第17話 途中だ
「陸」
走の声に、桐生が笑顔のまま振り返った。
「下がれ」
その瞬間、桐生の顔から、笑みが凍りついた。
「……は?」
「交代だ。お前は、ここまでにする。ハルと代わる」
一拍の、沈黙。それから、桐生の顔が、みるみる歪んでいった。喜びが困惑に、困惑が、怒りに。
「なんで――勝ってるんだぞ! あと少しで、決勝なんだ! 俺、まだ走れる! どこも、痛くないんだ!」
「脚が、限界だ」走は静かに言った。「いま、視た。その左脚、二年前と同じ場所が、もう限界に来てる。これ以上、全力で走ったら、また壊れる。今度は、もっと深くだ」
「わかんないだろ、そんなの! 痛くもないって言ってるだろ!」
「痛くなってからじゃ、遅い。俺の眼には、もう視えてる」
「またかよ!!」
桐生が叫んだ。二年ぶんの何かが、堰を切って噴き出した叫びだった。「またそれかよ! 走るな、無理するな、下がれ! いつもそうだ! 俺がいちばん走りたい時に、仲間のために走りたい時に、お前はいつも、俺を止めるんだ!」
その言葉は、走の胸を、まっすぐに貫いた。まったく同じ叫びを、走自身が、六十年前にあげたのだ。まだ走れる、まだ平気だ、なんで止めるんだ――と。そして、その叫びは、誰の耳にも届かなかった。だから走は知りすぎるほど知っている。この叫びの、届かなさを。
*
走は桐生の両肩を、正面から掴んだ。逃がさないように。そして、その目を、まっすぐに見た。
「よく聞け、陸。俺が言ってるのは、"もう走るな"じゃない。"今は"走るな、だ」
桐生の目が揺れた。二年前、初めて出会った日に、走がこの少年に手渡した、あの言葉だった。
「あの日、俺はお前に言った。終わりじゃない、途中だ、と。今も、同じだ。ここでお前を下げるのは、お前のサッカーを終わらせるためじゃない。続けさせるためだ」
「でも、勝てなくなる! 俺が下がったら、このチームは――」
「勝てないかもしれない。今日は」
走は認めた。ここで誤魔化したら、この子は二度と、自分の言葉を信じない。「お前がいなきゃ、この試合は落とすかもしれない。それは、俺がいちばんわかってる。それでも俺は、お前の脚を選ぶ。今日一日の勝ちより、お前がこれから何十年も走れる脚を、選ぶ。恨むなら、恨め。でも――終わりじゃない。ただの、途中だ。俺が、また治す。だから今日は、下がってくれ」
桐生は走を見ていた。怒りと、悔しさと、そして――この二年、この年下の子供が、ただの一度も自分を裏切らなかったという記憶とが、その奥で、押し合っていた。走の眼はいつだって正しかった。走の言葉を信じたから、この脚は戻ってきた。その動かしがたい事実が、桐生の怒りから、少しずつ、行き場を奪っていく。
長い、長い数秒だった。やがて桐生はぐっと唇を噛みしめ、ピッチの外へ、歩き出した。走を、振り返らずに。肩を、細かく震わせながら。
その背中を、アカネが呆然と見送っていた。彼女はこの試合を、誰より勝ちたがっていた。よそのやつがどれだけ強いのか、この目で確かめたいと、初めて外の世界へ出た、あの夏から、ずっと。その勝ちが、いま、自分たちの手で、手放されようとしている。アカネは走に食ってかかろうと、一歩踏み出しかけて――口を、噤んだ。走の横顔が、いつになく蒼白だったからだ。こいつは、誰より勝ちたい顔をして、いちばん苦い選択を、自分で背負っている。それが、理屈ではなく、アカネにも視えてしまった。
*
桐生を欠いた走たちは、そこから、坂を転げ落ちていった。
攻撃の最後の刃を失い、風間空の異次元の前に、じりじりと押し込まれる。走が必死に盤面を組み替え、アカネが一人で二枚三枚と剥がしにいく。だが、アカネが引きつけて空けた裏へ、飛び込む二人目が、もういない。ハルは懸命に走ったが、桐生の位置には、どうしても届かない。設計だけでは埋まらない穴が、ぽっかりと口を開けていた。
それでもアカネは一人で抗い続けた。二枚、三枚と引きつけては、自分でその裏へ戻って決めようとする。だが、引きつける役と、飛び込む役を、一人で同時にこなすことは、いくらアカネでも、掴めない風間を相手に、できはしなかった。崩した瞬間には、もう決める場所に、自分がいない。桐生がいれば埋まっていたはずの、その半歩の差が、そのまま、勝敗の差になっていく。
ベンチの桐生は両の拳を握りしめて、それを見ていた。二年前、スタンドから仲間の敗北を見ていた、あの夏と、同じ姿で。ただ今度は、走に脚を守られたうえでの、ベンチだ。俺がいれば、あそこへ走り込めるのに。その声にならない叫びが、桐生の奥歯を、ぎりりと軋ませていた。
風間が二点を決めた。二対三。逆転された。試合終了の笛が、乾いた夏の空に響いた。走たちの、負けだった。
笛が鳴っても、走の脚は、止まらなかった。
止まる理由が、脚のほうに無かった。七試合を走って、この身体には、まだ十分ぶんの脚が残っている。残っているのに、負けた。走はコートの真ん中に立ったまま、誰にも言わずに、その残りを数えた。
まだ走れる脚で立っている負けを、走は前の生で、一度だけ知っている。
あと一歩で決勝という場所で、準決勝敗退。決勝への扉が、目の前で、静かに閉じた。
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ピッチの中央で、風間空が空を見上げていた。
勝ったのに、喜んではいない。味方が抱き合って沸くのを、少し離れたところから眺めて、それから、誰にともなく、ぽつりと呟いた。
「あー、面白かった」
それだけだった。勝ったからでも、決勝に行けるからでもない。ただ、面白かった。その一言を残して、風間はふらりと背を向けた。走の設計を、こともなげにすり抜けていった掴めない男は最後まで掴めないまま、夏の陽炎の向こうへ、溶けるように消えていった。
*
負けた。だが、走が顔を上げると、うなだれている者は、誰一人いなかった。
アカネは悔しさに、まだ前を睨んでいる。タケルもケンジもハルも、汗まみれで肩で息をしながら、それでもどこか、出し切った顔をしていた。田舎の六人が、名古屋のど真ん中で、優勝候補を、あと一歩まで追い詰めたのだ。
ベンチの桐生は悔し涙を、ぼろぼろとこぼしていた。それでも、その顔に、出会った頃のような"諦め"の色は、もう、どこにもなかった。走に下げられた怒りと、負けた悔しさと、「終わりじゃない、途中だ」という走の声とが、その涙の中で、混じり合っていた。
決勝への道は、閉じた。だが、誰の目にも、"終わり"の色は、なかった。




