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第29話 最後の4対4

三月の半ばに、雪が消えた。


 一晩でというわけではない。ある日ふと気づくと、空き地の真ん中に、去年の秋のままの土が出ていた。杭が顔を出し、田口の爺さんの物置の扉が、また外から見えるようになった。


 半年ぶりに、この町にピッチが戻ってきた。


   *


 桐生の話が決まったのは、大会の四日後だった。


 名古屋のクラブから、田口の爺さんのところへ電話が来た。青嵐SC。走が受けた尾張とは、別のJクラブの下部組織。練習会に来い、という話が、その場で入団の話になるまで、一週間もかからなかった。


 走の想定より、十日早かった。


「なあ走、聞いた!? 俺、青嵐だって!」


 桐生は、空き地じゅうを走り回っていた。


「聞いた」


「マジで、あの青嵐だぞ! 前のチームの奴らが、絶対行けねえって言ってたとこだぞ!」


「知ってる」


「なんでお前、そんな冷めてんの!?」


 冷めては、いなかった。


「――よかったな」


 言ってから、それだけでは足りない気がして、走は立ち上がった。桐生の前まで歩いて、その肩を、一度、強く叩いた。


「おめでとう。……本当に、よかった」


「お、おう」桐生は、拍子抜けした顔になった。「お前が言うと、なんか怖えな」


「うるさい」


 桐生が笑って、また空き地を走り出した。走はその背中を見ていた。


 あの日、体育館の二階に立っていた男のことを、走はまだ、誰にも言っていない。この男が今、自分の脚だけで勝ち取ったと信じている顔をしているなら、それでいい。それが正しい。


 ――そうだ。それでいい。


 走はそう思うことにした。


 一つだけ、口に出さなかったことがある。尾張の練習着を着たこの男を、走は一度だけ、頭の中に置いてみたことがある。走が出して、この男が受ける。あの線が、同じ色の袖で。


 置いてみて、すぐに消した。


   *


「じゃあ、あたしたち、全員バラバラじゃん」


 アカネが、杭に腰かけて言った。


 走は、名古屋の尾張へ。寮に入る。


 桐生は、名古屋の青嵐へ。祖父母の家を出て、名古屋へ戻る。


 タケルは、地元の中学でバスケットボール部へ。


 ケンジは、地元の中学の男子サッカー部へ。


 ハルは、地元の中学で――「なんもしねえ」とのことだった。


 そしてアカネは、ケンジと同じ、地元の男子サッカー部へ。


「うちの中学の男子サッカー部、去年、地区で一回戦負けだって」ケンジが申し訳なさそうに言った。「……ほんとに来んの、アカネちゃん」


「行くよ」


「女子いねーよ?」


「知ってる」


 アカネは足をぶらぶらさせていた。


「あたしがいるじゃん」


   *


「――なあ」


 桐生が、ボールを足の裏で転がしながら言った。


「最後に、やんない?」


 誰も、聞き返さなかった。


 全員が、それが何のことか分かっていた。


   *


 五人で、四対四をやることはできない。


 だから最後の試合は、いつも通り、無茶苦茶なルールになった。走とアカネと桐生とハルの四人。相手は、ケンジ一人。ゴールは物置の扉。ケンジが取ったら十点。走たちが取っても一点。


「不公平すぎるだろ!」


「お前、中学から男子部だろ。修行しろ」


「鬼かよ!」


 ハルが腹を抱えて笑っていた。


   *


 特別なことは、何も起きなかった。


 ただ、走がボールを持つと、桐生が走った。走が顔を上げる前に、桐生はもう、走が出したい場所へ向かっている。走が何も言わなくても、桐生には分かる。桐生が何も言わなくても、走には視える。


 半年の物置が、この一本の縦の線を作った。


 そしてその線の先で、アカネが決める。


 六年間、この空き地でずっとそうだったように。理屈でも設計でもなく、いちばん危ないところに、この女の身体が勝手に立っている。


 ケンジが十回、抜かれた。


 ハルが五回、転んだ。


 誰も点差なんて数えていなかった。


 走も、数えていなかった。数えなかった自分に、走は、しばらく気づかなかった。


   *


 畦道に、軽トラが停まっていた。


 田口の爺さんが、運転席の窓を開けて、そこに座っていた。降りてもこないし、声もかけない。ただ、腕を組んで、五人を見ていた。


 この爺さんは、六年前、走に最初のボールをくれた男だ。空き地の草を刈って、杭を打って、物置の鍵を渡して、そして一度も、上手いとも下手とも言わなかった。


 三十分ほどして、軽トラは、エンジンをかけて帰っていった。


 最後まで、何も言わなかった。


   *


 日が傾いて、山の向こうが赤くなった。


 五人は、いつのまにか空き地に寝転がっていた。


 土が、まだ冷たい。


「――なあ、走」


 桐生が、空を見たまま言った。


「青嵐と尾張って、当たる?」


「当たる」


「ほんとに?」


「同じ地域の下部組織だ。リーグでも、カップでも、当たる」走は言った。「年に、何回も」


「……マジか」


 桐生が、体を起こした。


 その顔から、笑いが消えていた。


「なあ。俺さ」


「なんだ」


「お前と、やってみてえ」


 走は、空を見たまま動かなかった。


「今日みたいに、味方でじゃなくてさ。……お前が向こうにいて、俺がこっちにいて。それで、真正面から、お前を抜きてえ」


 風が、空き地を渡っていった。


「お前の設計、めちゃくちゃ強えじゃん」桐生の声は、笑っていた。「今日だってさ、俺、お前の思った通りに走ってただろ。気持ちよかった。……でも」


 言葉が、そこで止まった。


 桐生自身、その先を、まだうまく言葉にできないようだった。


 走には、視えていた。


 この男が今、喉の奥で何を掴み損ねているのか。半年前、ストーブの前で「それって、俺が速いのか、お前が速くしたのか」と言って、笑って引っ込めたもの。あれが、まだこの男の中に沈んだままになっている。


 いつか、あれは出てくる。


「――いいぞ」


 走は、体を起こした。


「上で、決着をつけよう」


 桐生の顔が、輝いた。


「言ったな!?」


「言った」


「絶対だぞ! 逃げんなよ!」


 桐生が拳を突き出してきた。


 走はそれに、自分の拳を合わせた。


 この手で治した脚だ。この頭で設計した身体だ。それが今、走を倒すために、名古屋へ行く。


 自分たちが救って育てた夢が、いつか、自分に牙を剥く。


 その約束を、走はいま、自分の口で、交わした。


   *


「あーあ。あんたら、いいよねー」


 アカネが、寝転がったまま言った。


「上で決着とか。かっこいいこと言っちゃってさ」


「アカネ」


「なに」


 走は、言葉を探した。


 見つからなかった。


 この女が今どこに立っているか、走には正確に視えている。この町に残る。弱いチームに入る。そして二年で、身体に裏切られる。走の眼も、あの男の二十年の観測も、それが答えだと言っている。


 「頑張れ」は、嘘になる。


 「大丈夫だ」は、もっと嘘になる。


「……なんも言えねーの?」


 アカネが笑った。


「ほんっと、あんた、そういうとこだよ」


   *


 日が落ちて、五人は、それぞれの家へ帰っていった。


 走は最後まで、空き地に残った。


 六年前、この場所に、走は一人で立っていた。移住してきたばかりの、友達のいない六歳だった。前世の記憶と、六十八年分の後悔と、誰にも言えない秘密だけを抱えて。


 いま、この空き地には、五人ぶんの足跡がついている。


 明日には、それも風で消える。

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