第32話 上というもの
朝食は六時半だった。
走は五時に目が覚めた。高山にいたころと同じ時間だ。窓の外はまだ暗く、部屋の三人は死んだように眠っている。走はベッドの上で身体を起こし、膝から下を順に動かして、昨日の移動がどこに残っているかを確かめた。
右のふくらはぎに張りがある。三時間の車と、慣れない寝床のぶんだ。三日で抜ける。
六時半、食堂で走は米を二杯食べた。江口はパンをかじりながら、まだ半分寝ていた。財前は先に食べ終えて、もういなかった。
七時半、グラウンドに出た。
その朝の練習で、走は「上」というものを初めて見た。
パス回しの速さが違った。
田舎で走が一番速いと思っていた球足が、ここでは一番遅い。ボールが来て、考えて、出す。その「考えて」の分だけ、走の足元でボールが一拍、余計に留まる。
周りは、その一拍を待ってくれない。
「おいセレクション、寝てんのか!」
誰かが笑った。悪意ではない。ただ、事実だった。
走は謝らずに、次の一本を待った。前の生で、走はこういう場面を何百回も外から見ている。新しい環境に入った人間が最初にやる失敗は、遅れを取り戻そうとして急ぐことだ。急げば、判断がさらに雑になる。
だから走は急がなかった。かわりに、受ける前に首を振る回数を増やした。ボールが来てから考えるのではなく、来る前に決めておく。
三本目で、一拍のうち半拍が消えた。
五本目で、走の名前を呼んで出す子が一人だけ出た。名前ではなかった。おい、と言われただけだ。それでも、走のところへ球が来る前提で誰かが動いたのは、この朝が初めてだった。
残りの半拍は、どうにもならなかった。
技術ではない。足の速さでもない。判断してから身体が動き出すまでの時間が、周りより単純に長い。中一の神経と、中二の神経の差だ。
(……ここも、時間か)
走はそれを、静かに帳簿へ書き込んだ。
昼の紅白戦形式で、走は右のサイドバックに入った。
対面は中二の男子だった。走より十センチ以上大きい。仕掛けてくる。走の眼は、その仕掛けを読み切っていた。
右に行くと見せて、左。重心の傾きも、軸足の置きどころも、蹴り足が地面を離れるより先に見えている。
見えていて、抜かれた。
身体が、間に合わない。読みは正しいのに、一歩目が届かない。
走の背は一四八センチ、対面は一六〇を超えている。同じ一歩でも、地面を押す力が違う。走が正しい位置へ入るころには、その位置はもう正しくなくなっている。
芝に膝をついた走の上を、歓声が通り過ぎていった。
セレクションの一日目と、同じだった。あのときも、走は読みを外していない。外していないのに、抜かれた。
「ナイスガッツ! でも遅ぇ!」
手を差し出してきた男子がいた。走を引っ張り起こす。日に焼けた肌に明るい茶色の髪。走より頭半分、大きい。
「神埼 レオ。おれ、FW。えーと、きみ、名前」
「……東です」
「アズマ。オッケー、覚えた。アズマ、きみ、変わってんね」
「変わってる、とは」
「抜かれる前、きみ、笑ってた。抜かれるって分かってる顔してた。ふつう、あの距離で笑わないっしょ。意味わからんけど、面白いわ」
レオはそう言って、自分のことのように、けらけら笑った。
この寮に来て、走の顔を見て面白いと言った奴は、こいつが初めてだった。
「笑ってましたか」
「笑ってた笑ってた。おれ見てたもん」
走は自分の頬を一度触った。自覚はなかった。だが心当たりはある。抜かれると分かっている一歩を、正確に読み切れた瞬間だけは、走の中で何かが噛み合う。負けているのに、道具が正しく動いた手応えがある。
それだけではなかった。
あの重心の傾きを、あの速さで見せてくる相手が、田舎にはいなかった。読んで、読み切って、それでも届かない。悔しい。膝をついたときは、はっきり悔しかった。だがその悔しさの下で、もっと単純なものが動いていた。もう一本、来い。次は半歩、先に出る。
たぶんそれが、顔に出た。
「……面白かったので」
走は言った。言ってから、自分でも意外だった。
「抜かれて面白いって、やっぱ変わってるわ」
レオはまた笑って、走の背中を一度叩いて、自分の位置へ走っていった。叩かれた場所が、少しのあいだ温かかった。
午後、走はもう一度、右サイドで一対一に立った。
今度は抜かれなかった。
抜かせなかったのではない。相手が無駄に急いだからだ。
走は右の足元にわざと隙間を見せて、相手がそこへ突っ込むのを待った。相手は餌に食いついて急停止し、切り返して、そのぶん息を使った。二本目も、三本目も同じにした。四本目で、相手の踏み込みが浅くなった。
田舎で、リクを守るために覚えたやり方だった。
抜かれない代わりに、相手を少しずつ使わせる。
上でも、通った。走はそれを、四本目の相手の浅い踏み込みで、確かに受け取った。
「今の、なに」
財前だった。すぐ後ろで見ていたらしい。
走は答える言葉を、一度、飲みかけた。
ここで黙るのが正しい。今日来た田舎者は、口をつぐんでいるのが正しい。昨夜、あの部屋で思い知って、自分でそう決めたばかりだ。
昨夜は、口が勝手に動いた。
今日は、違う。
分かっていて、言った。
「あの人、後半、右足が上がらなくなります。今の切り返しを、あと十回やらせれば」
しん、とした。
財前が、初めて走を、値踏みではない眼で見た。
「……何様だよ、お前」
低い声だった。
「一日目のセレクションが。うちのメンバーの、脚の心配してんの?」
走は、それ以上、何も言わなかった。
言えば言うほど、遠ざかる。
(――そうか)
言葉は同じだ。中身も同じだ。あの空き地で走が「今日は走るな」と言えば、陸は走らなかった。走が膝の話をすれば、ケンジは直した。走はそれを、自分の知識の力だと思っていた。
半分は、そうだ。だが残りの半分は、六年ぶんの信用だった。最初の一年、リクは走を、自分を壊した大人と同じ眼だと思って警戒した。アカネは片脚立ちを一秒で断った。走の言葉が効くまでには、いつも時間がかかっていた。
ここには、まだ二日ぶんしかない。
武器は同じだ。乗せる信用が、まだない。
練習が終わって、走は一人でグラウンドの端に残った。
水を飲みながら、今日のことを頭の中で帳簿につける。パス回しで遅れた半拍。読めていたのに届かなかった一歩。財前に言ってしまった一言。
最後の一つだけが、赤字だった。
黒字も、一つある。四本目の浅い踏み込み。田舎で覚えたものが、上でも一度、通った。それは、消さずに書いた。
この街のどこかに、リクがいる。
青嵐の紋章を胸につけて。あいつは、田舎の異物として入っていったんじゃない。才能は、扉の前で唇を読まれたりしない。招かれて、正面から入る。
物置でリクが最後に置いていった問いが、まだ走の中に残っている。
それって、俺が速いのか、お前が速くしたのか。
走はあのとき答えられなかった。今も、答えを持っていない。
(……上で、決着をつけよう、か)
約束はした。だが決着をつける土俵に、走はまだ立ってすらいない。
ふと顔を上げると、グラウンドの反対側で、まだ何人かが残っていた。
自主練だ。ボールを蹴る音が、暗くなりかけた空気の中に規則的に響いている。もう二時間以上動いたあとで、まだ走っている子がいる。誰も止めない。むしろ、残っている人数が多いほど良いことになっているらしかった。
走はそれを、少しのあいだ見ていた。
前の生で、走はこの光景の続きを知っている。積んだ量がそのまま伸びに変わる子と、量に潰れる子がいて、その差は本人の根性とはほとんど関係がない。潰れた子は決まって、自分の努力が足りなかったのだと言う。
(……ここでも同じか)
走は立ち上がった。今日はもう動かない。明日の朝、身体がどうなっているかを確かめるほうが、いま一本多く蹴るより大事だった。
その判断が、この場所では、たぶんいちばん理解されない。
明日も同じことをやる。半拍を詰めて、一歩を測って、そして黙る。
黙るのがいちばん難しい。今日それが分かった。
分かったうえで、走は明日の対面のことを考えていた。今日抜かれた一歩を、明日はどこで半歩詰めるか。それを考えているあいだだけは、黙っているのが、少しも苦にならなかった。




