第24話 正しい順序
十二月の半ばで、空き地は消えた。
雪が降り積もって、杭も、物置も、ゴール代わりの石も、全部が同じ白い塊になった。田舎の冬はそういうものだ。半年、この町からピッチという概念が消える。
その物置の鍵を、田口の爺さんは何も聞かずに走に渡した。
「中、片付けといたで。ストーブもある」
「……いいんですか」
「わしゃ、冬は使わん」
それだけ言って、爺さんは軽トラで帰っていった。走が何をするつもりかも、なぜ桐生が走らないのかも、一度も聞かなかった。
この町の大人は、そういう聞き方をしない。
*
物置の中で、桐生は片脚で立っていた。
「……なあ、走」
「三十秒。まだ十二秒」
「これさ」桐生の額に汗が浮いている。「サッカーじゃなくね?」
「サッカーだ」
「どこがだよ!」
走は答えずに、ストップウォッチを見ていた。田口の爺さんが農協でもらったという、安物のやつだ。
走が桐生に課しているのは、そればかりだった。
片脚立ち。三十秒を三本。股関節を開く。足首を回す。腹の底に力を入れたまま呼吸する。それだけ。一日、四十分。ボールは、触らせない。
「二十八……二十九、三十」
桐生が脚を下ろして、その場にへたり込んだ。
「意味わかんねえ」
「意味なら、この前説明した」
「説明されても意味わかんねえんだよ!」
走は返事のかわりに、ストップウォッチを押し直して、自分も片脚で立った。
十二歳の脚は、十秒で震えはじめた。走はそれを、震えたまま立たせておいた。
桐生が、へたり込んだまま見上げてきた。
「……お前も、やんの?」
「当たり前だ」
「なんで。お前、怪我してねえじゃん」
「怪我してからやるのは、治療だ」走は前を見たまま言った。「怪我する前にやるのが、設計だ」
桐生は、しばらく黙っていた。
それから、舌打ちして、もう一度立ち上がった。
*
走が桐生に渡すメニューは、どれも先に走自身が試したものだった。
片脚で三十秒。目を閉じて重心を探す。ゆっくりの切り返し。全部、自分の身体で確かめてから、桐生に課している。効くかどうか分からないものを、人の脚で試すつもりはなかった。いちばん最初の実験台は、いつも自分だ。前世から、変わらない順番だった。
だから走は、桐生の四十分が終わったあとも、物置に残った。
そこから先は、自分のための時間だった。桐生の脚を戻すメニューとは、別物だ。雪をどけた斜面を、息が上がる手前の速さで、休まず登って下りる。低い衝撃で、心肺だけを回し続ける。地面と強くぶつからないから、伸びかけの継ぎ目にも響かない。
十本目で、太ももが熱くなった。
二十本目で、それが痛みではなく、火だと分かった。
息が上がる手前で止める、と決めているのに、脚のほうが手前で止まらない。登り切った斜面の上で、走は膝に手をつかなかった。つく必要が、無かった。吐いた息だけが白く立って、物置の裏の暗がりへ消えていく。
六年、走はこの脚に、毎日、同じことを言い続けてきた。走れ。今日はここまで。食え。寝ろ。もう一本。最初の三年、脚はほとんど返事をしなかった。頭だけが先へ行って、身体は畳の上に置き去りだった。
いま、返事をしている。
二十一本目。踏み込んだ雪が、脚の裏で締まる。締まったぶんだけ、身体が前へ出る。頭が「次」と言う前に、脚が次を踏んでいる。前の生の走は、設計図を持っていなかった。設計図を手に入れた時には、身体のほうが、もう無かった。その二つが、いま、同じ十二歳の中にある。
誰も見ていない。桐生は、もう帰った。この斜面のことは、走以外の誰も知らない。
二十二本目を、走は登った。
(――尾張には、九十分走れる奴が、いくらでもいる)
走の武器は、まだ一つだ。落ちない身体。三百人の中で、最後の十分に立っていられた脚。眼はコストが高くて、長くは使えない。身体は同学年の中でも、小さいままだ。だから、その一つを、尾張の九十分まで届くところへ積む。六歳から一日も止めずに続けてきた、いちばん地味な土台だった。人に見せる派手さは、どこにもない。
*
走にできることは、多くない。
この物置には、レントゲンも、超音波も、まともなトレーニング器具の一つもない。走が持っているのは、前世の知識と、安物のストップウォッチと、六ヶ月という時間だけだ。
だから走は、あるもので作った。
田口の爺さんの物置には、米の袋と、林檎の木箱と、荒縄が転がっていた。
木箱は、段差になった。桐生をその縁に立たせて、踵を落とさせる。足首がどこまで曲がるか、走はそれを毎日、目盛りのない目で測った。
荒縄は、膝に巻いた。桐生の膝は、疲れると内へ入る。二年前に脚が悲鳴をあげたのも、突き詰めればそれが原因だ。走は縄を膝の外側に回して、内へ入った瞬間に縄が食い込むようにした。桐生は「痛ぇ」と文句を言ったが、三週間で、縄は食い込まなくなった。
米袋は、最後まで使わなかった。重りをかけるには、まだ早い。
「なあ、これ、農家の手伝いじゃねえの?」
「黙って踵を落とせ」
だからやることは、地味以外にありえなかった。
骨が休んでいるあいだに、その周りを組み直す。今まで桐生が使わずに済ませてきた筋を起こす。膝の使い方を、蹴り方を、着地の仕方を、一度全部ばらして並べ直す。壊れた場所を治すのではなく、壊れる必要のない身体を、その上に作る。
派手なことは、一つもない。
半年経っても、外から見える変化は何もない。桐生は速くなっていないし、上手くもなっていない。ボールにすら触っていない。
正しい順序というのは、いつだって、そういう顔をしている。
「なあ」
ある夜、片脚を下ろした桐生が、床に座り込んだまま言った。
「俺、下手になってる気がする」
「うん」
「走れる気も、しねえ」
「うん」
桐生が顔を上げた。
「……お前、九月にそう言ったよな」
走はストップウォッチを押し直した。
「言った」
「良くなった気がしたら言え、って」
「言った」
桐生は、しばらく天井を見ていた。物置の梁に、去年の蜘蛛の巣が残っている。
「……当てんなよ、そういうとこ」
その日から、桐生は片脚立ちの意味を聞かなくなった。
*
走が桐生に、いちばん口を酸っぱくして言ったのは、練習の中身ではなかった。
寝ろ、ということだった。
「今日ここでやったのは、身体をほんの少し壊しただけだ」ある日、走は言った。「本当に強くなるのは、これからだ。お前が寝てるあいだに、壊れたところが、前より丈夫に組み直される。……だから、削るなら練習じゃない。睡眠を削るな」
休むことが強くなることだと言われても、桐生の身体は納得しない。走れないだけでも焦れているのに、その上、寝ていろと言われる。
だが走には、それが順番の話だった。壊して、組み直して、また壊す。組み直す時間を惜しめば、身体はいつまでも壊れたままだ。休むことは、サボりの別名ではない。設計図の、半分だった。
*
一月の頭、アカネが物置に来た。
用があったわけではないらしい。雪で外に出られない子供が、暇に耐えかねて、明かりのついているほうへ寄ってきた。それだけの顔をしていた。
「なにこれ」
「片脚立ち」
「見りゃわかるわ」アカネは戸口に立ったまま呆れていた。「地味すぎでしょ」
「三十秒立つのが、意外ときつい」
「はァ?」
アカネはその場でスニーカーを脱いで、片脚を上げた。
走は、ストップウォッチを押した。
*
四十五秒で、走は止めた。
アカネは、まだ揺れてもいなかった。上げたほうの脚を、退屈そうにぶらぶらさせていた。
「……終わり?」
「終わりだ」
「なにこれ。ほんとにこれ、意味あんの?」
桐生が、床を見ていた。
この男は、三週間かけて、やっと三十秒になった。
「ふーん。まあ、いいけど」
アカネはスニーカーを履いて、あっさり帰っていった。悪気は、一ミリもなかった。この女は、自分がいま何をしたのか、たぶん十秒後には忘れている。
戸が閉まって、物置がまた静かになった。
*
走は、ストップウォッチを見ていた。
四十五秒。揺れなし。呼吸、乱れなし。あの女の身体は、走が半年かけて桐生に作ろうとしているものを、生まれた時から持っている。
そして二年後、それは全部、意味を失う。
「――アカネ」
戸に手をかけていた背中が、振り返った。
「なに」
「それ、毎日やれ。三十秒でいい。朝と夜に」
走の口から、勝手に出ていた。
アカネは、目を丸くした。それから、心底くだらないという顔をした。
「やだ」
「アカネ」
「やだって。地味だもん」アカネはあっさり言った。「あたし、そういうの向いてないから。走ってるほうが楽しいし」
「――」
「じゃーねー」
戸が、閉まった。
*
物置が、また静かになった。
走は、ストップウォッチを握ったまま、そこに立っていた。
陸には、頼まれた。ケンジは勝手に真似した。タケルは面白がってついてきた。走のほうから手を伸ばしたのは、六年間で、今日が初めてだった。
そして、一秒で断られた。
(……そうか)
この女は、走の設計を必要としていない。
いま、この瞬間は。
「……なあ、走」
桐生が、まだ床を見ていた。
「アカネって、なんなんだよ」
「化け物だ」
「だよなァ!!」
桐生が、床にひっくり返って笑った。
笑えるうちは、まだいい。走はそう思うことにした。
*
一月の終わりのある朝、走は物置に入るなり、言った。
「昨日の夜、走ったろ」
桐生の肩が、跳ねた。
「……なんで」
「今朝の、そこに入ってくる時の左の踏み方が変わってる。かばい方が昨日と違う。走ってなきゃ、そうならない」
桐生は下を向いた。しばらく、何も言わなかった。
「……ごめん」
「怒ってない」
「怒れよ」桐生の声が、少しだけ掠れた。「半年待てって言われて、はいって言って、それで隠れて走ってんだぞ、俺。……最低じゃん」
走はストーブの前に座って、手を温めた。
「焦ってるんだろ」
桐生は答えなかった。
答えないのが、答えだった。
*
走には、視えている。
この男が夜中に何を考えて、雪の積もった道に出ていったのか。三月に走れるようになったところで、上のチームの募集はもう終わっている。走は名古屋へ行く。アカネは地元の中学に行く。タケルは背が伸びた。ハルは変わらない。
その中で、桐生一人だけが、まだどこにも行き先がない。
半年、走らないという選択を、この男は選んだ。走が「そうしろ」と言ったからだ。そしてその半年が、この男から秋を持っていった。正しかった。医学的には、一点の曇りもなく、正しかった。
「陸」
「……なんだよ」
「お前は今、走ってないんじゃない」走は言った。「作ってる」
「なにを」
「三月に走り出す脚を」
桐生が顔を上げた。
「一月に夜中に走った脚は、三月には残らない。今夜も走れば、また残らない。だが、今日ここで三十秒立った脚は、三月に残る」走はストップウォッチを桐生に放った。「どっちが速く上に行けるかの話をしてる。我慢の話じゃない」
桐生はストップウォッチを受け取って、それをじっと見ていた。
それから、鼻をすすった。
「……お前さ」
「なんだ」
「ずるいよな。そういう言い方すんの」
*
二月に入って、桐生の身体が、静かに変わり始めた。
外からは、まだ何も見えない。だが走の眼には視えていた。片脚で立った時のぶれが減った。膝が内に入らなくなった。呼吸で腹が動くようになった。三十秒が、当たり前になった。
その日、片脚立ちを三本終えたあと、桐生が唐突に言った。
「なあ、走」
「なんだ」
「俺がこれで速くなったらさ」
桐生はストーブの火を見ていた。
「……それって、俺が速いのか? お前が速くしたのか?」
物置の中で、ストーブが小さく鳴った。
走は、答えられなかった。
口を開いたが、言葉が出てこない。この質問には、たぶん、一生答えが出ない。走が設計した身体で走る男の速さは、誰のものなのか。前世の走が、押しつけられた勉強でここに立っているのと、それは、どこか似ている気がした。
「――なんてな」
桐生は、笑わなかった。
ストーブの火に向き直って、それきり何も言わなかった。撤回もしなかった。走が答えられなかったことに、たぶん、気づいてもいなかった。
走は、その背中を見ていた。
引っ込められなかった質問が、物置の中に、そのまま残っていた。




