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第21話 三百倍

 名古屋のグラウンドには、人工芝が敷かれていた。


 走が生まれ変わってから、初めて踏む人工芝だった。田口の爺さんの空き地の、石と雑草と土のでこぼこと違って、足の裏に返ってくる感触が、どこまでも均一だった。均一すぎて、気持ちが悪いほどだ。


 十月の練習会は、二時間で終わった。


 各務は、その二時間、一度も走を見なかった。


 フェンスの内側に立って、腕を組んで、別の子を見ていた。走が呼ばれた枠は、そういう枠だ。名前を書いた手帳の隅の一行に、二時間ぶんの視線を割く義理は、この男には無い。


 帰り際、各務は走の前を通って、こう言った。


「セレクション、十一月の頭だ。三日ある」


 それだけだった。


   *


 ビブスの番号は、二百十四番。


 葉書に印刷されていた数字が、そのまま胸についた。それが、この日の走のすべてだった。名前も、高山も、六人の空き地も、ここでは誰も知らない。二時間の練習会と、三日間のセレクション。合わせて三百人以上が来て、通るのは、一人か二人。ゼロの年もある。


 前世の走は、この場所を知らなかった。


 県大会レベルのSBだった中学生の自分は、こういう場所があることも、そこへ行く方法があることも、誰にも教わらなかった。気づいた時には、ただ「サッカーの上手い子」のまま、選ばれる輪の外を歩いていた。


(――今度は、知ってる)


 走はスパイクの紐を、いつもより一つ強く締めた。


   *


 最初の三十分で、走は自分の位置を正確に測った。


 速さ――上から数えて、真ん中より少し下。技術――足元だけなら、明らかに下位。身体の大きさ――下から数えたほうが早い。


 周りは、走を一度も見なかった。


 二百十四番の小柄な子供は、目立つことを何一つしなかった。派手なドリブルも、鮮やかなターンも、遠目に映える一本のパスもない。ボールを受けて、二歩で捌く。危ないところに、先に立っている。それだけだ。


 コーチたちの視線が拾うのは、いつも別の子供だった。派手にかわす子、蹴り足の速い子、声の大きい子。彼らはそれでいい。そのために来ているのだから。


(――ここで才能を見せようとする奴は、落ちる)


 走は前世で、選ぶ側の隣に何十年も座っていた。


 この手の場で選ぶ側が視ているのは、二時間で一番輝いた子供ではない。三年後、身体が二回り変わったあとも壊れずに残っている子供だ。だから彼らは、走る量を見る。判断の速さを見る。ボールがない時に何をしているかを見る。そして――疲れてからの、二十分を見る。


   *


 一日目、走は二回、抜かれた。


 どちらも、読みは合っていた。


 相手が右へ切り返す。走はそれを視て、半歩先に足を置いた。理屈の上では、詰んでいる。


 そこで相手は、切り返さなかった。


 切り返そうとして、失敗したのだ。足が滑って、身体が流れて、意図とは逆の方向へ、そのまま転がるように抜けていった。相手自身、何が起きたのか分かっていない顔をしていた。


 二回目も、同じだった。


(――そういうことか)


 走はコートの隅で、自分の膝に手をついた。


 走の眼が読んでいるのは、身体ではない。意図だ。この選手はこうしたい、だからこう動く。その矢印を先回りする。前世で六十八年、走はそれで飯を食ってきた。


 だが、十二歳の身体は、意図の通りに動かない。


 やろうとしたことと、実際に起きたことが、一日に何十回もずれる。都会の子も、田舎の子も、そこは同じだった。走の眼は、その"ずれ"を読めない。読める材料が、そもそも存在しないからだ。


(――こいつらは、まだ完成してない)


 走は、その日から、読む回数を減らした。


   *


 二日目の朝、走がビブスを直していると、横から声が降ってきた。


「なあ、それ、番号合ってる? 二百十四番」


 赤いスパイクの子だった。この三日、いちばん派手にボールを扱い、いちばん大きな声を出している子だ。周りに二、三人を従えて、走を上から下まで眺めている。


「セレクション、間違えたんじゃね? 少年団の子が、なんでここにいんの」


 走は、答えなかった。ただ、その子のふくらはぎを、一度だけ視た。二日目の朝でもう、張りが浮いている。昨日、飛ばしすぎた脚だ。午後まで、もたない。


「無視かよ。……ま、いいや。どうせ今日で帰る子だし」


 赤いスパイクは笑って、仲間と行ってしまった。


 《観察/赤いスパイク》

  ふくらはぎ ――― 二日目の朝で、もう張りが浮いている。

  接地音 ――― 昨日より重い。

  腕の振り ――― 肩から先だけになっている。

  残り ――― 全力で走れるのは、今日の午後まで。


「あの人、明日は走れませんよ」


 言ってから、しまった、と思った。声に出すつもりはなかった。


 隣でスパイクの紐を結んでいた子が、顔を上げた。走と同じ、ビブスに所属の書いていない子だった。


「……は?」


「二日で使い切ってます。明日、三十分から先は、脚が残らない」


 その子は、変なやつを見る目で走を見て、それきり黙った。走は、ビブスの二百十四番を、もう一度まっすぐに直した。名前で呼ばれる資格は、まだない。だが、番号を間違えたつもりも、ない。


   *


 二日目の午後、走の眼が熱を持ち始めた。


 こめかみの奥が、鈍く痛む。相手の重心の傾きも、次の一歩も、視ようとすれば視える。だが視るたびに、身体の芯から何かが減っていく。この眼は、ただでは使えない。


(――全部は視るな。三人だけだ)


 走は、視る相手を絞った。


 自分の前に立つ左利きの一人。背後を狙う足の速い一人。そして、この三日で一番厄介な、判断が異様に速い一人。その三人だけを視て、あとは捨てた。


   *


 三日目、午後の最後。四十分のゲーム形式が始まった。


 最初の三十分、走は目立たなかった。目立たないでいるのが、この午後いちばん骨だった。脚が、朝から前へ行きたがっている。三日目の身体が、三日ぶんの疲れを、なぜか感じていない。走はその脚を、三十分、後ろに繋いでおいた。


 三十分を過ぎた頃、グラウンドの色が変わった。


 朝から動きっぱなしの子供たちの脚が、一斉に鈍り始める。一歩目が遅れる。戻りが半分になる。声が消える。全国から集まった選ばれた子供たちが、順番に、ただの疲れた小学生に戻っていく。


 走の脚は、まだ動いていた。


 手を抜いたからではない。走は朝から、誰よりも動いていた。ただ、一歩も無駄に撒かなかった。周りの子は、一度の派手な全力疾走で三歩ぶんを散らしていく。走は同じ三歩を、取りこぼさずに使い切る。出力を落とすのではない。落ちないように、この身体を先に作ってきただけだ。前世の男が六十八年かけて覚えた、身体の使い方だった。


 作ってきた、と頭は言う。だが脚のほうは、そんな言い方をしなかった。


 三十分、繋いでおいたものが、いま勝手にほどけてくる。ふくらはぎが軽い。膝から下が、まだ地面を押し返してくる。肺の底に、使っていない空気が丸ごと残っている。走は一歩ごとに、それを確かめた。確かめるたびに、脚のほうが、次の一歩を先に踏んでいた。


 六歳の廊下で、三歩でつんのめった身体だ。頭の中に設計図だけがあって、それを乗せる脚がなかった。六年、毎日、その脚を作ってきた。遊びに紛れて、飯と眠りに紛れて、誰にも見せずに。


 いま、この十分だけ、頭と脚が同じ速さで動いている。


 読みが先に立って、脚がそれに半歩遅れて追いつく、のではない。読みと脚が、同時にそこにいる。前の生で走がついに一度も持てなかった身体が、名古屋の人工芝の上で、初めて、頭より半歩前を走っていた。


 口の端が、勝手に上がっていた。


 走はそれを、走りながら、直さなかった。


 残り十分。


 誰も戻れなくなったスペースを、走は一人で埋め続けた。


 右へ流れ、左へ絞り、消えかけたパスコースの手前に、いつのまにか立っている。派手なタックルは一つもしなかった。ただ、二百十四番がそこにいるせいで、相手の攻撃が「何も起きないまま」終わり続けた。


 あの赤いスパイクは、とうに歩いていた。朝に二百十四番を笑ったその子が、いまはコートの隅で膝に手をついている。走は、その子に競り勝ってなどいない。競り合う前に、脚のほうが勝手に止まっただけだ。走は、何も言わなかった。言うことは、何もない。


 二日目の朝、隣で紐を結んでいたあの子が、こちらを見ていた。走は、見返さなかった。


 最後の一分、走は初めて前に出た。


 前に、誰もいなかった。追ってくる足音が、無い。三日間ずっと後ろで畳んでいた脚が、その空白へ、走が命じるより先に伸びていった。人工芝の均一な感触が、この一分だけ、気持ち悪くなかった。踏むたびに、同じ強さで返ってくる。返ってくるぶんだけ、走は前へ出た。


 六歳の夜、窓の外を通り過ぎていった足音。その真似事くらいは、いま自分の足の下で鳴っている気がした。


 空になった相手の右サイドを、誰にも追いつかれずに駆け上がって、走はマイナスに一本、球を通した。それが、この三日間で走が触れた、たった一つの得点だった。


 蹴り込んだ子が、振り返って、走を見た。番号を探すような目だった。それから、何も言わずに自陣へ戻っていった。


   *


 終わりの笛が鳴った時、走はまだ立っていた。


 グラウンドの隅で、三百人ぶんの子供が、膝に手をついて肩で息をしていた。その中で、二百十四番だけが、まっすぐ立って呼吸を整えていた。


 走はそこで初めて、フェンスのほうを見た。


 ジャンパーの男が、腕を組んで立っていた。


 男は走を見ていた。得点にも、歓声にも、まるで反応しないあの眼で。ただ一人、二百十四番だけを、値踏みするように。


 走は目を逸らさなかった。


 この三日で、走は一度も才能を見せていない。見せるものが、そもそも無い。走が見せたのは、三日目の最後の十分に、まだ走れる身体が一つだけあったという事実だけだ。


(――それで足りないなら、この道は俺のものじゃない)


 男は、何も言わずに視線を外した。


   *


 帰りの車の中で、父は上機嫌だった。


「おい走。あの子、めっちゃ上手かったな。ほれ、赤い靴の」


「……ああ」


「あんなん、絶対受かるやろ。父さん、素人でも分かるわ」


 走は、窓の外を見ていた。


 赤いスパイクのあの子は、落ちる。三日間、あの子は一度も守備に戻らなかった。二日目の午後には、もう歩いていた。この道で選ぶ側が何を視ているか、あの子は誰にも教わっていない。


 教わっていれば、届いたかもしれない。


 走は、それを父に説明する言葉を持っていなかった。持っていたとしても、たぶん言わなかった。


「なあ、走」


「なんだ」


「お前は、どうだった」


「……走ってた」


「そうか」父はハンドルを叩いて笑った。「そりゃ、いいわ」


 高山までの三時間、父はそれ以上、何も聞かなかった。


   *


 合格の封筒が高山に届いたのは、十一月の終わりだった。


 母が台所で封を切って、「あら」と言った。それだけだった。父は「そうか」と言って、風呂を沸かしに行った。この家では、六年前も今も、走の人生は同じ音量で扱われる。


 走は自分の部屋で、その紙をずっと見ていた。


 尾張SCジュニアユース。合格者、二十名。うち、内部昇格が十三名。スカウトが五名。


 セレクションから、二名。


 その二行の意味を、この家で分かっているのは、走一人だった。三百人がここへ来て、走以外にたった一人しか通らなかった。それがどれだけの門なのかを、父も母も知らない。知らないまま、風呂を沸かして、味噌汁を作っている。


 走は、紙を机に置いた。置いて、また取った。


 二名、の二文字を、指でなぞった。三百人の、二人。その一人が、この部屋にいる。六年、誰にも見せずに積んできたものが、初めて、紙の上で数字になって返ってきた。


 嬉しかった。声には出さなかった。出さなかったが、口の端が上がっているのを、走は直さなかった。


 紙を持ったまま、走は階段を下りた。


 風呂場の戸を開けて、父が湯を確かめていた。


「父さん」


「ん」


「……ありがとう」


 父は、湯を手で一度、掻き回した。


「二回目だな」


「言うって言った」


「めんどくせえ」父は笑って、戸を閉めた。「もうすぐ沸く。先に入れ」


「うん」


 それだけだった。今日は、この家の音量が、ありがたかった。


 部屋に戻って、走はもう一度、その紙を見た。


 二名。その数字には、もう一つの読み方がある。


 この紙は、券だ。


 内部昇格の十三人にとって、その場所は生まれた時から自分の家だ。スカウトの五人は、誰かに見つけてもらった選ばれし者だ。そしてセレクションの二人は――誰にも呼ばれず、勝手に門を叩いて、勝手にこじ開けてきた異物だった。


(――向こうから見れば、俺は招かれざる客だ)


 紙を封筒に戻して、走は窓を開けた。


 十一月の高山の風は、もう冬の匂いがした。


 この紙が来た日、走は空き地へ行かなかった。行けなかった、というほうが正しい。


 同じ秋、同じ町で、封筒が一通も届かなかった家が一つあることを、走はもう知っていたからだ。

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