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第16話 いちばん憎んだ言葉

 試合は動いている。だが走の中では、時間だけが、やけにゆっくりと流れ始めた。


 ボールはまだ遠い。風間が持ち、アカネが食らいついて、攻守が入れ替わろうとしている。次に球がこちらへ渡り、桐生があの脚で駆け出すまで――おそらく、あと十数秒。走に残された猶予は、それだけだった。その前に、決めなければ、もう間に合わない。


 仲間の歓声が、水の底で聞くように、くぐもって届く。走はコートの隅に立ち尽くしていた。頭の中で、二つの声が、殴り合っている。下げろ、脚を守れ、それが正しい。下げれば負ける、桐生の人生でいちばんの瞬間を、この手で奪うことになる。正しさが、勝利を殺そうとしている。


 その時、頼んでもいないのに、ずっと奥にしまっていた古い光景が、まぶたの裏に蘇った。


 六十八年前の、そのまた前。まだ走れると、確かに信じていた、あの日。少年だった前世の走の前に、大人たちが、正しい顔をして並んでいた。父がいた。母がいた。白衣のトレーナーが、クリップボードを胸に抱えていた。彼らは、走の脚の数値を読み上げ、成長曲線を指でなぞり、この先の故障の確率を、淡々と計算した。そして、いちばん穏やかな声で、言ったのだ。


「お前のためだ」と。


 もう、無理はさせられない。お前の身体のためだ。お前の、将来のためだ。まだ走りたくて仕方のなかった少年の手から、そう言って、大人たちはボールを取り上げた。怒鳴られたのでも、殴られたのでもない。優しい声と、正しい理屈と、反論のしようもない善意で、静かに、席へ座らされた。


 あの日から、走は六十年、あの五文字を憎み続けた。「お前のためだ」。他人の可能性を、当人の同意も得ないまま、正しさの名において取り上げる言葉。走の人生を、まだ途中だったはずのところで、終わらせた言葉。世界のどんな罵声よりも、あの"優しい正しさ"を、走は憎んだ。医者になってからも、患者に引退を告げるたび、喉の奥で、あの声がこだました。


 席に座らされたあと、少年だった走はそのまま机の前に座らされた。走る才能はないが、頭はある。だから医学をやれ、と。それも、優しい声で、正しい理屈で言われた。抗う言葉を、走は持たなかった。そうして脚は錆び、夢は途中で立ち枯れ、走は六十八年、他人の身体だけを診て生きた。死ぬ間際まで、たった一つ、思っていたことがある。あの日、誰か一人でいい。「終わりじゃない、ただの途中だ」と、本気で言ってくれる大人が、そばにいてくれたなら。自分の人生は、あんなふうには、枯れなかったのではないか、と。


 なのに――いま、走が桐生に言おうとしているのは。


 ――「お前のためだ」。


 一字一句、同じ言葉だった。


 走の全身から、血の気が引いた。自分が、この世でいちばん憎んだ大人。まだ伸びるはずの少年の翼を、正しさで折り畳んだ、あの加害者。その顔を、いま、自分がしている。奪う側になど、二度と立つまいと、この二度目の人生で、あれほど固く誓ったのに。


「走! なにボーッとしてんの!」


 アカネの声が、水の底から、走を引き上げた。「決勝、行くよ! あと少しなんだから!」


 顔を上げると、桐生がこちらを見て笑っていた。まだ走れると、一片も疑っていない顔で。「次、頼むぞ」と、目だけで言って、走の球を待っている。その、あまりに無邪気な信頼が、走の胸を、内側から抉った。


 桐生は知らない。自分の脚が、いまどんな崖の、どのふちに爪先をかけているかを。それを知っているのは、この場で、走ひとりだ。この眼を持つ、走だけ。


 止めれば、桐生は生涯でいちばん高いこの場所から、突き落とされる。「またかよ」と、思うに決まっている。二年間ずっと、「焦るな」「今は走るな」と抑えられ続けた、その果てにだ。仲間のために、あと少し走りたいだけなのに、また、走に止められる。だが――止めなければ、脚は壊れる。今度こそ、二度と戻らないところまで。


 だが、と、凍りついた頭の隅で、走は思う。あの大人たちと、俺とは、一つだけ違う。あいつらは、俺を"もう要らない"から座らせた。切り捨てるために、止めた。俺は、違う。俺は、こいつをもう一度走らせるために、いま止める。同じ言葉、同じ顔をしていても、その一点だけは、天と地ほど違う。――そこに賭けるしか、ない。


 走は目を閉じ、そして、開けた。奪う側の顔をした自分に、はっきりと気づきながら。


 それでも――走の口は、開いた。

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