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第34話 転校生

 四月の初め、入学式の翌日から、走は名古屋の公立中学へ通いはじめた。


 寮から歩いて十分だった。


 高山の中学へは、一日も通っていない。入学式の前に、名古屋の中学への手続きが済んでいた。走の三年間は、この街で始まって、この街で終わる。


 朝、寮を出るとき、廊下で財前と会った。


 同じ制服だった。


 同じ学年だが、クラスは別だと聞いていた。江口も同じ学校で、こちらは走と同じ二組だという。


「行くのか」


 財前は走を一度見て、それだけ言った。


「行く」


「そうか」


 二人は並んで歩かなかった。


 財前は先に出て、走は少し遅れて出た。どちらが決めたわけでもない。入寮の翌日に「何様だよ」と言われた相手と並んで歩く理由が、走には思いつかなかった。


 その背中を見ながら、走は一つだけ気づいていた。


 昨日の練習の終わり、全体が上がったあとに、財前が一人だけ残っていた。やっていたのは走り込みではない。低く構えて、片脚に体重を預けて、そこから逆へ踏み替える。同じ動きを、何度も。


 前へ出る練習ではなかった。止まって、向きを変えるための練習だった。


 誰に言われたのでもない。監督のメニューにもない。


 走は何も言わなかった。言えば、たぶん止まる。


 ただ、あの腿の裏は、正しく使われはじめていた。


 教室で、走は前に立たされた。


「東走くんです。岐阜から来ました」


 担任がそう言うと、教室が少しざわついた。


「岐阜?」


「どこ?」


「高山です」


 走が答えると、何人かが「あー」と言った。それが何を意味するのか、走には分からなかった。


「なんで名古屋来たの」


「サッカーです」


 その一言で、ざわめきが少し変わった。


「尾張?」


「はい」


「まじで」


 教室の空気が、はっきりと動いた。


 その動き方を、走は正確に読み取った。


 この学校には、尾張の寮生が何人か通っている。だからクラブの名前は通じる。通じるが、それは「すごい」という種類の反応であって、走を仲間として受け入れる反応ではない。


 むしろ、線が引かれた。


 あいつは、そっち側の人間だ。


 休み時間に、江口が話しかけてきた。


「東くん、二組なんだ。同じじゃん」


「そうらしい」


「よろしくー」


 江口はそれだけ言って、別の男子のところへ行った。


 走はそれを見送った。


 この男は、誰にでもそうする。走にだけ特別なわけではない。それが分かっているから、走はその軽さを不快に思わなかった。むしろ、教室に一人だけ、寮で顔を合わせている人間がいることに、走は少し助けられていた。


 昼休み、走は一人だった。


 教室の後ろで、数人が固まって喋っている。ゲームの話らしい。走の知らないタイトルだった。走が前の生で最後にゲームをしたのは、十五歳のときだ。


 別の輪では、誰かが担任の物真似をしていた。


 似ていた。眼鏡を押し上げる癖と、語尾の上がり方が、朝の三十分で走が見たとおりだった。笑いが起きた。


 走も、笑っていた。


 声は出なかった。息だけが抜けた。自分でも気づかないうちに、その輪の笑いに、一拍だけ乗っていた。


 乗ったことに気づいて、走は前を向いた。


 参加する回路が、どこにも見つからなかった。聞こえてはいる。何を言っているかも分かる。今の物真似が面白いことも分かる。だがそこから、あの輪へ行って「似てた」と言うまでの道が、どこにもない。


(――どうやってたんだ、俺は)


 走は自分に聞いた。


 高山では、六人いた。だがあれは、走が六歳のころから毎日同じ空き地にいた相手だ。作った覚えがない。気づいたら、そこにいた。


 六十八年生きた男には、友達の作り方が思い出せなかった。


 午後の授業で、走は窓の外を見ていた。


 国語の時間だった。教師が黒板に書いている内容は、走には簡単すぎる。難しいのは、簡単だと顔に出さないことだった。


 前の席の男子が、消しゴムを落とした。


 走は拾って、渡した。


「あ、ども」


「うん」


 それで終わった。


 そのやりとりを、走はあとで思い返した。


 あそこで、何か言えばよかった。


 名前を聞くとか、笑うとか、何でもよかった。会話を始める入口は、確かに開いていた。


 開いていることは分かっていた。


 分かっていて、走は「うん」しか言わなかった。


(――距離を、詰める気がないんだ)


 走はそこで、初めてはっきりそれを認めた。


 この教室にいるのは、十三歳だ。


 走の眼には、そう見えている。怒っている子を見ても、腹が立たない。誰かがふざけていても、うるさいと思わない。


 思わないのは、走が寛容だからではない。


 子供が騒いでいるのを、大人が眺めているだけだからだ。


 それは、たぶん、いちばん失礼な態度だった。


 同じ教室に座って、同じ授業を受けて、同じ年の子として扱われている。


 なのに走だけが、一人だけ、別の高さから見ている。


 ただ、昼休みの物真似には、走も笑った。眺めていただけではなかった。一拍だけ、あの輪に混ざっていた。


 その一拍を、どうすれば一言に変えられるのか。走はそれを、直す方法を知らなかった。知らなかったが、直したい、とは思っていた。


 放課後、走は走って寮へ戻った。


 着替えて、グラウンドへ出る。


 そこには、教室にはないものがあった。


 尺度だ。


 ピッチの上では、誰が何をできるかがはっきりしている。走が何をやっているかも、少なくとも数字にはなる。抜かれた回数。走った距離。誰かの脚が何本目で落ちるか。


 教室に、それはない。


 教室で人が測られる尺度を、走は三十年以上前に忘れていた。


 その夜、走はノートに一行だけ書いた。


 ――学校のほうが、難しい。


 書いてから、少し馬鹿らしくなって、その下に足した。


 ――たぶん、慣れる。


 前の席の男子の名前を、走はまだ知らない。明日、聞いてみようかと思った。思っただけで終わるかもしれない、とも思った。

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