せずにそのまま通る。狭すぎれば、最初から中へ逃げる。岳が「行ける」と判断して、なおかつ全力で踏まなければ通れない幅。その一足ぶんを、走は身体の角度だけで作った。


 岳がそこへ加速する。走は寄せない。岳が仕掛けきる寸前、その隙間を半歩だけ閉じる。


 岳は抜き切るために、もう一段急加速する。抜く。走はまた抜かれる。


 だが、それでいい。


 人間の脚がいちばん燃料を食うのは、全力で走ることではない。急に止まり、急に向きを変え、急にもう一段加速することだ。走はそれを六十八年、患者の脚で見てきた。


 抜かれ続けながら、走は岳に、その急を一本ごとに一つずつ積ませていった。


 ――診断。


 黒木岳。フィジカル、規格外。この年代に、こんな身体はいない。


 だが急停止のたびに、燃料計が一目盛り落ちる。急加速のたびに、もう一目盛り。


 本人は抜いている。だから、減っていることに気づかない。


 勝っている側は、自分がすり減っているとは思わない。


 走は抜かれるたびに芝へ膝をつき、そのたびに相手の燃料計だけを数えていた。


 抜かれた回数は走の負けだ。だがその負けが一つ増えるたび、岳の脚から目に見えない燃料が一つ確実に減っていく。


 その代償を、走は五度目に払った。


 餌を見せる位置を、半足ぶん間違えた。岳が通る道と、走の身体が同じ場所に来た。避けきれずに、肩から入られた。


 走の身体は、地面を離れた。


 背中から芝に落ちて、息が止まった。二年ぶんの体重が、中一の胸郭にそのまま届いた。肋骨は折れていない。折れていないことを、走は倒れたまま自分で確かめた。呼吸が戻るまで、四秒かかった。


「アズマ!」


 逆サイドから、レオの声が飛んできた。


 息が戻るより先に、それが来た。


 逆サイドのフォワードが、こちらの右サイドバックを気にする理由は、戦術のどこにもない。倒れた新入りの名前を呼んだところで、赤組にも白組にも何の得もない。ただ、呼んだ。それだけの声だった。


 走は片手を上げた。大丈夫だという合図のつもりだったが、上げた手は、合図に要る時間より少し長く、上がったままになった。そのあいだも岳は戻っていて、こちらを見てはいなかった。


 走は立ち上がって、芝についた土を払った。


 いまの一本は、走の設計の失敗だ。餌は、正しい場所に置いてはじめて餌になる。半足ずれれば、それはただ相手の進路に立っているだけになる。


 覚えておけ、と走は自分に言った。この人の一歩は、間違えたぶんをそのまま身体で返してくる。


 六度目の前に、走は自分の呼吸も測った。


 乱れていない。走はこの二十分、一度も全力で走っていない。餌を見せて半歩閉じて、抜かれて、戻る。その繰り返しには急停止も急加速もほとんど要らない。使っているのは岳の脚だけだ。


 これが成立するのは、走が抜かれることを勘定に入れているからだった。


 勝とうとした瞬間に、走も同じだけ削られる。


 周りには、それが見えない。


 見えるのは、田舎の小柄な新入りが格上の三年に何度も抜かれながら、それでも懲りずに食らいついている絵だけだ。


「あの中一、根性あるな」


 前半が終わって、給水の列でそんな声が聞こえた。


「何回抜かれても立ってくる。ま、抜かれてるけど」


 笑いが起きた。悪意はない。事実だからだ。走はこの二十分、一度も岳を止めていない。数字の上では走の完敗だった。


 走はボトルの水を飲みながら、それを聞いていた。


 根性、という言葉に、少しだけ腹が立った。根性ではない。腹が立ったことは、走だけのものとして、水と一緒に飲み込んだ。


 訂正するつもりはない。むしろ、そう見えているほうが都合がいい。根性で食らいついている中一だと思われているうちは、誰も走が何を数えているかを確かめようとしない。


 そのとき、走は視線に気づいた。


 その笑いの輪の外で、一人だけ笑っていない子がいた。


 赤組のボランチだ。岳のすぐ後ろで、ずっと中盤の底を捌いていた。細身で、声も出さず、走がまだ一度もその視線の意味を掴めていない静かな子。


 目が合った。


 その子は逸らさなかった。


 値踏みでも、見下しでもない。盤面のどこかにある一つの駒を確かめるように、走をまっすぐ見ていた。

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