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第30話 それぞれの春

 卒業式の日、水野先生が泣いた。


 二十人もいない六年生の教室で、先生は一人ずつ名前を呼んで、卒業証書を渡しながら、途中から声が震えていた。


「東走くん」


 走は立ち上がって、証書を受け取った。


「……走くんは、ほんとに、変わった子だったねえ」


 先生は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、そう言った。


「一年生の時から、なんだか、大人みたいな顔してて。先生、ずっと気になってたのよ。……でも、聞かなかった」


 走の手が、証書の上で止まった。


「聞かなくてよかったのかなって、今でも思うんだけど」水野先生は洟をすすった。「あなた、聞かれたくなさそうだったから」


 走は、頭を下げた。


 この町の大人は、みんなそうだった。田口の爺さんも、古田のおばちゃんも、父も、母も。走の異様さを、誰も詮索しなかった。「変わった子だねえ」で、六年間、流し続けた。


 もし前世の街で生まれ変わっていたら、走はとっくに、どこかへ連れていかれていただろう。


   *


 式のあと、校門のところで、タケルに会った。


 もう、走が見上げないと目が合わない。


「バスケ、どうだ」


「めっちゃ楽しい」タケルは即答した。「あとさ、俺、めちゃくちゃ下手なの。びっくりするくらい下手。うける」


 走は、少し笑った。


 この男は、下手であることを、こんなにも軽く言える。六年間、走の隣にいて、走の設計を浴びて、そして一つも背負わずに出ていった。


「なあ、走」


「なんだ」


「テレビ出ろよ」


「……は?」


「お前ら、ぜってー出るじゃん。走もリクも」タケルはあっさり言った。「そしたら俺、自慢すっから。あいつ俺の友達だって。中学のバスケ部で言いふらす」


「……気が早いだろ」


「言っとくけど、俺、バスケで先にプロなるかもしんねーぞ」


「無理だ」


「うっわ、こいつ!」


   *


 三月二十八日。


 父の車に、荷物を積んだ。


 着替えと、スパイクと、教科書と、それだけだった。走の六年間は、思ったより軽かった。


「忘れ物ねえか」


「ない」


「ほんとか」


「ない」


 母が、玄関で待っていた。


 何度も何度も同じことを確認して、最後に、走の肩を一度だけ叩いた。


「……ちゃんと食べなさいよ」


 走の背骨に、一瞬、冷たいものが走った。


 ――ちゃんと食べなさい。


 どこかで、聞いた。


 医学の教科書ではない。学会でもない。もっと近い場所で、もっとうるさい声で、もっとどうでもいい顔で、誰かがそれを、毎日言っていた気がする。


(――誰だ)


 思い出せなかった。


 その違和感は、来た時と同じように、すっと消えていった。


   *


 車が出る直前、空き地のほうから、自転車が走ってきた。


 アカネだった。


 息を切らして、ブレーキも掛けずに突っ込んできて、あやうく父の車にぶつかりかけた。


「うわっ、危ねえ!」父が慌てた。


「間に合った!」


 アカネは自転車を投げ捨てて、走の前に立った。


「ぎりぎり!」


「……何しに来たんだ」


「見送り。悪い?」


 アカネは腰に手を当てて、肩で息をしていた。


   *


「ねえ」


「なんだ」


「あんた、あっちで一番になってきなよ」


 アカネは、まっすぐ走を見ていた。


「三百人抜いたんでしょ。じゃあ、あと二十人抜くだけじゃん。楽勝でしょ」


「……そう簡単じゃない」


「知ってるよ。言ってみただけ」


 アカネは笑った。それから、少しだけ、目を逸らした。


「……あのさ」


「ああ」


「冬に、変なこと言ったじゃん。あたしのほうが上手かったのに、とか」


 走は、答えなかった。


「あれ、本気だから」


 アカネの声は、静かだった。


「取り消さないから。あたし、あんたが受かって嬉しいけど、悔しいのも本当だから。両方本当なの。そういうの、あるでしょ」


「……ある」


「でしょ」


 アカネは笑った。


   *


「あたしさ」


 アカネは、山のほうを見た。


 雪が消えて、山肌に、少しだけ緑が混じり始めていた。


「二年後に、あんたに会ったら、たぶん、まだ勝ってると思うんだよね」


「……」


「四年後も、たぶん勝ってる」


 走の胸の奥が、軋んだ。


 この女は、まだ何も知らない。だが、その語尾には、もう「たぶん」がついている。


「でもさ。もし、もしもだよ」


 アカネの声が、少しだけ小さくなった。


「もし、あたしが負けたとしても」


 走は、息を止めた。


「あたしは、ピッチを降りないから」


 ――風が、吹いた。


「なにそれ」走は、かろうじて言った。「負ける前提かよ」


「うっさい! 例えばの話!」アカネは真っ赤になって走の背中を叩いた。「もう! 忘れて! 今の忘れて!」


「無理だ」


「なんでだよ!!」


   *


 車が動き出した。


 バックミラーの中で、アカネが手を振っていた。振って、振って、道の角を曲がるまで、ずっと振っていた。


 走は、最後まで振り返らなかった。


 振り返ったら、たぶん、視てしまうからだ。


   *


 高山から名古屋まで、片道三時間。


 父は、ずっとラジオをかけていた。ナイターでもニュースでもない、どうでもいい歌謡曲だ。走が何も話さなくても、父は何も聞かなかった。山を降りて、トンネルを抜けて、川沿いを走って、だんだん建物が増えていった。


 やがて、高いビルが見えた。


 愛知だった。父と母が、走が生まれる前に、二人でひたすら働いていた場所だ。そして走が、これから六年ぶりに戦う場所だった。


「――走」


「なんだ」


「しんどかったら、帰ってこいよ」


 走は、窓の外を見たまま、少し黙った。


 六十八年、誰にも言われなかった言葉だった。


 あの日、まだ走れると叫んだ十四歳を、誰も呼び戻さなかった。しんどかったら帰ってこいとも、まだやれるとも、言われなかった。ただ「これでよかったんだ」という顔をした大人が、静かに安心していただけだ。


 帰る場所があるというのは、こういうことだったのか。


「……ああ」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


「なんだよ、気持ちわりぃな」


 父は笑って、それきり何も聞かなかった。


   *


 寮の前で、車を降りた。


 三階建ての、そっけない建物だった。玄関には、真新しいスパイクの袋を抱えた子供が、何人も出入りしている。全員、走より背が高かった。


 その中の一人が、走を見て、隣の子に何か言った。


 二人が、笑った。


 走には、その口の動きが読めた。


 ――誰、あれ。


 ――セレクションのやつじゃね。田舎の。


 走は、荷物を持ち上げた。


 ここには、走の設計を知る者はいない。走の六年間を見ていた者もいない。空き地も、田口の爺さんも、五人の幼馴染も、ここにはいない。


 二百十四番は、もう終わった。


 ここから先は、名前で呼ばれる場所だ。


   *


 父の車が、走り去っていった。


 走は、しばらくそこに立っていた。


 高山では、いま頃、アカネが弱小の男子部へ行く準備をしている。桐生は名古屋のどこかで、青嵐のユニフォームを受け取っている。タケルは体育館で、下手なシュートを打っている。ケンジは背を伸ばし、ハルは、たぶん何もしていない。


 六人が、不揃いに散った。


 二度目の人生で初めて、走は一人になった。


 だが、前世の一人とは違う。


 前世の走は、道が閉じた場所で一人だった。走はいま、道が開いた場所で一人になっている。


 六十八年ぶんの知識と、六年ぶんの設計と、治した脚と、まだ言えない秘密を持って。


(――ここからだ)


 走は、寮の扉を押した。


 その向こうに、絶対的な先輩SBと、盤面を視る司令塔と、走を下げる大人が待っていることを、この時の走は、まだ知らない

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