第31話 名前で呼ばれる場所
扉の内側は、外より少しだけ暖かかった。
事務室の窓口に、眼鏡をかけた女の人が座っていた。走が名乗る前に、手元の紙へ目を落とす。
「東走くん、ね。高山から。二〇三号室」
鍵を渡された。
名前を呼ばれた。この街に着いて、最初に走の名前を口にしたのは、紙に書いてある字を読み上げただけの、事務の人だった。
(……二百十四番は、終わったんじゃなかったのか)
さっき、扉の前でそう思ったばかりだった。あの受付番号はもう終わって、ここから先は名前で呼ばれる場所だと。
玄関で笑った二人の口は、そう言っていなかった。セレクション。田舎の。ここでは、まだ番号ですらないらしい。
走は鍵を握って、階段を上がった。
車を降りたときから、匂いが違っていた。
三月の終わりの名古屋には、雪解けの水の匂いがしない。かわりに乾いたアスファルトと、遠くの排気と、人がたくさんいる場所の匂いがした。高山では、山の上にまだ雪が残っている。三時間走った父の車は、もういない。
部屋は二〇三号室で、四人部屋だった。
先に三人が入っていた。荷物はもう片付いて、ベッドの位置も机の並びも決まっている。走の分の机だけが、廊下側の、窓から一番遠い場所に一つ空いていた。
誰かが押しつけたのではない。ただ、残っていたのがそこだった。
「東です。高山から来ました。よろしくお願いします」
走が頭を下げると、返事は半分くらいしか返ってこなかった。
窓際のベッドに腰かけた男子が、走を上から下まで見た。値踏みする、というのはこういう眼だ。走はこの眼を知っている。前の生で、若い医者が運び込まれた患者の骨を、手術できるかどうかだけで測るときの眼。
「財前 悠だ」
名乗ったが、よろしく、とは言わなかった。
「セレクション、今年二人だろ。もう一人は?」
「……知りません。まだ会ってないので」
「ふうん」
財前はそれきり興味をなくして、スマホに目を戻した。
その隣のベッドから、もう一人が身を乗り出した。丸い目をした、落ち着きのない男子だった。
「江口。よろしくー」江口はあっさりそう言って、それから走のバッグを指さした。「それ全部? 少なくない?」
「これで足ります」
「まじで。おれ段ボール四つ来たわ」
「……四つも、何を」
聞き返す声が、自分でも思ったより普通に出た。
「漫画と、漫画と、あと漫画。あと母ちゃんが勝手に入れた米」
「米」
「炊飯器ねえのに」
走は少しだけ笑った。江口も笑った。それだけのことだった。だが、この街に来て初めて、走の口から出た言葉が、誰かの笑いになって返ってきた。
もう一人は窓際の下段で、イヤホンをしたまま軽く手を上げただけだった。走はバッグを、空いた机の下に押し込んだ。
夕食は六時に食堂で出た。
長机が四列並んで、上級生から順に埋まっていく。走は端の席についた。トレーの上には白飯と鶏肉、汁物、小鉢が二つ。量は多い。田舎の家より、はっきり多かった。
走は箸を持つ前に、それを一度見た。
悪くない献立だった。たんぱく質の量も、この年代なら足りている。ただ、鉄が薄い。汁物と小鉢の組み合わせだと、赤い肉も貝も出てこない日が続くことになる。伸び盛りの身体は、血を作る材料を静かに食い潰す。半年後に響く種類の薄さだった。
(……献立表、後で見せてもらおう)
思ってから、走は箸を止めた。
誰に。
ここには走の話を聞く義務のある大人はいない。栄養士は献立を組む仕事をしていて、中一の一人が何か言いに来るのを待ってはいない。田舎では走が台所に立てば済んだ。母は文句も言わずに、走の言うとおりの飯を出した。
ここで走にできるのは、出されたものの中から、自分の皿だけを選ぶことだけだ。
走は汁物を先に飲んだ。それから小鉢のほうへ箸を伸ばした。
「東くん、それ食うの?」
向かいに江口が座っていた。トレーの上で、小鉢が一つ丸ごと残っている。
「食べます」
「えらいわー。おれ無理。においが無理」江口は白飯を口いっぱいに詰めながら言った。「おれ肉と米だけでいけるタイプだから」
走は江口の顔を見た。
まだ何も起きていない。血色は普通だ。だが「肉と米だけ」で三年やる身体が、どこで先に音を上げるかは、走にはもう見えていた。
走は何も言わずに、江口の残した小鉢を見て、それから自分の箸を動かした。
白飯は、うまかった。米が違う。田舎の米より、たぶん高い。走はそれを、少し悔しい気持ちで二杯食べた。
消灯まで、まだ時間があった。
走は自分の机に座り、渡された寮の栞を開いた。起床。朝食。練習。消灯。時間が全部決まっている。飯は食堂で出る。走が選べるのは、出されたものの中から何をどれだけ食うかだけになる。
内部昇格が十三人。スカウトが五人。セレクションが二人。
走は募集要項に刷られたその内訳を、一字一句覚えている。二十人のうち十三人は、小学生のときから同じ紋章を胸につけて育ってきた。財前たちは六年前からの続きをやっている。
走だけが、今日から始める。
背後で、江口が誰かと電話をしていた。中学の友達らしい。げらげら笑って、練習きついらしいよ、と言っている。財前は机に向かって、参考書を開いていた。走はそれを、意外な気持ちで見た。
この部屋の三人は、走にとって初めて見る種類の子供だった。田舎で走が育てた五人とは違う。誰も走を必要としていないし、誰も走に何かを教わろうとしていない。
みんな、もう自分の順番の中にいる。
消灯の前、走は三人の身体を眺めてしまった。
眺めるつもりはない。眼が勝手に測る。
財前は腿の裏の筋が良い。走るより止まる方が得意な身体だ。センターバックか、中盤の底。江口は膝が内に入る癖があって、このまま量を積めば、中学のうちに一度は膝をやる。窓際の下段は、いま伸びている最中だ。夜のうちに背が動いている。
「……腿の裏、いいですね」
言ってから、走は自分の口を疑った。言うつもりはなかった。測った結果が、そのまま喉から出ていた。
「は?」
財前が参考書から顔を上げた。
「走るより、止まるほうが得意な身体だと思います。センターバックか、中盤の底のほうが──」
そこで、部屋の空気が変わった。
「……何言ってんの、お前」
低い声だった。
「今日来たセレクションが、六年やってるおれのポジションの話?」
「……すみません」
「べつに。いいけど」
財前は参考書に目を戻した。それきり、こちらを見なかった。
江口が、気まずそうに笑って何か言いかけて、やめた。
走は自分の膝の上で、手を握った。
田舎では、言えた。
ケンジにもタケルにも、走は当たり前にそれを言った。膝を守れと言えば、あいつらは直した。陸は半年、走の言うとおりに片脚で立った。だがそれは、走の言葉が最初から効いたからではない。六年かけて、言えば聞いてもらえるだけのものを、あの空き地に積んでいたからだ。
ここには、まだ一日ぶんしかない。今日来た田舎の子が、六年やってきた相手の身体の話をしたら、それはただの身の程知らずだ。
(……黙ってろ)
走は毛布を引き上げた。
天井が近い。家では、天井まで手が届かなかった。
電気が消えて、しばらくしてから、バッグの底でスマホが一度だけ震えた。
高山からだった。母の、短い一行。
――ちゃんと食べてる?
走はなぜか、その六文字の前で、しばらく動けなかった。
今日はまだ、夕食を一度食べただけだ。玄関で言われた言葉と、同じ言葉だった。あのとき背骨を通った冷たいものは、暗い中では来なかった。かわりに、もっと単純なものが来た。
寂しい、というやつだった。
六十八年生きた男が、家を出た初日の夜に、母親の一行で動けなくなっている。走はそれを、少しおかしいと思った。おかしいと思っても、指は動かなかった。
しばらくして、走は返信を打った。
――食べてる。
打ってから、もう一行足した。
――多い。高山より。
返事はすぐに来た。
――じゃあ全部食べなさい。残さないの。
走は暗い中で、画面の光を手で覆ったまま、その一行を何度か読んだ。それから、画面を伏せた。
この街には、走の身体のことを気にする人間が一人もいない。だが三時間向こうには、走が何を食ったかを気にする人間が、まだいる。
空き地の音がしない。
この時間、高山では、誰も何も蹴っていない。それでも走は、耳のどこかで、物置の壁にボールの当たる乾いた音を探していた。
明日、朝の七時半にグラウンドへ出る。今日、玄関で見た子供たちが、全員走より大きい。財前の腿は、走のものより厚い。パス回しの速さは、たぶん空き地の比ではない。
抜かれるだろう。遅れるだろう。
それでも走は、あの速さの中に、明日、入ってみたかった。
寂しさと、それは、同じ布団の中に一緒にあった。
走は目を閉じた。




