第18話 治してくれよ
夏の終わりの、夕暮れだった。
大会から、もう数日が過ぎていた。走は一人、空き地にいた。田口の爺さんが貸してくれた古びたボールを、意味もなく、足の裏で行ったり来たりさせながら。蝉の声が、いつのまにか、ひぐらしの声に変わっている。
足の裏で転がすと、革の縫い目が、土踏まずに引っかかる。ごろ、ごろ、と鈍い音がする。
走はその音を、前の生の何かと比べようとして、やめた。
比べなくていい。この音は、勝っても負けても、同じ音がする。六年前、田口の爺さんが物置から放ってよこした日から、この球は一度も、走に何も訊かなかった。上手いかとも、走れるかとも、まだやるのかとも。
走は目を閉じて、しばらく、足の裏だけでそれを聞いていた。
勝てなかった。その事実が、胸の底に、澱のように沈んでいた。守れた。設計は、確かに機能した。田舎の六人を、あそこまで連れていけた。だが、勝たせては、やれなかった。
あの時、走の眼は仲間の勝利より、桐生の脚を選んだ。それは、正しかった。医学的に、一点の曇りもなく、正しかった。桐生の脚は、守られた。あのまま走らせていれば、今度こそ、致命的に壊れていたはずだ。走の判断は、間違っていない。何度なぞっても、間違っていない。
だが――正しかった。でも、勝たせられなかった。
その二つが、走の中で、どうしても一つに溶け合わない。正しさが、勝ちを、みずから手放させた。あの診断の眼は、人を救う光であると同時に、勝利を諦めさせもする。視えるからこそ、止めねばならず、止めるからこそ、失うものがある。二年前、うずくまった少年の脚を治した時、走の眼はただまっすぐな光だった。だが、あの準決勝で、走は初めて知った。この眼で"視てしまう"ことには、代償がついてくる。それが、治すという眼が、走に残していった、最初の苦さだった。
*
「ここにいたのか」
振り返ると、桐生が立っていた。
あの日以来、二人のあいだには、うっすらとした、ぎこちなさがあった。桐生は走に治してもらった恩を、痛いほどわかっている。だからこそ、言えない言葉が、一つ、胸につかえていた。
――あの交代さえ、なければ。
あのまま走り続けていたら、風間空に勝てたかもしれない。決勝に、行けたかもしれない。その思いが、桐生の中に、確かにある。走には、それが視えていた。だが桐生はそれを、どうしても口に出せない。走が自分の脚のために、その勝利を捨ててくれたことを、知っているから。恩人を、責められるはずがない。だから桐生はその思いを、飲み込むしかなかった。
二人のあいだに、言葉にならない小さなわだかまりが、横たわっていた。走の慎重さは、いつか桐生に、"勝ちを捨てる臆病"に見える日が来るのかもしれない。その、遠い対立の種が、この夕暮れに、そっと蒔かれていた。
桐生が走の隣に、腰を下ろした。しばらく二人で、赤く暮れていく空を、黙って見ていた。
やがて、桐生がぽつりと言った。
「あのさ。……あの時は、悪かった。『またかよ』とか、言って」
「いや。当然だ。俺が、お前のいちばんの瞬間を、奪ったんだから」
「奪ってない」
桐生がはっきりと言った。「お前は、俺の脚を、守ってくれた。あのまま走ってたら、俺、今度こそ、終わってた。……わかってるんだ。わかってるけど、悔しい。すげー、悔しい」
桐生は自分の左脚を、そっと撫でた。二年前、走が治した脚。あの準決勝で、走が勝利と引き換えに守った脚。
「風間、だっけ。あいつには、勝てなかった。俺が最後まで走ってても、勝てたかは、正直わかんない。でも――次は、勝ちたい。俺が、最後まで走り切って。あいつに、勝ちたいんだ」
桐生が走のほうを向いた。その目に、出会った頃の諦めは、もう、かけらもなかった。かわりに、まっすぐな熱と、走への、揺るがない信頼が、宿っていた。
「だから、走。治してくれよ」
走の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「この脚、ちゃんと治してくれ。今度は、途中で下ろされないくらい、頑丈なやつに。俺、もう一回、あのピッチで、最後まで走りたいんだ。お前の球を、最後まで、受け取りたい。……できるだろ、お前なら」
二年前、初めて出会った日、「どうせ治らない」とうつむいていた少年が、いま、「治してくれ」と、走をまっすぐに求めている。
走はすぐには頷けなかった。
この脚を治せば、陸はまた、限界まで走る。そしていつか、また走の眼がその限界を視てしまう日が来る。治すことは、いつか、また止めることと、地続きなのだ。治す約束は、同時に、また奪う約束でもある。
それを、走は口には出さなかった。今日この夕暮れの、まっすぐな目をした陸に、言っていい言葉ではなかった。走はその予感を、胸のいちばん底へ、そっと沈めた。そして、頷いた。
「ああ。治す。今度は、応急じゃない。根っこから、本物にしてやる」
桐生の顔が、ぱっと明るくなった。二年前、うつむいていた少年の、その同じ顔が、いまは、まっすぐ前を向いている。走はその顔を見て、沈めたばかりの苦さを、ほんの少しだけ、忘れられた。
桐生がふと、思い出したように言った。
「そういえば、お前、いつも後ろにいるよな。あんだけ視えてんのに、なんで前で目立とうとしないんだよ」
「俺は、これでいい」走は少し笑った。「後ろから、盤面が全部視えてるほうが、性に合ってる。目立つのは、お前とアカネの仕事だ」
「ほんと、変わってるよ、お前」
桐生があきれたように、それでいて、どこか嬉しそうに笑った。壊れる前は、いつだって一人でピッチの真ん中に立っていた男がいま、目立とうとしない年下の隣で、声をあげて笑っている。それだけで、この夏の負けが、少しだけ、報われた気がした。
勝てなかった夏だった。だがこの夏、走は確かに手に入れたものがあった。設計だけでは勝てないという、動かせない現実。そして、その設計を本物に変えるために、隣で走ってくれる、才能という名の相棒。
原点の、六人。田舎の、空き地。ここから始まった道は、まだ、あまりに遠い。だが走はもう、頭の奥に住みついた顔の見えない男に、一人で道を確かめる必要は、なかった。確かめるまでもなく、隣に、一緒に走るやつがいる。
走は立ち上がり、ボールを、桐生のほうへ、そっと蹴った。桐生がそれを、危なげなく止める。止めて、一歩だけ、前へ運んだ。二年前は、止めたところで凍りついていた球だった。
小学最後の夏が、静かに暮れていく。二度目の人生の、本当のチームが、この夕暮れから、動き始めていた。




