第33話 組織という壁
入団して十日目に、走は初めて自分の対面を完全に抑えた。
中二の左ウイングだった。速い。だが速さの出し方が単純で、加速に入る前の踏み替えが必ず一つ入る。走はその一つを覚えて、二本目からは踏み替えの位置に先に立った。三本目で相手は縦をやめ、四本目で中へ逃げた。
右サイドは、その日、一度も破られなかった。
走の脚では、まだ誰にも追いつけない。だから追いつかなくていい場所に、先に立った。田舎で六年かけて磨いた、走の武器だった。
そして、チームは三点取られた。
「東!」
三失点目のあと、コーチの声が飛んだ。
「ライン! 何回言えば分かる!」
走はその言葉の意味を、正確には分かっていなかった。
分かっている、と思っていた。最終ラインを揃える。前へ押し上げる。知識としては知っている。前の生で、走は何百回もその言葉を聞いた。オフサイドラインの管理、コンパクトネス、ブロックの高さ。用語なら全部言える。
言えるのと、揃えられるのは、まったく別のことだった。
走の眼は、対面の一人を視ている。相手の重心が右に傾いた。踵に体重が乗った。次の一歩でこう来る。だから走はここに立つ。
その一人を視ているあいだ、走は残りの十人を見ていない。
中央で財前が二歩前へ出た。ラインが上がる。だが走はまだ自分の対面と噛み合っていて、その二歩を追わなかった。走一人が残った。相手のフォワードは、走が作った二歩ぶんの土地の上で、堂々とオフサイドを免れていた。
球が入る。折り返される。三点目だった。
走は、自分の足元を見た。正しい場所に立っていた。対面に対しては、一ミリも間違っていない。その正しい場所が、三点目の穴だった。
首の後ろが、熱くなった。
自分の対面を完璧に抑えた日に、自分のせいで三点取られている。この二つが同じ日に来るということを、走は今日まで知らなかった。
「なあ」
その日の練習が終わってから、財前が言った。着替えの途中で、こちらを見もせずに。
「お前、上がれよ」
「……はい」
「返事はいいんだよな、お前」財前はタオルを首にかけた。「四本目も六本目も同じだった。俺が出て、お前が残る。あれ、全部おれのせいになるんだけど」
走は何も言えなかった。
言い訳をするなら、いくらでもあった。ラインを上げれば対面は縦に走る。走の脚では追えない。だから残った。個人としては正しい判断だ。
だがそれは、走が守っているのが自分の対面だけだと言っているのと同じだった。
「うちのラインは、おれが決める」財前は言った。「お前がどう思うかは知らん。おれが出たら、出ろ」
「……分かった」
返した声が、自分で思ったより小さかった。財前はそれを聞いたのか聞いていないのか、先に更衣室を出ていった。
その夜、走はノートを開いて、久しぶりに手が止まった。
書くことがない、のではない。書き方が分からなかった。
走がこれまで書いてきたものは、全部、一つの身体についての帳簿だった。誰の腱がどう張っていて、どこに何回の負荷がかかって、どのくらい眠れば戻るか。リクの脚。アカネの膝。ケンジの背中。自分の身体。
どれも、一人ぶんの話だ。
空き地には、ラインが無かった。
四対四に最終ラインは存在しない。誰かが出たら誰かが下がる、という取り決めもない。走が「今日は陸を走らせるな」と決めれば、それがそのままチームの方針になった。走の設計は、六人ぶんの身体を一つずつ積み上げれば、そのまま形になった。
声なら、出していた。今日は一点でいい。陸、全部お前が走れ。走の声は、あの空き地では、そのままチームの形だった。
今日、走は一度も声を出していない。
出さなかったのではない。出す種類が、違ったのだ。十一人の中で要る声は、指示ではない。財前が二歩出た、だから俺も出る。その一言は、自分の判断を周りに合わせるための声だ。走はそれを、六年間、一度も必要としたことがなかった。八人しかいないピッチでは、全員が全員の位置を見ている。六歳のころから同じ空き地で蹴ってきた相手に、合わせる声はいらなかった。
十一人は、そうではない。
十一人には、身体の合計とは別に、形がある。誰かが二歩前へ出た瞬間に、残りの十人の立つべき場所が全部変わる。その変化は、身体を測っても出てこない。
(――視えていない)
走は自分の掌を見た。
六十八年、この眼は人の身体を視てきた。骨の並びも、腱の張りも、血の巡りも。だがその眼は、一人の中を視る眼だ。人と人のあいだにある距離を、走は一度も測ったことがない。
医者は、患者を一人ずつ診る。十一人を同時に診る職業ではなかった。
走がこの二週間、田舎から持ってきた武器は、ここでは半分しか届かない。対面の一人には勝てるようになった。勝ったところで、失点は止まらない。
翌日から、走は練習中に首を振る回数をさらに増やした。
対面を視る。中央を見る。逆サイドを見る。三つを回すと、対面の一歩を読む精度が落ちた。落ちた瞬間に抜かれた。
対面に集中し直すと、今度はまたラインから遅れた。
どちらかしか、できない。
走は自分の処理の限界を、正確に測った。人間の注意は、同時に置ける場所の数が決まっている。この身体は、まだ二つを同時に持てない。訓練で増やせる部分と、増やせない部分がある。
増やせない部分は、誰かに預けるしかない。
誰に、というのが分からなかった。この二週間、走に何かを預けようとした人間は一人もいない。
部屋に戻って、走は江口に聞いてみた。
「ラインを上げるとき、何を見てますか」
「はあ?」江口はベッドで漫画を読んでいた。「なにそれ」
「上がる合図です。誰かが声をかけるわけでもないのに、みんな一緒に出ますよね」
江口はしばらく考えて、それから漫画に目を戻した。
「考えてないな、たぶん」
「考えていない」
「うん。まわりが出るから出る。出てなかったら出ない。それだけ」江口はページをめくった。「東くん、真面目すぎない?」
「真面目にやらないと、分からないんです」
「分かんなくてもできるって。たぶん」
「その、たぶんが分からない」
江口は漫画から顔を上げて、走の顔をまじまじと見て、それから吹き出した。
「東くん、おもしろいな」
何が面白いのか、走には分からなかった。分からなかったが、江口のその笑い方は、嫌ではなかった。走は自分の机に戻って、椅子に座った。
考えていない、と言われた。
六年やってきた子供たちは、この形の中で育っている。誰も考えていないのではなく、考える前に身体が知っているのだ。走が用語で理解しているものを、この子たちは十歳のころから足で覚えてきた。
走が持っているのは、六十八年ぶんの知識と、田舎の空き地の六年だった。
その六年のあいだ、走は一度も、十一人の中に立ったことがない。
(……順番が、逆だったのか)
走は身体を設計してきた。設計できないものは時間だけだと思っていた。
だがもう一つあった。積んだ年月そのものが形になっているものは、知識では飛び越えられない。江口が考えずにやっていることを、走はこれから、考えてやるしかない。
考えてやる分だけ、いつも半拍遅れる。
それでも、知りたかった。教えてもらえるなら、誰にでも聞く。走はノートに「ライン」と書いて、その下を空けておいた。
その週の終わり、走は自主練を早めに切り上げて、グラウンドの端を歩いた。
隣のピッチに、人だかりがあった。
二つ上の学年、中三が、そこで紅白戦をしていた。走のいるピッチとは、球の飛ぶ音が違う。踏み込む音が、重い。
その中に、一人いた。
右のサイドバックだった。走と同じポジションだ。だが、同じものだとは、とても思えなかった。
攻め上がる。誰も追いつかない。戻る。誰も抜けない。派手なことは何一つしていない。ただそこにいるだけで、右サイドが一枚まるごと閉じている。
黒木 岳。
右サイドバック。三年。
走の眼が、勝手に測った。
(――身長、一七五は超えてる。体重、六十五。……まだ、伸びる)
走の設計は、身体を作れる。だが、時間は作れない。あの背中と走の間には二年ぶんの身体があって、その二年は走がどれだけ正しく食べても、どれだけ正しく眠っても埋められない。金では買えない。設計図にも描けない。ただ、待つしかない。
そしてもう一つ、走は気づいてしまった。
岳は、ラインの中にいた。
中央の一枚が二歩出れば、岳も出ている。誰の合図も見ていない。振り返りもしない。それでも遅れない。走が三日かけてできなかったことを、あの人は考えもせずにやっていた。
走はしばらく、その光景の前に立っていた。
そして、岳は走を一度も見なかった。
財前は走を「何様だ」と睨んだ。睨むのは、相手だと認めているからだ。だが岳は、睨みもしない。走という人間がそこに立っていることに、気づいてすらいない。
眼中に無い、という言葉の重さを、走は芝の外で受け取った。
(……名前で呼ばれる場所、か)
呼ばれた名前は、まだ一つだ。レオの、アズマ。あの背中は、それすら知らない。
呼ばれるためには、あの背中に、まず気づかせなければいけない。抜くことではなく、気づかせること。
それが、走の中一の、最初の仕事になった。




