第27話 燃料
三月十四日。飛騨市民体育館。
外はまだ雪だった。だが体育館の中は、蒸していた。
子供の靴底がフロアを噛む音。ホイッスル。保護者の声。冬のあいだ、雪に閉じ込められていた飛騨中の子供が、この日一日だけ、この一つの箱に押し込められる。四対四。十分ハーフ。一日で、決勝まで六試合。
走たちは、五人で来た。
走。桐生。アカネ。ケンジ。ハル。
タケルは来なかった。今日、隣町でバスケの体験入部があると言っていた。誰も、それを責めなかった。
「五人しかいねーのかよ、お前ら」
受付の大人が呆れた顔をした。周りのチームは、どこも八人か九人はいる。交代要員を潤沢に抱えて、一日をやり過ごすつもりの顔をしている。
「足ります」
走はそう答えた。
*
組み合わせ表の一番下を、走は朝からずっと見ていた。
――風間空。
所属は名古屋のクラブになっている。この地区の大会に、わざわざ来ている。理由は聞くまでもない。桝田という、去年もソラの隣で走り回っていた苦労人が、当日の朝、体育館の入口で頭を抱えていたからだ。
「なんで来たんだよ、お前」
「んー? 雪、見たかったから」
その会話が、走の耳にも届いた。
(――相変わらずか)
*
組み合わせ表を折りたたんで、走はしばらく、壁にもたれていた。
この設計が、どういう一日になるかは、分かっている。
誰も怪我はしない。誰も削られない。ただ、四つのチームの子供が、順番に、後半の途中で脚が上がらなくなる。
そして、その子たちは、自分の身体のせいにする。
(――俺は、それを憎んでたんじゃないのか)
*
やらなければ、負ける。
五人で、八人のチームに、一日で六試合。まともにやったら、三試合目で終わる。陸の半年も、そこで終わる。
やれば、勝てる。
*
走は、壁から背中を離した。
(――やる)
迷ったのは、そこまでだった。
父の声が、頭の隅に引っかかっている。決めるのはお前だぞ。あとで父さんのせいにすんなよ。
今日この一日を設計するのは、東走だ。
陸のせいにも、アカネのせいにも、しない。
(それだけは、間違えない)
*
朝、五人を集めて、走は言った。
「今日は、六試合ある」
「知ってるよ」アカネが言った。
「うちは五人。向こうはどこも八人以上いる。普通にやったら、三試合目で全員動けなくなる」
「じゃあどうすんの」
「四試合目まで、全部一点差で勝つ」
全員が、走を見た。
「――は?」ケンジが言った。
「点を取りにいかない。取られない。一点だけ取って、あとは全部、時間を使う」走はフロアを指した。「ここ、床が硬い。跳ね返りが強いぶん、脚に来るのが早い。走った距離じゃなく、止まった回数で削られる。……向こうは、それを知らない」
「知らないと、どうなんの」
「勝ち上がるほど、向こうが勝手に減る」
アカネが、にやりと笑った。
「性格わっる」
「褒めてない」
「褒めてるよ」
*
一試合目。二対一。
二試合目。一対〇。
三試合目。二対一。
どの試合も、見ている大人には退屈だった。走たちは点を取りにいかない。アカネが前でボールを持っても、すぐには行かない。相手が食いついてきたら下げる。下げて、また持つ。
その代わり、相手は走らされていた。
誰も抜かれていない。誰も削られていない。ただ、右に振られ、左に振られ、行けそうな球を追いかけては、直前で消される。急に加速して、急に止まる。それを十分ハーフのあいだ、延々と。
三試合目が終わった時、相手チームの子供たちは、コートの端で全員、床に座り込んでいた。
走たちは、五人とも立っていた。
「……なあ、走」ケンジが不思議そうに言った。「なんで俺、そんなに疲れてねーの?」
「無駄に止まってないからだ」
「なにそれ」
「そういうふうに組んだ」
ケンジはしばらく走を見て、それから自分の脚を見下ろした。
「……えっ。じゃあ俺、あと三つ行ける?」
「行ける」
「まじか」
ケンジは笑って、その場で二回、跳ねた。アカネが「うるさい」と言って小突いた。走も笑った。
組んだものが、そのまま五人の脚になっている。今日、いちばん面白いのはそこだった。
走は自分の脚も確かめた。三試合ぶんの硬い床は、走の脚にも同じだけ来ているはずだった。来ていなかった。
「じゃあ、次も一点?」ハルが訊いた。
「次も一点だ」
「よっしゃ」
なぜか嬉しそうだった。アカネが「あんたが言うな」と笑って、ハルの頭を叩いた。
*
四試合目のあと、走は初めて、体育館の二階を見上げた。
キャットウォークの手すりに、腕を組んで立っている男がいた。
各務ではない。
もっと若い。派手なジャージを着て、ガムを噛んでいる。だが眼は同じだった。得点にも歓声にもまるで反応せず、一人の子供だけを、ずっと目で追っている。
男が追っているのは、風間空だった。
(――青嵐か)
走は、フロアへ視線を戻した。
*
五試合目。準決勝。
相手は、この日いちばん声の大きいチームだった。朝、走たちの一試合目を横目に見て、「あそこ楽勝じゃん」と笑っていた連中だ。
前半が終わる頃には、その声が消えていた。
誰も抜かれていない。誰も削られていない。ただ、右へ行かされ、左へ戻され、届きそうな球を追いかけては、直前で消される。それを、五時間ぶんの疲れの上に積まれる。
後半の半ば、相手の一人が、ボールを追わなくなった。
追わなかったのではない。追えなかったのだ。本人は、たぶんそれを、自分の気持ちの問題だと思っている。三分後、その子はベンチに向かって「すいません」と謝っていた。
一対〇。
「……なあ、走」ハルがコートを出ながら言った。「俺、なんか悪いことしてる気分になってきた」
「勝ってるだろ」
「勝ってるけどさァ」
「……次、決勝だぞ」
「それは嬉しい」ハルは、けろっと言った。
走は、コートを振り返らなかった。
振り返れば、さっき「すいません」と言った子が、まだそこに座っている。
朝、壁にもたれて決めたことだ。
走はそれを、二度は考えないことにした。
*
決勝は、夕方だった。
窓の外はもう暗い。体育館の照明が、フロアを白く焼いている。一日で六試合目。全チームの子供が、どこかしら壊れかけている時間帯だ。
だが、コートの向こう側に立っている男だけは、涼しい顔をしていた。
ソラは、走を見なかった。
正確には、見た。見て、そのまま素通りした。コートの隅に積んであるコーンや、剥がれかけたラインテープを見るのと、まったく同じ目だった。
(――覚えて、ないのか)
走の胸の底が、妙に冷えた。
あの夏、走は六十八年ぶんの知識を全部使って、この男を止めにいった。網を張って、供給の線を塞いで、味方の身体を置いて、そして一つも通用しなかった。走にとってあれは、生まれ変わってから最大の敗北だ。半年、この男の顔を、桐生の脚と同じ回数だけ思い出してきた。
その半年は、この男の中に、一行も残っていない。
「あ」
ソラの目が、止まった。
桐生の上で。
「……あー。あの、途中で下がった子」
桐生の顔から、表情が消えた。
「風間」
「ん?」
「今日は、下がらねえよ」
「そう?」ソラは首を傾げた。「べつに、どっちでもいいけど」
桐生の拳が、握られた。
*
試合が始まって、四十秒で、走の設計は破られた。
ソラが最初のボールを持った瞬間、走の眼が全開になった。重心。軸足。視線。踏み替えの回数。この半年、走が桐生の身体で何百回も読んできたものを、そのまま、この男に向ける。
――右。
走は右を切った。
ソラは、右に行かなかった。左にも行かなかった。
ソラは、走の前で、ただ立ち止まった。
「え」
走の脳が、一瞬、白くなった。
止まる。その選択肢が、走の読みの中に無かった。抜こうとしていない。仕掛けようとしていない。この男は、走が「切った」ことに気づいて、それを面白がって、そこで遊んでいた。
そして走が対応した半拍を、ソラの身体は、なんの前触れもなく、真横へ滑った。
――失点。
開始一分。〇対一。
*
走は、動けなかった。
診断の眼が、まだソラの残像を追っている。追って、何も掴めていない。
癖がない。型がない。定石がない。この男の動きには、次の一手を予測させる材料が、何一つ置かれていない。読むという行為が、そもそも成立しない。
(――なんだ、こいつは)
あの夏、準決勝で覚えた違和感が、今、正面から牙を剥いていた。走はあの日、桐生の脚に気を取られて、この違和感を最後まで解かないまま終わった。
半年、この男の顔を、桐生と同じくらい思い出していた。
そして今、答えは一つも出ていない。
「走!」
アカネの声が飛んだ。
「なにボーッとしてんの! 一点だよ、たかが!」
走は顔を上げた。
アカネはもう前を向いていた。この女は、こういう時に一度も下を向かない。
*
前半、〇対一のまま終わった。
走は、読むのをやめた。
*
あの夏も、走は同じところまで来ていた。
準決勝の後半、走はソラ本人を読むのを諦めて、ソラへ渡る供給の線を読んだ。誰が、いつ、どの角度で預けるか。線を先に断てば、いくら異次元でも足元に球は来ない。理屈は、正しかった。走は味方の身体を一枚、その線の上に置いた。
そして風間空は、味方がまだ蹴ってもいないうちに、こぼれる一点へ、ふらりと歩き出した。
塞いだ線の、外側から。
まるで、そこに球が来ると知っていたかのように。
走の設計は、あの日、そこで死んだ。半年、走はその死体を抱えて生きてきた。
(――線は、塞げない)
この男の周りに、線という概念が無いからだ。予測できる場所へ球を出させない、という発想が成立しない。予測できる場所そのものが、この男には存在しない。
だから、走は半年かけて、問いのほうを変えた。
(――線が塞げないなら、球を蹴る脚を、消せばいい)
*
ハーフタイム、走は四人を集めた。
「――設計変更だ」
「え、変えんの?」ケンジが目を丸くした。
「風間だけ、放っておく」
「はァ!?」
「読めない相手を読もうとした時間は、全部こっちの損だ」走は言った。「だから、あいつ以外の三人を、全部削る」
アカネが、ぱちりと瞬きした。
「……あー。そういうこと?」
「風間は、一人じゃゴールできない。誰かが球を運んで、誰かが出す」走はフロアの向こうを見た。桝田が、膝に手をついて、肩で息をしていた。「そいつらは、読める」
「で、あいつら潰したら」
「風間のところに、球が来なくなる」
「線は、塞げないんだ」走は言った。「あいつは、線の外から来る。……でも、線の外に立ってたって、飛んでくる球が無ければ、何も起きない」
アカネが、にやりと笑った。
「あんた、それ、半年考えてたでしょ」
「……悪いか」
「べつに」アカネは肩をすくめた。「そういうとこ、嫌いじゃないよ」
桐生が、笑った。
「うっわ。えっぐ」
「後半、十分だ」走は桐生を見た。「陸。全部お前が走れ」
桐生の目が、燃え上がった。
「――待ってた」




