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第19話 代償

 九月に入ると、空き地の風が変わった。


 昼はまだ汗ばむのに、夕方になると山から下りてくる風に、薄い冷たさが混ざる。刈り入れ前の稲の匂いが濃い。蝉の声は、もう聞こえなかった。


 走が空き地に着いた時、桐生はすでに一人でボールを蹴っていた。田口の爺さんの物置の壁に向かって、右足で、単調に。ぱん、ぱん、と乾いた音が畦道まで届いている。


 走は杭の手前で足を止めて、しばらく黙って見ていた。


 蹴り方は綺麗だった。二年前、この空き地に転がり込んできた頃の、投げやりで乱暴な蹴り方とは別物だ。だが桐生は、左足でボールを触ろうとしない。軸足として地面を踏む時、着地の音が右よりわずかに軽い。


 庇っている。本人も気づかないくらい、上手に。


(……三週間経って、まだそれか)


「陸」


 声をかけると、桐生が振り返った。夏の日焼けが、まだ首筋に残っている。


「おう。早ぇな、今日」


「診せろ。座れ」


「はあ?」


「脚だ」


   *


 桐生は面倒くさそうな顔をしたが、逆らわなかった。雑草の上にどさりと腰を下ろす。走はその前にしゃがみ込んで、桐生の左脚を膝から下へ、指の腹でたどっていった。


「もう痛くねーよ。大会から三週間だぞ」


「痛みは、いちばん遅れてくる情報だ」


「押すぞ。骨の際の、指一本ぶん内側だ」


「べつに、そこは痛くねーよ」


「痛い」


 膝の少し下。骨の際を、走の親指が押した。


 桐生の眉が、ぴくりと動いた。


 《診断/桐生 陸・十二歳》

  骨の際 ――― 二年前と同じ場所に、同じ熱。

  原因 ――― 応急で戻した脚に、二年ぶんの走行と、この夏の七試合。

  庇い ――― 三週間、左を庇って歩いた分が、右へ積まれている。

  所要 ――― 根から作り直すなら、半年。


「……ちょい、痛ぇかも」


「ここは」


「……っ」


「ここは」


「……いや待て。なんでお前、そんなピンポイントで当てんの。それ毎回、地味に怖ぇんだけど」


 走は答えなかった。


 指の下で走の眼が視ているものは、桐生には見えない。二年前に走が治した場所の、そのすぐ上。腫れてもいないし、熱もない。だが押した時に返ってくる反応が速すぎた。周りの筋が、脚を守ろうとして必要以上に固まっている。身体が自分でここを危険地帯だと判定している、その証拠だった。


   *


「陸。この夏、何試合走った」


「え? ……えーと、一日で、七つか」


「七つだ」走は立ち上がって、指についた土を払った。「準決勝で俺がお前を下ろすまで、七試合。しかも全部、お前がいちばん走ってた」


「そりゃ、勝ってたし」


「あの時、俺はお前の脚を守ったつもりでいた」


 桐生が顔を上げた。


「違ったんだ」走は言った。「壊れる一歩手前で、止めただけだった。止めた時点で、お前の脚にはもう、この夏ぶんの請求書が乗ってる。あれから三週間、庇って歩いてたぶんも、その上に積まれてる」


「請求書、って」


「代償だ」


 二年前に走が桐生にやったのは、応急処置だった。田舎の空き地に、レントゲンも超音波もない。走にできたのは、見立てて、止めて、少しずつ戻すことだけだ。それで桐生はもう一度ボールを蹴れるようになり、走れるようになり、笑えるようになった。


 だがあれは「プレーができるところまで戻した」というだけの話だ。根っこは、まだ返していない借金として残っていた。桐生はその脚のまま二年走った。そしてこの夏、たった一日で七試合を走り切って、まとめて取り立てを食らった。


「――半年だ」


「は?」


「半年、まともには走らせない。今度は応急じゃない。根っこから作り直す」


   *


 桐生は、暴れなかった。


 膝を抱えて、自分の左脚をじっと見ている。それから、ふう、と長い息を吐いた。


「……わかった」


 走のほうが、面食らった。


「二年前のお前なら、暴れてた」


「暴れて、どうなったよ」桐生は左脚を見たまま言った。「あの夏、痛ぇのを黙ってたのは俺だ。お前が視るまで、誰も気づかなかった。……お前のせいじゃねえ。俺が黙ってたからだ」


 走は、何も言えなかった。


 この二年で、この男が覚えたのは我慢ではなかった。自分の身体に責任を持つ、という一番厄介なものを覚えたのだ。誰が教えたわけでもない。


   *


「……なあ、走。半年って、いつまでだ」


「三月だ。卒業の頃」


 桐生が黙った。杭の先に、赤とんぼが一匹止まっている。


「……間に合うのか、それ」


「何にだ」


「秋だよ」桐生は前を向いたまま言った。「秋になったら、上のチームが動く。練習会、セレクション、あと、声かけ。……俺、前のチームにいた時に見てんだ。上の学年が、その季節にごっそり消えてくの。呼ばれたやつと、呼ばれなかったやつに分かれて」


 走の胸の奥が、静かに冷えた。


(――知ってるのか、こいつも)


 当たり前だった。この男は、走が生まれ変わってから初めて出会った、"外の世界を見てきた子供"だ。走が前世の記憶で知っている季節を、桐生は自分の目で見ている。


「俺さ、上に行きてえんだ」


「知ってる」


「違う」桐生が首を振った。「上に行きてえんじゃねえ。お前らと、上でやりてえんだよ。お前が後ろにいて、アカネが前にいて、俺がその間走ってる。あの並びのまんま、もっと上でやりてえ。俺だけ置いてかれるとか、ぜってー嫌だ」


 夕陽が、桐生の横顔を赤く塗っていた。


 この男は、自分のためには焦れない。壊されて捨てられた時ですら、最後まで欲しがったのは、誰かの隣で走ることだった。


   *


「――間に合わないかもしれない」


 桐生が、ぱっと顔を上げた。


「秋のうちに、上のチームは動く。その時、お前は走れる状態でそこに立てない。それはたぶん、本当だ」


「……はっきり言うんだな、お前」


「嘘をついて治した脚は、嘘の脚になる」走は桐生の目をまっすぐ見た。「三月まで、俺の言う通りにしろ。走るなと言ったら走るな。歩けと言ったら歩け。それができるなら、一つだけ約束する」


「なんだよ」


「半年後のお前は、この夏のお前より速い」


 桐生が、目を丸くした。


「治すんじゃない。作り直す」走は言った。「今のお前は、才能を使い切れてない。膝の使い方も、股関節の角度も、蹴る前の一歩も、全部もったいない。走れない半年で、そこを全部組み直す。三月に走り出すお前は、八月のお前より速い。それは俺が保証する」


「もう一つ、言っておく」


「まだあんのかよ」


「最初の三ヶ月、お前は一度も、良くなった気がしない」


 桐生が、口を開きかけて、止めた。


「むしろ、下手になった気がする。走れる気がしなくなる。……それで正しい」


「……正しい、って」


「壊れてない場所を、いったん全部ばらすからだ。ばらしてる最中は、前より使えない」走は言った。「もし三ヶ月で、良くなった気がしたら言え。そのときは、俺の見立てが外れてる」


 桐生は、変な顔をした。


「良くなったら怒られんのかよ」


「怒らない。組み直す」


 しばらく、桐生は走を見ていた。


 それから、ぷっと吹き出した。


「お前さ。時々、めちゃくちゃ医者っぽいこと言うよな」


「……気のせいだ」


   *


「なーにしてんの、あんたら」


 自転車のブレーキが鳴って、アカネが空き地に入ってきた。片手に駄菓子の袋を提げている。


「陸、また止められたんだって?」


「なんでもう知ってんだよ」


「おばちゃんが言ってた」


「早ぇよ、この村」桐生が心底嫌そうな顔をした。


「半年だってー?」アカネは袋からラムネを一つ出して、口に放り込んだ。「じゃあ大丈夫じゃん。あたしがそのぶん取るし」


「お前な」


「なに。あたしがいたら困る?」


 桐生が言い返せずに黙った。それが答えだった。


 この夏の大会でも、点を取っていたのはアカネだ。桐生が下がったあとの準決勝で、最後まで前線で暴れ回っていたのもアカネだった。走の設計が回るのも、陸の才能が刺さるのも、前に彼女がいるからだ。この六人の中で、誰も口にしないほど当たり前のことになっている。


 アカネがラムネを噛み砕いて、走を見た。


「あんたも、なんか言いなよ」


「……いや」


 走は、言わなかった。


 この夏、ケンジの背が二センチ伸びた。声も少し低くなった。あの遅れて始まった伸び方が、この先どういう順序で何を持っていくのか。走の眼には、はっきり視えている。長くて三年。今この空き地で当たり前になっている並び順は、そっくり裏返る。


(――言うな)


 言えばアカネは、この夕暮れから、それを知って生きることになる。まだ何も起きていないうちから、来ると決まっている冬の話を聞かされる。それは診断ではない。呪いだ。


 走は口の中の言葉を飲み込んで、代わりにアカネの袋からラムネを一つ、勝手に取った。


「あ、こら!」


「税金だ」


「意味わかんない!」


   *


 帰り道、山の色が少し変わり始めていた。


 九月。この田舎では、季節が一つ進むだけだ。稲が刈られ、風が冷たくなり、じきに雪が来る。だがその同じ季節に、外の世界では別のことが起きる。大人が、子供を選び始める。十二歳の秋に、この国はいちど、静かに子供を仕分ける。


 前世の走は、その季節を何も知らないまま通り過ぎた。気づいた時には、選ぶ側の輪の外にいた。


 陸には、まだ手がある。走はそれを知っている。上へ行く扉は秋の一枚きりではないし、この国の育成は、思っているよりずっと隙間だらけだ。三月に作り直した脚で走り出せる場所を、これから半年かけて探せばいい。


(――だが、俺は)


 春の練習試合で、あのジャンパーの男の視界の隅に、走は自分を差し込んだ。種火は灯った。灯ったことも、走には視えていた。


 だが、それきりだ。あの男は名前も聞かずに帰っていった。あれから半年、誰からも、何も来ていない。


(種火は、放っておけば消える)


 視線の通り道に立って待つのは、もう終わりだ。あの季節は、待っている子供を迎えに来ない。


 前の生の走は、待った。呼ばれるのを。選ばれるのを。誰かが気づいてくれるのを。待ったまま、季節が過ぎた。


 ポケットの中で、手が握られていた。誰にも見えないところで。走はそれを、家に着くまで、ほどかなかった。


 次は、こっちから扉を叩く。申込書を書いて、封筒に入れて、切手を貼って、名古屋まで行く。


 そのために、走には、どうしても頼まなければならない相手がいた。


 家に着くと、台所から出汁の匂いがした。父がテーブルで新聞を広げている。母が味噌汁をよそっている。何も変わらない、六年間ずっとこうだった、走の現世の食卓。


 六歳のあの日、恐る恐る「サッカー、やってみたい」と言った時と同じ冷たいものが、また胸の底で固まっていた。あの時よりずっと重い頼み事を、これから口にする。


 走は鞄を下ろして、椅子を引かずに、立ったまま言った。


「――父さん。話がある」

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