第25話 高木健の身長
二月の頭、タケルが走の家に来た。
玄関に立ったタケルを見上げて、走は少しだけ黙った。
(……また伸びたな)
「なあ走。ちょっといい?」
声も、低くなっていた。
*
走の部屋の壁には、六人ぶんの身長が、鉛筆で書いてある。
二年前、走がふざけて始めたことだ。年に二回、正月と夏に、全員をここに立たせて線を引く。子供たちにはただの遊びだったが、走にとってはデータだった。誰がいつ伸び始めるか。それが何を意味するか。
タケルの線を、走は指でたどった。
「六年の四月に、百四十八」
「うん」
「正月に、百六十一」
「……で、今日、百六十三」
十ヶ月で、十五センチ。
この田舎の、栄養も睡眠もめちゃくちゃだった子供が、走の言う通りに飯を食い、走の言う通りに寝て、走の言う通りに遊んで、そして伸びた。走の設計が、初めて他人の身体で「増えた」形になって出た。
誇っていいはずだった。
「俺さ」タケルは壁の線を見ながら言った。「バスケ、やろうと思って」
*
走は、驚かなかった。
驚けなかった、というほうが正しい。この一年、タケルの視線が、体育の時間の度にどこへ向いていたか、走は知っていた。
「中学、バスケ部入る。……もう決めた」
「そうか」
「あのさ。いつだったか、体育でバスケやったじゃん。十二月くらいの」
「ああ」
「あん時、俺、リングに指が触ったんだよ」
タケルは自分の右手を見ていた。
「ボール入んなかったし、誰も見てなかったし、なんもすごくねーの。ただ、指の先が、かってなっただけ。……でも俺、その日の夜、寝れなかった」
走は、黙っていた。
「六年間サッカーやってて、一回も寝れなかったことなんかねーのに」タケルは笑った。「なんなんだろな、あれ」
「怒んねえの?」
「――その身長は」
走の口が、勝手に動いた。
「その身長は、サッカーでも武器になる。あと五センチ伸びたら、高さで勝負できる。今からセンターバックに回れば、中学の三年でお前は」
言いながら、走は自分の声を聞いていた。
この子は今うまい。地区では通用する。だが世界で戦う身体には届かない。この子はこっちのほうが向いている。この子のためを思って言っている。
(――やめろ)
走は、口を閉じた。
喉の奥が、酸っぱかった。二十分前に壁の線を指でたどった手が、まだ冷たいままだった。走はいま、六十八年間いちばん憎んできた喋り方を、自分の口でやりかけた。
「……いや。なんでもない」
「なにそれ」タケルは、きょとんとしていた。「怒んねえの?」
「なんで怒るんだ」
「いや」タケルは頭を掻いた。「俺、この六年、ずっとお前らと蹴ってきたじゃん。走が変な遊びやらせて、飯食えって言って、寝ろって言って。……そんで身体できて、その身体でバスケ行くとか、めっちゃ都合よくね?」
走は答えなかった。
タケルは笑って、床にあぐらをかいた。
「あのさ。俺、最初にサッカーやったの、他にやることなかったからなんだよ」
「知ってる」
「知ってんのかよ」
「お前、一度も『上手くなりたい』って言ったことないだろ」
タケルは、目を丸くした。それから、心底おかしそうに笑った。
「うわ。お前、そういうとこだぞ」
*
「俺さ、この一年で、はっきりわかったんだ」
タケルは天井を見ていた。
「走は、なんか知らんけど、六歳から一日も休まねえじゃん。リクは、脚壊されても戻ってくるじゃん。アカネは、負けたら泣くほど悔しがるじゃん。……俺、そこまでじゃないんだよ」
「……」
「悔しくねーんだよ、負けても。楽しいけど、悔しくねえの」タケルは自分の手を見た。「……それって、たぶん、ダメなんだろうなって」
「ダメじゃない」
「ダメだろ」タケルはあっさり言った。「お前ら見てりゃ、わかるもん」
走は、何も言えなかった。
言えることが、一つも無かった。この男は自分の身体を、自分の心を、走の眼と同じ精度で測って、そして走より先に、結論を出していた。
誰にも諦めさせられていない。
自分で、降りた。
*
「走、ありがとな」
タケルは立ち上がって、部屋の鴨居に頭をぶつけそうになって、慌ててかがんだ。
「おかげで身体できたし、やりたいことも見つかった。……マジで、感謝してる」
「タケル」
「ん?」
走は、聞きたかった。
俺がお前をサッカーから遠ざけたのか、と。この十五センチを作ったのが俺なら、お前がここを出ていく理由を作ったのも、俺じゃないのか、と。
その眼が、また同じことをしようとしている。人の人生を測って、意味を決めようとしている。前世で、走がいちばん憎んだやり方で。
「……いや。なんでもない」
「なんだよ、気持ちわりぃな」
タケルは笑って、玄関へ向かった。かけて、立ち止まった。
「……あー。あとさ」
「なんだ」
「アカネ、大丈夫かな」
走の指が、止まった。
「あいつ、最近ちょっと変じゃね?」タケルは頭を掻いた。「いや、うまく言えねーんだけど。いつも通りなんだよ。うるせーし、笑うし、殴ってくるし。……なんか、いつも通りすぎねえ?」
走は、答えなかった。
この男は、鈍くない。ただ、優しいだけだ。六年間ずっとそうだった。誰よりも早く空気に気づいて、誰よりも遅く口に出す。
「気のせいならいいんだけどさ」
「……気のせいだ」
「そっか」
タケルは、あっさり信じた。信じたふりをしたのかもしれない。走には、それを見分ける勇気がなかった。靴を履いて、扉を開けて、雪の匂いが部屋に入ってきた。
そこで、一瞬だけ、タケルの背中が止まった。
「……なあ」
「なんだ」
「これで、よかったんかな。俺」
振り返らずに、タケルは言った。
走の胸の奥が、鈍く痛んだ。
「……それは、俺が決めることじゃない」
「だよなあ」
タケルは笑って、そのまま雪の中へ出ていった。
*
扉が閉まってから、走は壁の線を、もう一度見た。
百六十三。
走が引いた線だ。走の知識が伸ばした身体だ。そしてその身体は、これからサッカー以外の場所で使われる。
走はずっと、「途中で終わらせない」を背骨にして生きてきた。前世で終わらされたから。仲間のを終わらせたくないから。
だが、タケルは終わっていない。
降りたのだ。自分の足で、自分の意志で、まだやれるうちに。そこには涙も、恨みも、大人の都合も一つも無かった。ただ、健康な男が一人、自分の頂きを別の場所に見つけただけだ。
(――終わらせないって、なんだ)
走は初めて、自分の背骨に、指を突っ込まれたような気がした。
競技を変えることは、終わりじゃない。




