第22話 声がかからない
合格の知らせは、走が黙っていても、三日で町じゅうに回った。
田口の爺さんが言いふらしたからだ。農協で、寄り合いで、郵便局で。「東んとこの走ちゃんが、名古屋のプロんとこに受かった」と、爺さんは会う人全員に同じ話をした。少しずつ盛りながら。三百人がいつのまにか四百人になり、十二月の半ばには千人になっていた。
古田のおばちゃんは、走が店に入るなり、レジから出てきて肩を叩いた。
「走ちゃん! あんた、すごいねえ!」
「……どうも」
「なんか持ってきな。おばちゃんのおごり」
走はラムネを一つ、もらった。
この町の大人は、走が何をしたのか、正確には誰も分かっていない。分かっていないまま、全員が喜んでいた。前世の街では、こうはならなかった。あそこでは、誰かが受かるということは、いつも、誰かが落ちるということとセットで語られた。
*
その週から、走に一つ、癖ができた。
花村の家の前を通る時、自転車を降りて、押して歩くようになった。
理由は、自分でもうまく説明できない。遠回りをするほどの度胸はなく、そのまま漕いで通り過ぎるだけの図々しさもなかった。ただ、あの家の前だけ、ペダルを踏む音を立てたくなかった。
あの家の廊下には、電話がある。窓の位置の関係で、外の道からでも見えてしまう。黒くて、やたら重そうな、古いやつだ。
冬の夕方、明かりのついた家の中で、その電話はいつも、静かに黒く座っていた。
走はそれを見ないようにして、通り過ぎた。
*
十二月の初め、あのジャンパーの男が、もう一度高山へ来た。
今度は用事があった。寮の説明と、書類と、親への挨拶。走の家の炬燵に、男は背筋を伸ばして座り、父の淹れた茶を一口だけ飲んだ。
母が「うちの子、そんなに上手いんですか」と聞いた。
「さあ」男は真顔で答えた。「三年後に聞いてください」
父が声を出して笑った。走だけが、笑えなかった。この男は本当に、分からないことを分からないと言う。走が前世で、何百回も自分の口から出した答えだった。
*
男を軽トラまで送りに出た時、雪がちらついていた。
走は、聞くつもりのなかったことを聞いた。
「花村茜は、どうですか」
男の足が止まった。
「春の練習試合で、点を取った子です。この夏の大会でも、あいつが取ってました。……この町で一番強いのは、俺じゃない。あいつです」
男はしばらく黙って、雪の降る方角を見ていた。
「知ってる」
「――」
「あの子は今の年代なら、間違いなく上位だ」男はあっさり言った。「うちの二十人に混ぜても、上から三番目までには入る。俺が見た中でも、上のほうだ」
「じゃあ、なんで」
「今うまい理由が、説明つくからだ」
雪が、男のジャンパーの肩に落ちて、消えた。
「あの子は、育つのが早い。それだけだ」男の声には、何の温度もなかった。「あと二年で、周りの男子が同じものを持つ。持った上で、骨格と出力がもう一段乗る。中二の夏には競り合いになって、中三で置いていかれる。……そういう話だ」
「それは」
「差別じゃない。予想でもない」男は走を見た。「観測だ。俺は二十年、それを外したことがない」
*
「あの子、今、何センチだ」
走は、答えてしまった。
「百五十二です。……先月、測りました」
男は、眉一つ動かさなかった。なぜ十二歳が同級生の身長を先月測っているのか、それも聞かなかった。
「六年男子の平均は」
「百四十五、くらいです」
「二年後、その男子は」
「……百六十五、前後」
「あの子は」
走の口が、止まった。
答えは、とっくに出ている。走の部屋の壁に、鉛筆の線がある。六人ぶん、二年ぶんの記録。あの線の傾きを見れば、計算するまでもない。
「……百五十七か、八です」
「そうだ」
男は、雪の降る方角を見たままだった。
「今、あの子は七センチ上にいる。二年後には、八センチ下にいる」男は言った。「十五センチ、ひっくり返るんだ。サッカーは身長の競技じゃない。だが、身長が示してるものは、身長じゃない」
「……出力です」
「そうだ」
雪の粒が、走の首筋に落ちて、溶けた。
この男は、走に答えを言わせた。訊いて、待って、走自身の口から出させた。そこに意地の悪さは、一つもなかった。ただ、分かっていたのだ。この子供がもう、同じ答えを持っていることを。
*
走は、何も言い返せなかった。
言い返す材料が、走の中に一つも無かったからだ。走の眼も、まったく同じ結論を、とっくの昔に出している。この男が二十年かけて手に入れた観測を、走は六十八年ぶんの知識で、もっと精密に、もっと残酷に持っている。
*
「本人に、言うんですか」
「言わん」
男は即答した。
「なんでですか」
男は、答えなかった。
軽トラのドアに手をかけたまま、しばらく動かなかった。雪が、その肩に落ちて、積もり始めていた。
「……俺は、あの子を獲らない人間だ」
それだけ言って、男はドアを開けた。
走は、その背中を見ていた。
説明されなかったぶん、意味は、勝手に分かってしまった。
獲る人間が同じことを言えば、それは助言になる。「だからこうしろ」を一緒に渡せるからだ。獲らない人間が言ったら、渡せるのは診断だけだ。届かない、という事実を、届かせる手段なしで、置いていくことになる。
それは、前世で走がやられたことと、同じ形をしていた。
*
「――東」
「はい」
「お前、さっきから、自分の話を一つもしてないぞ」
走は、答えられなかった。
「三百人来て、二人しか通らなかった。そのうちの一人が、お前だ」男は運転席に乗り込んだ。「普通のガキは、その話をしたがる。寮はどうだとか、レギュラーは獲れるかとか、そういうやつだ。……お前は、他人の身体の話しかしない」
エンジンがかかった。
「……もし」走は言った。「もし、身体が設計できるとしたら、どうですか」
「なんだそりゃ」
「――いえ」
男は怪訝そうな顔をして、それきり何も聞かずに走り去った。
走は道端に立って、雪の中に消えていくテールランプを見ていた。
初めて口に出した。六年間、誰にも言わずに、自分の身体だけで証明してきたことを、初めて他人に向けて言った。そして誰にも届かなかった。それだけのことだった。
*
家に戻ると、母が炬燵の天板を拭いていた。
各務が飲み残した茶碗が、まだ置いてある。
「あの人、変わった人ねえ」
「……そうか」
「うちの子は上手いですかって聞いたら、さあ、って」母は笑っていた。「あんな人、初めて見た。普通、お世辞くらい言うでしょ」
走は、上着を脱ぎながら黙っていた。
母は茶碗を下げて、台所へ行って、それから、思い出したように振り返った。
「――ねえ。茜ちゃんは?」
走の手が、止まった。
「茜ちゃんも、名古屋行くの?」
「……」
「あの子、走より上手いじゃない」
母は、なんの含みもなく、そう言った。
この人は、サッカーを知らない。フォーメーションも、ポジションも、育成年代の仕組みも、何一つ知らない。二年前、走が守備の説明を三十分かけてした時、最後まで「じゃあ走はいつ点を取るの」と聞いていた人だ。
その人が、走より上手い、と言った。
正しかった。
二十年の観測が雪の中で出した答えと、一字も違わなかった。この人はただ、六年間、洗濯物を干しながら空き地を見ていただけで、そこに辿り着いている。
「……行かない」
「あら。なんで?」
「……声が、かからなかった」
母は、少しのあいだ黙っていた。
それから、「そう」とだけ言って、茶碗を洗い始めた。
水の音がした。
「じゃあ、あの人、見る目ないねえ」
*
走は、台所の入口に立ち尽くした。
各務は、正しい。走の眼も、正しい。二十年の観測と、六十八年の知識が、同じ答えを出している。反論の材料は、この世に一つも無い。
その全部を、この人は、蛇口の音の向こうから、六文字でひっくり返した。
――見る目、ないねえ。
違う。あの男には、見えすぎるほど見えている。見えたから、獲らないと決めたのだ。走はそれを説明できる。説明する言葉を、六十八年ぶん持っている。
持っているから、走には、言えない。
この人は、何も知らないから言えた。
*
走は自分の部屋へ上がって、自分の手を見た。
あの男の眼は正しい。二十年の観測は正しい。そして走の眼も、同じところに立っている。
前世の親は、この眼で、走を測った。この子は今うまい。地区では通用する。だが世界で戦う身体には届かない。――正しかった。腹が立つほど、正しかった。あの人は憎しみでも無関心でもなく、正しく視えてしまったから、走の夢を終わらせた。
そして今、走は同じ眼で、アカネを測っている。
(――俺は、あの人と同じ顔をしてる)
*
その日の夕方、アカネが空き地に来た。
雪はもう本降りになっていて、ボールなんて蹴れる天気じゃなかった。それでもアカネは自転車で来て、マフラーの中から、白い息と一緒に言った。
「受かったんだって?」
「……ああ」
「うっそ、まじで? すご!」
アカネは本気で笑っていた。一切の裏がない笑い方だった。
「三百人でしょ? で、二人?」
「なんで知ってんだ」
「田口のじいちゃんが村じゅうに言いふらしてる」アカネは雪をひとつかみして、走のコートに投げつけた。「もう、うるっさいのなんの。東んとこの走ちゃんが、名古屋のプロんとこ受かったって」
走は、笑おうとした。
うまく笑えたかどうかは、分からない。
「よかったじゃん」アカネは屈託なく言った。「あたしにも、そのうち来るしね」
雪が、走の睫毛に落ちた。
「うちってさ、こんな山ん中じゃん? だから遅いんだよ、たぶん。順番に回ってきてんの。あんたが十一月なら、あたしは一月くらい? 二月?」
アカネは指を折って数えていた。試合中に相手の運動量を数える、あの指だった。
「……そうだな」
走は、そう言った。
視えているものを、一つも言わなかった。
*
その夜、走は自分の部屋で、壁の前に立った。
鉛筆の線が、六本ある。
二年前、走がふざけて始めたことだ。正月と夏に、六人をここに立たせて、頭の上に線を引く。子供たちにはただの遊びだった。ハルは毎年つま先立ちしようとして、アカネに小突かれていた。
いちばん上の線には、「アカネ」と書いてある。
その線が今、何を意味しているのか、走はこの世界の誰よりも正確に知っている。知っているから、消したくなった。
走は消しゴムを手に取って、そして、置いた。
消したところで、数字は消えない。




