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第23話 幕間・アカネ ~証明してやる~

 一月になっても、電話は鳴らなかった。


 二月になっても、鳴らなかった。


 花村の家の電話は、廊下にある。黒くて、やたら重い、母が嫁に来た時から使っているやつだ。あれが鳴ると、家じゅうに響く。


 その冬、あの電話が鳴ったのは、農協と、親戚と、間違い電話だけだった。


(……順番に回ってきてるだけだし)


 アカネは、そう思うことにしていた。


   *


「花村さん。ちょっといい?」


 水野先生に職員室へ呼ばれたのは、二月の頭だった。


 先生は一枚のちらしを、机の上に滑らせた。岐阜市の女子サッカークラブ。中学生の部。写真の中で、ポニーテールの女の子たちが笑っている。


「先生ね、花村さんのこと、ずっと見てたの」水野先生は嬉しそうだった。「あなた、ほんとに上手でしょう。だから、ちゃんとしたところで、続けてほしくて。ここね、県で一番強いんだって」


 アカネは、ちらしを見ていた。


 悪意なんて、一ミリもなかった。この人は本気であたしのために、わざわざ調べて、電話までしてくれたのだ。それが分かるから、余計に、喉の奥が変な感じになった。


「……先生」


「うん?」


「ここ、走とリクいないじゃん」


 水野先生が、きょとんとした。


 アカネはちらしを、そっと机に戻した。


「あたし、あいつらより上手いんですよ。ずっと。ちっちゃい頃から、一回も負けてない」アカネは笑った。「なのに、あいつらだけ上に行って、あたしだけ別のとこ行くって、それ、意味わかんなくないですか」


「でも、花村さん」


「証明したいんです」アカネは言った。「あたしのほうが上手いって。同じ場所で」


 先生は困った顔で、何か言いかけて、やめた。


 その顔を、アカネは知っていた。大人が「この子は分かってない」と思った時の顔だ。


   *


 二月の体育館。


 外は雪なので、放課後の遊びは全部、体育館に押し込まれる。フットサルボール一つで、六年生が適当に一対一をやっていた。


 アカネの相手は、ケンジだった。


 一年生の頃から、アカネはこいつに負けたことがない。十回やったら十回抜ける。ケンジは足が遅くて、体が小さくて、いつも最後にチームを決める時に余る子だった。


 一本目、抜いた。


 二本目、抜いた。


 三本目――止められた。


「……あ」


 ケンジ本人が、いちばん驚いた顔をしていた。


「わ、悪い! 今の、たまたま――」


「もう一本」


 四本目、抜いた。


 五本目、また止められた。


 アカネは、ボールを拾いに行く自分の足が、少しだけ重いのに気づいた。息が上がっている。ケンジは、上がっていない。


(……あれ?)


 顔を上げて、アカネはケンジを見た。


 この冬で、背が伸びていた。声が、低くなっていた。前は肩の高さがアカネと同じだった気がするのに、今は、少し上にある。


「アカネちゃん、もう一本やる?」


 ケンジは、いつもの人のいい顔で笑っていた。


 悪意なんて、一ミリもなかった。


   *


 その夜、アカネは風呂上がりに、脱衣所の鏡の前に立った。


 自分の身体を、初めてじっと見た。


 肩。腕。太もも。ふくらはぎ。この六年、誰よりも走って、誰よりも蹴って、誰よりも点を取ってきた身体だ。走が「アカネは化け物だ」って呆れた顔で言った身体だ。


 アカネには、癖がある。


 人を見ると、勝手に測ってしまう。あいつは足が速い、こいつは体が弱い、あの子は寄せが甘い。順位をつけて、比べて、自分がどこにいるか確かめないと気持ち悪い。走の理屈っぽい眼とは違う、もっと動物みたいな眼だ。


 その眼が、初めて、鏡のほうを向いた。


 ――あたし、いつから伸びてない?


 ――ケンジ、いつから伸びてる?


 ――走、去年の夏より、肩幅、ある。


 ――リクは。タケルは。


 答えが、勝手に出てしまった。


 アカネは、鏡の前に立ったまま動けなかった。誰にも教わっていない。誰にも言われていない。あの背広だかジャンパーだかの大人が来たわけでもない。ただ、自分の眼が、自分の身体を測って、いちばん見たくない数字を出した。


(――あたし、いまが、いちばん強い)


 濡れた髪から、水が一滴、床に落ちた。


「……は?」


 アカネは声に出して言った。


「なにそれ。ふざけんな」


 誰も、いなかった。


   *


 三日後、アカネは空き地へ行った。


 雪はまだ深くて、走が一人で、雪をどけたところで足元にボールを転がしていた。桐生はいない。走に、走るなと言われているからだ。


「――ねえ」


 走が顔を上げた。


「あんた、名古屋いつ行くの」


「三月末だ」


「ふーん」


 アカネは雪の上に立って、そこから動かなかった。


 言うつもりは、なかった。


「……ずるくない?」


 口が、勝手に動いた。


「え」


「あたしのほうが、上手かったのに」


 言ってしまってから、アカネは息を吸った。吸っても、うまく肺に入らなかった。


「一回もあんたに負けたことないよ、あたし。リクにもだよ。ずっと、ずっとあたしが一番だったじゃん。全部あたしが点取ってたじゃん。なのに、なんであんたらだけ呼ばれんの。なんであたしんとこには、誰も来ないの」


 雪が、二人のあいだに降っていた。


 走は、何も言わなかった。


 言い訳をしなかった。慰めもしなかった。「そのうち来るよ」とも「アカネのほうが上手いよ」とも言わなかった。ただ、何かを言おうとして、口を開いて――そして、閉じた。


 その顔を、アカネは見てしまった。


(……なにそれ)


 アカネは知っている。この幼馴染が黙るのは、言葉が見つからない時じゃない。見つかっている言葉を、飲み込んでいる時だ。


(あんた、なんか知ってんの)


(あたしの知らないこと、視えてんの)


 聞けなかった。


 聞いたら、たぶん、終わってしまう気がした。


   *


「……ごめん」


 アカネは、笑った。


 泣きそうな時ほど笑うのは、昔からの癖だ。それを見抜けるやつが、この世に一人だけいることを、アカネはまだ知らない。


「今の、なし。八つ当たり。あたし、性格悪いから」


「アカネ」


「あんたはさ」アカネは走の言葉を遮って、雪を蹴った。「名古屋で確かめてきなよ。どこまで行けるか。……三百人抜いたんでしょ。じゃあ、行けるとこまで行けよ」


 走が、変な顔をした。


 まるで、今の言葉のどこかを、殴られたみたいな顔だった。


「あたしは、ここで確かめるから」


「……何をだ」


「あたしの眼が、間違ってるってこと」


 アカネは走を見た。


 鏡の前で出た答えを、あたしはまだ認めていない。認めてやるつもりもない。あの数字が正しいって言うなら、正しくないって、この身体で証明してやればいいだけの話だ。


「あたし、地元の中学の男子サッカー部入る」


「――男子の?」


「うん。弱いとこ。あそこ、女子でも入れるらしいから」


 走の顔が、また、あの顔になった。何かを飲み込む顔だ。


「女子のクラブ行けって、みんな言うんだよ」アカネは肩をすくめた。「先生も、母さんも。強いとこ紹介するって。……でもさ、そこで勝っても、意味なくない?」


「……」


「あたしが勝ちたいのは、あんたとリクと同じ土俵でだよ」


 雪が、少し止んできた。


 山の向こうが、うっすら明るい。


「二年後に見てなよ」アカネは笑った。今度は、本気の笑い方だった。「ケンジにも、あんたにも、リクにも、まだ一回も負けてないから。これからも負けない。……あたしは、まだ負けてない」


 走は、しばらく黙っていた。


 それから、たった一言だけ言った。


「――途中で、終わらせるなよ」


 アカネは、目を丸くした。


「なにそれ。あんたのそれ、口癖?」


「……気に入ってるんだ」


「変なの」


 アカネは笑って、自転車のスタンドを蹴り上げた。


 帰り道、こぎながら、なぜか涙が出た。


 悔しいからだと思った。


 アカネは、そう思うことにした。

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