第26話 痛みなく走れた日
三月一日。
その前の夜、走は一睡もできなかった。
半年ぶんの計算を、布団の中で、頭から順にもう一度やり直した。骨端線の閉じ方。周りの筋の反応。荷重の戻し方。どこかに一つでも読み違いがあれば、明日の朝、桐生の脚はもう一度、同じ場所から壊れる。
前世の走は、何百人もの人間に「もう大丈夫です」と言ってきた。言うたびに、この夜が来た。六十八年やっても、この夜だけは慣れなかった。
窓の外で、雪が屋根から落ちる音がした。
朝、物置の前で、桐生が待っていた。
雪はまだ深い。だが道の脇に、黒い土が少しだけ顔を出している。
「……今日だろ」
桐生の顔が、強張っていた。半年前、「半年だ」と言われた時より、はるかに緊張していた。
「ああ」
「マジで?」
「マジだ」
「……マジか」
桐生はその場で、意味もなく手をこすり合わせた。
*
走は最後にもう一度、桐生の左脚を、膝から下へ指でたどった。
半年前、押した瞬間に周りの筋が悲鳴をあげて固まった、あの場所。
今、そこは静かだった。
押しても、何も返ってこない。身体が、そこを危険地帯だと思っていない。
「――終わりだ」
走は立ち上がって、指の土を払った。
「走っていい。全力でだ」
桐生は、動かなかった。
「……ほんとに?」
「ほんとだ」
「痛くねえの?」
「痛くない」
「……ほんとに?」
「陸」走は言った。「行け」
*
桐生が、走り出した。
雪をどけただけの、でこぼこの道を。物置の前から、田口の畑の端まで、五十メートルもない直線を。
半年ぶりだった。
最初の三歩、桐生の身体は明らかに怯えていた。左脚が地面に着く瞬間、身体が勝手に、痛みを待っている。
四歩目で、痛みが来なかった。
五歩目でも、来なかった。
六歩目で、桐生の身体から、力が抜けた。
そこから先の桐生は、走が見たことのない走り方をしていた。
*
走は、その場に立ち尽くしていた。
(――速い)
診断の眼が、勝手に数字を吐いている。
地面を押す角度。膝の抜け方。腕の振り。半年前、この男が使えていなかったものが、全部、繋がっていた。速くなったのではない。元から持っていた才能が、初めて全部、地面に伝わっている。
走が設計した通りだった。
設計した通りに、なった。
だが走は、その瞬間、想像していた達成感を、一つも感じなかった。かわりに来たのは、もっと単純で、もっと厄介なものだった。
――綺麗だ。
雪の残る田舎道を、一人の男が、なんの躊躇もなく走っている。それだけの光景だった。
走は、自分の胸に手を当てた。
おかしい、と思った。
走がやったのは、計算だ。角度と、順序と、時間の管理だ。そこに美しさが混ざる余地なんて、一ミリもない。設計図に感動する設計者がいるか。
なのに、走の目の奥は、熱かった。
この男が今使っている脚のうち、走が作った部分は、たぶん半分もない。残りは全部、桐生陸が生まれた時から持っていたものだ。走はそれを、地面に届くようにしただけだ。
届いた瞬間の才能というのは、こういう顔をしているのか。
*
桐生は畑の端まで行って、止まった。
背中を向けたまま、動かなかった。
走は、待った。
一分近く、桐生はそこに立っていた。肩が、わずかに上下している。五十メートルもない。息が上がるような距離ではない。
走は、雪を踏んで、歩いていった。
*
近づいて、走は足を止めた。
桐生は、泣いていた。
声は出していなかった。顔を歪めてもいない。ただ前を向いたまま、目からだけ、水が落ちていた。本人も気づいていないような顔だった。
「……陸」
「――こわかった」
桐生は、そう言った。
「え」
「こわかったんだよ、ずっと」
桐生は、自分の左脚を見ていた。
「半年、走んなって言われてさ。俺、我慢してるつもりだったんだ。……ちげーんだよ。こわかったんだ。もう一回走ったら、また壊れんじゃねえかって。今度は、二度と戻んねえんじゃねえかって」
白い息が、上がっていく。
「だから、確かめたかったんだよ」
*
夜中に、三回。
走はその三回の意味を、いま、初めて正確に理解した。
あれは焦りではない。確認だ。この男は雪の積もった夜道へ出ていって、自分の脚がまだ自分のものかどうかを、毎回、確かめに行っていた。誰にも言わずに。走にすら言わずに。
半年、走はこの男の脚を診ていた。
脚だけを、診ていた。
「……知ってた」
「え」
「夜、三回。全部、朝わかった」
「……うっわ」
桐生は、袖で顔を乱暴にこすった。
それから、初めて、笑った。
「――痛くねえ」
それだけだった。
叫びもしなかったし、雪の上を転げ回りもしなかった。半年待った男が、その一言だけを言って、あとは、鼻をすすっていた。
「……なあ。俺、速くなってる?」
「速い」
「……そっか」
桐生は、それきり何も聞かなかった。
走は、答えなかった。
感謝は、いちばん飲み込みにくい形の借りだ。走はそれを、前世で何百人も見てきた。
だが、今日ではない。
《診断/桐生 陸・十二歳》
骨の際 ――― 熱、なし。
着地 ――― 左右の音が、揃っている。
庇い ――― 消えた。
所見 ――― 借金は、返し終わった。
今日は、ただ、走れた日だ。
*
桐生が、雪を払って立ち上がった。
「なあ。ボール、蹴っていい?」
「いい」
「マジで!?」
「――ただし」走は言った。「三日後だ」
「なんでだよ!!」
「今の走りで、明日は筋肉痛で歩けなくなる。それは想定内だ。だが慌てて蹴ると、着地の癖が半年前に戻る」
「うっわ、こいつ、まだ言うよ!」
「三日後に、蹴らせてやる」走は言った。「そのかわり、そのあとすぐ、本番だ」
桐生が、動きを止めた。
「……は? 待て。半年走ってねえんだぞ、俺」
「知ってる」
「三ヶ月とか、そういうんじゃねえの? 普通」
「普通ならな」走は言った。「半年走らなかった脚を、いきなり試合で使ったら壊れる。だから普通は、そこから三ヶ月かけて、走れる身体に戻す」
「……じゃあ」
「お前は、その三ヶ月を、先に払った」
桐生が、走を見た。
「この半年、お前が物置でやってたのは、休むことじゃない。戻すための三ヶ月を、先に済ませてたんだ」走は言った。「膝も、足首も、腹も、もう出来上がってる。足りないのは、ボールの感覚と、身体が全力を思い出す時間だけだ。それは、十日でいい」
桐生が、口を開けたまま固まった。
「……お前、それ、半年前から計算してたのかよ」
「九月に言っただろ。半年だと」
「言ったけども!!」
「本番?」
走はポケットから、折り畳んだ紙を出した。
田口の爺さんが、農協の掲示板から剥がしてきたものだ。
――第八回・飛騨地区少年フットサル交流大会。三月十四日。市民体育館。
「雪でグラウンドが使えないから、冬は体育館でやるんだ。四対四。俺たちがずっとやってきたのと、同じ形だ」
「……」
「参加チームの一覧、見ろ」
桐生が紙を受け取って、目を落とした。
その一つを見つけて、桐生の指が、止まった。
走は知っている。この半年、桐生が夜中に雪道へ出ていったのは、焦りのせいだけじゃない。この男の頭には、ずっと一つの顔があった。
あの夏、走が桐生を下ろした準決勝で、最後まで、掴めなかった男の顔が。
「――風間空」
桐生が、その名前を読み上げた。
顔を上げた桐生の目に、走は久しぶりに、あの日の熱を視た。
「走」
「なんだ」
「三日後、めちゃくちゃ蹴らせろ」




