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第28話 行け

 後半、二分。


 桝田が、初めて、走の餌に食いついた。


 走がわざと見せた縦のコース。抜けそうに見える。あと一歩で届く。桝田は加速して、急停止して、切り返して――そこに、もう球は無い。


 三分後、同じことをした。


 五分後、また同じことをした。


 その頃には、桝田の一歩目が、あきらかに遅れ始めていた。


(――計算通りだ)


 走はフロアの上で、静かに数えていた。


 この床は硬い。跳ね返りが強い。走った距離では削れない。止まった回数で削れる。桝田はこの十分で、二十回以上、無駄に止まって、無駄に切り返した。


 そして、この一日で六試合目だ。


   *


 六分過ぎ。


 風間空のところに、球が来なくなった。


 ソラは相変わらず、掴めない場所に立っていた。誰も彼を捕まえられない。走にも読めない。それは何も変わっていない。


 ただ、そこに球が届かなくなった。


 運ぶ人間の脚が、止まったからだ。


「――桝田ァ! こっち!」


 ソラが、初めて声を出した。


 桝田は、走ろうとして、走れなかった。


 その顔に浮かんでいたのは、悔しさでも、申し訳なさでもない。


 純粋な、混乱だった。


(なんで――俺だけ、こんなに苦しいんだ)


   *


 そして、六分半に、走の半年が壊れた。


 風間空が、自陣まで下がってきた。


 走の脳が、一瞬、意味を取り損ねた。この男が守備に戻る理由は無い。削られてもいない。走の設計は、この男を「前線で球を待つ人間」として組んである。


 ソラは、球を待たなかった。


 ハルの足元へ、ふらりと歩いてきて、なんの気負いもなく、そこから球を持ち去った。ハルは取られたことにすら気づかず、まだ前を向いていた。


 そこから先は、誰も触れなかった。


 ソラが一人で運び、一人で三枚を剥がし、一人で決めた。走が半年かけて削り上げた三人の脚は、その光景に、まるで関係が無かった。


 〇対二。


   *


 走は、フロアの真ん中で、立ち尽くしていた。


(――前提が、違った)


 走は、この男を「点を取る人間」として設計した。だから供給を断てば止まると考えた。


 違う。


 この男は、点を取りたいわけじゃない。


 球が来ないという状況が、この男には、ただ退屈だっただけだ。だから自分で取りに来た。それだけのことだった。


 走の半年は、この男の"退屈"を、一秒も計算に入れていなかった。


(――俺は、こいつを、一度も理解してない)


 残り、三分半。


 走の頭の中で、半年ぶんの設計図が、順番に白くなっていった。次の手が、出てこない。


   *


「――あたしが行く」


 声が、真横から来た。


 アカネだった。走の指示を待ってもいなかった。


「無理だ」走は反射で言った。「あいつは読めない。俺が半年やって読めてない。お前じゃ――」


「読まないもん」


 アカネは、それだけ言って、走の前から消えた。


   *


 次の一本を、風間空が持った。


 走の眼が、全開になった。読める材料は、相変わらず一つも無い。癖がない。型がない。この男の身体には、次の一歩を予告するものが、何一つ置かれていない。


 ソラが、動いた。


 アカネは、反応しなかった。


 反応する前に、そこにいた。


 走の眼が、その一瞬を、まともに視てしまった。アカネは予測していない。読んでもいない。ソラの重心が沈むのと、アカネの身体がそこへ入るのが、同時だった。順番が、無い。


 風間空の足が、初めて、止まった。


(――なんだ、これは)


 走は、その光景を説明する言葉を持っていなかった。


 六十八年、走はこれを「才能」と呼んできた。測って、分類して、限界を出して、諦めさせてきた。だがいま目の前で起きていることは、走の知っている引き出しの、どこにも入らない。


 ソラは笑って、一秒後には、アカネを抜いていた。


 止められては、いない。


 だが、誰も稼げなかった一秒が、そこにあった。


   *


 その一秒で、走が戻った。


 戻れた場所から、走は初めて、この試合で自分の足で球を奪った。顔を上げる。前に、赤い髪が走っている。


 走が出す。アカネが受ける。


 アカネが、点を取った。


 誰の設計でもない。走の指示でもない。相手の重心が一つ沈んだ瞬間に、この女の身体が、理屈より速く動いただけだ。いつも通りに。


 一対二。


「――っしゃあ!!」


 アカネが吠えた。この日、初めての、本気の顔だった。


 走は、その背中を見ていた。


 半年、走はこの決勝のために設計を組んだ。その設計は、六分半で死んだ。いま点差を一つ縮めたのは、走が一度も設計しなかったものだ。


(――負けてる)


 設計に、ではない。


 あの女の身体に、走の六十八年が、正面から負けている。


   *


 残り、二分。


 一対二。まだ、負けている。


 走の眼が、視てしまった。


 桐生の左脚。着地。膝の抜け。半年前、あの夏、準決勝で走を凍らせたのと、まったく同じ場所。


 走の身体が、勝手に反応した。


 ――止めろ。


 声が、喉まで来た。


「陸」


 桐生が振り返った。


 その顔を見て、走は、あの日を思い出した。夏の日。歓声。笑顔のまま振り返った男。そして走が言った、たった三文字。


 走の眼が、視ている。


 視て、そして――今日は、違う答えを吐いた。


 膝は抜けていない。着地は正しい。周りの筋が、脚を守っている。半年、この物置で三十秒立ち続けた身体が、いま、正しくこの男を支えている。


 この脚は、あと二分、走れる。


 走が、六ヶ月かけて、そう作ったからだ。


「――いけるか」


 桐生の目が、大きく見開かれた。


 三月一日の朝、この男は畑の端で泣いた。半年、毎晩、自分の脚がまだ自分のものかどうかを確かめに行っていた男だ。あの朝、走が視たのは、脚だけだった。


 いま、この男の顔に、恐怖は一つも無い。


「……いける」


「行け」


   *


 その二分間のことを、走は一生忘れないだろうと思った。


 桐生陸が、コートの端から端まで、誰にも止められずに走った。


 削られていない脚だった。作り直された脚だった。半年、雪の物置で、片脚で立ち続けた男の脚だった。相手の三人は、もうどこにもいなかった。走が全部、削り切っていた。


 残り四十秒。


 走が、右サイドを駆け上がった。


 床が、硬い。硬いぶんだけ、蹴った力が、そのまま返ってくる。今日は、その硬さが走の側にいた。


 六試合ぶん削り切った右サイドに、追ってくる脚は、もう一本も残っていなかった。走の脚だけが、残っていた。


 ――右サイドホットライン。


 走が出す。桐生が受ける。半年ぶりの、この二人の縦の関係。あの夏、途中で切れた線が、いま繋がっていた。


 桐生が、球を持った。


 目の前に、風間空が戻ってきていた。


 あの飄々とした男が、この試合で初めて、自陣まで走って戻っていた。


 二人が、正面から向き合った。


   *


 桐生は、フェイントをしなかった。


 真正面から、抜きにいった。


 半年前の桐生には、できないことだった。壊された脚を庇っていた男には、正面から人を抜くという選択肢が、そもそも無かった。


 風間空が、届かなかった。


 ――ゴール。


 二対二。


   *


 残り、二十秒。


 最後の一本を運んだのは、また、アカネだった。


 二枚を引きつけて、三枚目が寄ってきた瞬間に、アカネは前を見なかった。見ないまま、後ろへ落とした。


 そこに、桐生がいた。


 誰も、そう決めていない。走の設計にも、そんな線は無い。ただ、この六年間、この女が引きつけて空けた場所には、いつも誰かが飛び込んできた。だから今日も、落とした。


 桐生が、蹴った。


 三対二。


   *


 ホイッスルが鳴った。


 体育館が、割れた。


 桐生は倒れなかった。膝にも手をつかなかった。ただ立って、天井を見上げて、大きく息をしていた。


 最後まで、走り切った。


「――走!!」


 桐生が振り返った。


「走ってやったぞ!! 最後まで!! 一回も、下がってねえ!!」


 体育館の天井に、その声が跳ね返った。


 三月一日の朝、この男は「痛くねえ」とだけ言って、あとは鼻をすすっていた。叫びもしなかった。半年待って、やっと痛みが消えた朝に、この男はそれだけしか言わなかった。


 あの朝しまわれたものが、いま、全部出てきていた。


 走は、拳を上げていた。上げてから、自分の手だと気づいた。


「――見てた!」


 声が出た。天井まで届く声ではなかった。それでも、桐生には届いた。桐生が、歯を見せて笑った。


 走の目の奥が、勝手に熱くなった。


 アカネが後ろから飛びついてきて、走とケンジとハルがまとめて床に倒れた。床の硬さが、背中に来た。硬い。痛い。それが、可笑しかった。走は、床の上で笑っていた。


 あの夏、走はこの男を止めた。今日は、止めなかった。止めなくていいように、作った。


 ――これが、答えだ。


 走の背骨に、初めて、はっきりとした形が入った気がした。「途中で終わらせない」というのは、止めることじゃない。止めなくていい身体を、先に作ることだ。


   *


「あー。負けたわ」


 コートの向こうで、ソラが伸びをしていた。


 汗一つかいていないような顔だった。


「風間!」


 桐生が叫んだ。


「聞け! 俺は今日、最後まで走った! お前に、勝った!」


 ソラは、桐生を見た。


 それから、きょとんとした顔で言った。


「うん。楽しかった」


 桐生の言葉が、止まった。


「今日のやつ、面白かったよ。途中から、なんか球来なくなったし。あれ、そっちの子がやったんでしょ」


 ソラの目が、走を見た。


 初めて、まっすぐに。


「ねー。あれ、何やったの?」


 走は、答えなかった。


 ソラは、しばらく走を見ていた。


 それから、初めて、ほんの少しだけ首を傾げた。


「……ふーん」


 その一音だけを残して、背を向けた。


「じゃーね」


   *


 行ってしまった。


 悔しがりもせず、負けを引きずりもせず、桐生の宣戦布告を、そもそも受け取りもせずに。


 桐生が、拳を握ったまま立ち尽くしていた。


 勝った。今度こそ、最後まで走った。それでも、この男には何一つ届いていない。


(――解けてない)


 走は、それを痛いほど分かっていた。


 半年かけて、走がこの男について得た答えは、たった一行だった。


 ――こいつには、欲がない。


 だから読めない。だから止まらない。


(俺は、あいつを一度も止めてない)


   *


 二階のキャットウォークを、走は見上げた。


 派手なジャージの男が、まだ立っていた。


 男の目は、もう風間空を追っていなかった。


 桐生陸を、見ていた。


 走の胸の底が、ひやりとした。


(――また、同じことが起きた)


 あの男が今日ここに来た名目は、風間空だ。それは間違いない。そして今、その視線は、勝手に別のものを拾っている。あの春、ジャンパーの男が、桐生を追いながら走を拾ったのと、まったく同じ形で。


 才能は、才能を呼ぶ。


 走が三百人を抜いてこじ開けた門を、この男は、たぶん、一日で開けてしまう。


 桐生は、気づいていない。


 二階を見上げもせずに、床に転がって、アカネとハルとケンジに揉みくちゃにされて、笑っている。


 走はそれを見て、二階から視線を外した。


 ――言わない。


 この男が、見られていると知った瞬間、このプレーは「見せるためのもの」に戻ってしまう。それだけは、二度とさせない。


 体育館の外に出ると、雪が降っていた。

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