第20話 経路
「――父さん。話がある」
父は新聞から顔を上げて、老眼鏡を少しずらした。
「おう。座れよ」
「立ったままでいい」
「なんだそりゃ」
母が味噌汁の椀を置く手を止めて、こちらを見た。
走はこの六年、何百回もこの言葉の並べ方を考えてきた。反論の順序も、想定される拒否の型も、全部用意してある。前世の食卓で言えなかったことを、今度は一つも取りこぼさずに言うつもりだった。
「名古屋の、尾張SCっていうクラブがある。Jクラブの下部組織で、中学生のチームがある。来年の四月からの募集が、この秋にある」
「ふうん」
「受かったら、高山からは通えない。片道三時間ある。寮に入ることになる。……金がかかる。寮費と、遠征費と、道具代と」
「そうか」
「聞いてくれ。俺は本気で――」
「いいよ」
走の口が、止まった。
*
「……いいよ、って」
「受けたいんだろ。受けりゃいいじゃんか」
父は新聞を畳んで、脇へ置いた。
「金は、いいのか」
「あるよ」
答えたのは母だった。味噌汁をよそう手は止まらない。
「愛知にいた頃、二人でひたすら働いてたからね。あの頃のお金、まだ残ってる。使い道、ちょうど決まってなかったし」
走は、そこに立ったまま動けなかった。
用意してきた言葉が、順番に全部いらなくなっていく。反論の型も、説得の段取りも、六年かけて組んだ交渉の設計図が、一分も経たずに全部無駄になった。
「……なんで、何も聞かないんだ」
「なにを」
「受かる可能性とか。その先で通用するのかとか。プロになれるのかとか。そういう」
父は少し考えて、鼻の頭を掻いた。
「聞いてほしいのか?」
走は、答えられなかった。
「父さん、サッカー分かんねえもん」父はあっさり言った。「お前が家でやってる変な体操も、飯の食い方も、よく分かんねえ。田口さんが、お前は後ろでごちゃごちゃやってるって言ってたけど、それが上手いのかも分かんねえ。だから、聞いても無駄だろ」
「……」
「分かんねえけど、お前が六年、一日もやめなかったのは見てる」父は湯呑みを持った。「それで足りる」
*
六歳のあの日、走は目の前の男に、前世の親を重ねて身構えた。
あれから六年、走はずっと待っていた。この人たちが本性を出す日を。「そろそろ勉強しなさい」と言う日を。「その辺にしておきなさい」と言う日を。手のひらを返す瞬間を、いつでも記録できるように構えて生きてきた。
まだ、来ない。
(……今はそう言うけど)
走はその言葉を、また胸の底へ沈めた。六年前と同じ場所に、六年前より少し小さい形で、それはまだ溶けずに残っている。
「ただな、走」
「なんだ」
「決めるのはお前だぞ」父はこちらを見た。「父さん、受けろとも受けるなとも言わねえ。金は出す。名古屋まで運転もする。でも決めるのはお前だ。あとで父さんのせいにすんなよ」
前世の親は、決めた。
この人は、決めない。
どちらが重い言葉なのか、十二歳の走には、まだ分からなかった。
「……父さん」
「ん」
「ありがとう」
父は湯呑みを持ったまま、少し黙った。それから、鼻の頭をもう一度掻いた。
「そういうのは、受かってから言え」
「受かっても言う」
「じゃあ二回言うことになるな」父は笑って、新聞を取り上げた。「めんどくせえ」
母が台所で、声を殺して笑っていた。
*
申込書は、郵便で取り寄せた。
封筒が届いたのは、一週間後だった。中身は、B5の紙が一枚きりだった。
走はそれを炬燵の上に置いて、しばらく見ていた。
六年、走はこの紙のことだけを考えて生きてきた。実物は、驚くほど、なんでもない紙だった。
*
氏名。生年月日。身長。体重。利き足。希望ポジション。
走は、一つずつ埋めていった。百四十一。三十三。右利き、左も蹴れる。ポジション――サイドバック。
その次の欄で、鉛筆が止まった。
――所属チーム。
走は、その五文字を、しばらく見ていた。
この六年、走が全部を賭けてきた場所には、名前がない。田口の爺さんが草を刈った空き地。杭と、物置と、六人。チーム名なんて、誰も一度も考えたことがない。考える必要が、無かったからだ。
走は、「なし」と書いた。
*
保護者記入欄は、母が書いた。
やたら丁寧な字だった。一画ずつ力を入れて、習字みたいに書いている。
「……そんなに丁寧じゃなくていい」
「だって、初めてだもん」
母は、顔も上げずに言った。
「あんたが、なんかに申し込むの」
走は、黙った。
この人は、待っていたのだ。走がこの家で、何かを欲しがるのを。六年間、一度も催促せずに。
*
「ねえ。茜ちゃんも、一緒に出せばいいのに」
母は、書き終わった紙を封筒に入れながら、そう言った。
「二人で行けば、寂しくないでしょう」
走の指が、止まった。
「……それ、男子のだ」
「あら。そうなの」
母は、あっさり納得して、封筒に糊をつけた。
それきり、その話はしなかった。
*
返送して二週間で、受付の葉書が来た。
名前の下に、番号が振ってあった。
――二百十四。
走は、その数字を、しばらく見ていた。
尾張の選考は、練習会もセレクションも、この番号で呼ばれる。三日間、誰も走を東走とは呼ばない。呼ばれるのは、二百十四だけだ。
(――ちょうどいい)
名前で呼ばれる資格は、まだ無い。
走は葉書を、机の引き出しに入れた。
*
三日後の夕方、田口の爺さんの軽トラが、家の前に停まった。
助手席から降りてきた男を見て、走は息を止めた。
地味なジャンパー。四十くらい。手帳もカメラも持たず、春の練習試合の日、日陰でただ立っていた男。
「――どうも」
男は走を見ても、驚きも喜びもしなかった。ただ、確認するように一度だけ目を細めた。
「桐生陸くんの、家はどこかな」
*
「陸は、行けません」
走が言うと、男は初めて動きを止めた。
「怪我か」
「はい」
「どこだ」
「左脛骨。骨端線の、すぐ上です。二年前に一度やったところに、この夏の連戦が乗りました。……半年は、まともに走らせません」
風が、田んぼを鳴らして通り過ぎた。
男は長いあいだ、走を見ていた。試合を見ていた時と同じ、値踏みの眼だった。ただし今は、桐生陸ではなく、走を。
「……お前、いくつだ」
「十二です」
「そうか」
男はそれ以上、聞かなかった。骨端線という言葉が十二歳の口から出たことも、その診断が正確すぎることも、何も追及しなかった。
「治るのか」
「三月には。今より速くなって戻ります」
「三月」男は短く息を吐いた。「うちの募集は、十一月で終わりだ」
「知ってます」
「じゃあ、今年は無理だな」
あっさりしていた。悪意はどこにもなかった。ただ、間に合わないものは間に合わない、という事実だけがそこに置かれた。この男は嘘をつかない。惜しむふりも、慰めもしない。それが走には、痛いほどよく分かった。
(――俺と、同じ眼だ)
*
男が軽トラへ戻りかけて、足を止めた。
「――ああ、それと」
走の心臓が、一つ、跳ねた。
「春の試合で、いちばん後ろにいたのはお前か」
「……はい」
「名前」
「東走です」
男は上着の内ポケットから、擦り切れた手帳を出した。あの日、グラウンドでは一度も出さなかったものだ。短く何かを書いて、すぐ閉じる。
「十月の頭に練習会がある。来い」男は言った。「言っとくが、合格じゃない。見てやるだけだ」
「――セレクションも、受けます」
男の手が、止まった。
「練習会に呼ばれたやつは、そのまま話が進む年もある。それを分かってて言ってるのか」
「練習会は、ついでで呼ばれました」走は男の目を見た。「ついでで拾われた枠は、いちばん先に落ちます。だから、両方受けます」
男はしばらく黙っていた。それから、表情をほとんど動かさないまま、鼻から短く息を抜いた。
「……ませたガキだな」
軽トラが、砂利を鳴らして去っていった。
走は道端に立って、そのテールランプが山の陰に消えるまで見ていた。
名目は、最後まで陸でいい。あの男が高山まで来たのは陸のためで、走の名前は手帳の隅に、ついでの一行として書かれただけだ。それでいい。ついででいい。
扉は、開いた。
*
「――尾張から、練習会の誘いが来た」
翌日、空き地で、走は桐生に言った。
「お前にだ。断った」
桐生は、ボールを止めた手のまま、しばらく動かなかった。
「……そっか」
「悪い」
「なんで謝んだよ」桐生は笑おうとして、失敗した。「走れねえのは俺の脚だろ。お前のせいじゃねえ」
言葉のあとに、沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、走の眼は視てしまう。この男が今、何を飲み込んだのか。あの夏、走の正しさは陸から勝ちを取り上げた。そして今、同じ正しさが、この男から秋を一つ取り上げた。医学的には、一点の曇りもなく、正しい。
「お前は?」桐生が顔を上げた。
「俺は、受ける」
「……そっか」桐生は今度こそ、ちゃんと笑った。「受かれよ」
十月。走は父の車で、名古屋へ向かう。
そこに、三百人がいる。




